このブログ内を検索
新しい記事
記事のカテゴリー
            
過去の記事
プロフィール
            
コメント
トラックバック
sponsored links
その他
無料ブログ作成サービス JUGEM

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

at , スポンサードリンク, -

-, -

『インド人の頭ん中』

 

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

この本は、ふとしたきっかけでインドのデリーに移り住み、そこで4年間一人暮らしをした女性が、日々遭遇した仰天するような出来事と激しいカルチャーショックの数々を、ユーモラスに描いたエッセイです。

著者の冬野花氏は、住む部屋を自分一人で探すことから始まって、次から次へと果てしなく襲いかかる生活上のトラブルに対処していくのですが、それはまさにインドとの闘いでした。

夏のインドの猛烈な暑さはいうまでもなく、日常的な停電・断水、日本食はおろか牛肉・豚肉・酒類さえなかなか手に入らない食生活、日本的な気配り・繊細さ・時間の正確さとは正反対のインド的スタンダード、カースト制度のしがらみから生み出される信じられないようなインド人の思考・行動パターン、さらには、女性だというだけで差別的な扱いを受けたり行動の自由を奪われてしまう現状……。

それでも、彼女はヒンディー語を覚え、カルチャーショックを乗り越えて、自分のささやかな暮らしを確立していきます。

ちなみに、似たような困難は、インドに赴任する日本企業の駐在員もみな経験しています。その詳細は、以前にこのブログでも紹介した、山田和氏の『21世紀のインド人』に描かれているのですが、駐在員については、会社から物心両面のサポートを受けられるだけまだマシかもしれません。

冬野氏の場合は、インドに関する予備知識もなければ何のツテもなく、女性の一人暮らしであるうえに、あのデリーです。インドを個人旅行した方ならご存知でしょうが、デリーは旅人にとっては鬼門ともいえる街で、バックパッカーが巻き込まれるトラブルの多さと街の印象の悪さではかなり有名なところです。私も、よほどの必要にでも迫られない限り、デリーに長居をしようとは思いません。

彼女がそれを知った上で、あえてデリーを選んだのかどうかは分かりませんが、いずれにしても、そこで長期間生活をするというのは、それだけで、日本人にとって最高難度のチャレンジの一つなのではないかという気がします。

それでも、冬野氏は必要以上にシリアスになることもなく、また、インドの歴史とか政治・経済の小難しい話などは一切なしに、あくまで一人の生活者の具体的な体験を例に挙げながら、ドタバタ劇には事欠かないインドの生活と、ツッコミどころ満載のインド人の不思議な生態を、歯切れよくユーモラスに描いています。

ただ、ときどきあまりにも言葉の選び方が率直すぎて、読んでいてハラハラするところもありますが……。

私は旅人としてインドを回っただけですが、この本には、私自身がインドで感じたり考えたりしたことと重なる部分があちこちにあって、深く共感を覚えました。

インドのユニークな生活文化の話を始めとして、値段交渉の話や、交通機関の話、さらにはインド人に対する怒りについてなど、インドに住んだり旅したりしたことのある人なら、けっこうおなじみのテーマも多く、また、インド人に対する著者のツッコミの数々に、大いに溜飲を下げる方もおられるのではないでしょうか。もちろん、インドに行ったことのない人でも気軽に楽しめる内容になっています。

それにしても、このエッセイは、一見したところ思いつきで書かれているようでいて、インドの社会やインド人について、けっこう鋭く本質を突いているように思われるところもあります。

これは、冬野氏の才能というべきなのでしょうか、それとも、インドで何度も何度も痛い目に遭い、度重なる怒りに耐え続けた人間は、誰もが精神をすっかり鍛えられ、哲学的になり、インドに対する深い理解に到達するということなのでしょうか……。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします



JUGEMテーマ:読書

 

at 18:36, 浪人, 本の旅〜インド・南アジア

comments(2), trackbacks(0)

旅の名言 「そこでなんか僕の頭のチャンネルが……」

 そこでなんか僕の頭のチャンネルが変わったんですね。ていうのは貴重品は命だと言われていたわけでしょう。それさえあれば生きていけるというものがないわけですよ。取られたら死ぬと思っていたわけだけど、死んでないんですよ。当たり前ですよね、パスポートも金も航空券も人間が生きていくうえで必要じゃないから。食べ物とかそういうのは必要だけど。生命活動を維持するのにはそれら貴重品は必要じゃないわけですよ。だからなくなっても死なないし、そうやって助けてくれる人もいる。そのときに「意外と生きていけるんだな」って思ったんですよね。

『放っておいても明日は来る』 高野秀行 本の雑誌社 より
この本の紹介記事

辺境作家の高野秀行氏が、東南アジアでユニークな人生を切り開いた人々と語り合うトーク集、『放っておいても明日は来る』からの一節です。

この本の最後で、高野氏が作家になるまでのさまざまなエピソードが語られているのですが、その中に、彼が学生時代に初めてのインドで遭遇した衝撃的な体験があります。

インドを一カ月ほど旅して、そろそろ帰国という頃、彼はカルカッタで部屋をシェアした人物に騙され、パスポートなどの貴重品を含めた荷物すべてを盗まれて一文無しになってしまいました。加えて、犯人とグルだと思われるホテルの従業員に監禁されそうになったため、彼は必死でそこを逃げ出します。

彼は、たまたま知り合いになっていたインドの小学生に助けを求めました。その少年の家族は、一家が暮らす三畳ほどのアパートに泊めてくれた上、貧しいにもかかわらず、高野氏にとても親切にしてくれました。

その後、彼はなんとかトラブルを克服して帰国まで漕ぎつけるですが、そうした一連の体験が、彼の「頭のチャンネル」を切り替えてしまうことになったのです。

旅行者なら誰でも、現金やパスポートを命のように大事にします。旅行中、万が一にもそれらをなくしたり奪われたりすることのないよう、貴重品袋に入れてみたり、カバンの底に隠してみたりと、涙ぐましいさまざまな努力をするはずです。

それもこれも、理由は簡単で、勝手も分からぬ異国の地で、それらの大事な品々を失うことにでもなったら、その後どんなひどいことになるか、見当もつかないと思うからです。

しかし、旅行者のごく一部とはいえ、その「万が一」が、実際にその身に起きてしまう人がいます。

高野氏もその一人でした。そして、その最悪の事態に見舞われたとき、彼は意外なことに気がついたのでした。

「取られたら死ぬと思っていた」ほどのものを奪われたにもかかわらず、それでも自分は無事に生きているばかりか、周りの人の思いがけない親切や自分自身の機転のおかげで、事態は少しずつ前向きな方向に動き始めるのです。

彼は、自らの体験を通じて、たとえ重大なトラブルに巻き込まれても、人間、「意外と生きていけるんだな」と思うようになりました。そして、結局のところ、パスポートや現金などというものは、人間の生命活動そのもののレベルとは別の、人間同士の約束事の世界に属するものに過ぎないのだということを、実感をもって認識してしまったのでした。

一時的にせよ、無一文で異国に放り出されるというのは非常にショッキングな体験ですが、それによって高野氏は、この世界で生きていくことに対して、突き抜けた認識を得たのではないでしょうか。

私の場合は、そういう経験をしたことがないので、このあたりはただ頭の中で想像することしかできないのですが、それは、自分が立っている地面がいきなり崩れたと思ったら、実はその下にも世界が広がっていて、そこから今までの世界を見上げてみたら、全く違った風景が見えてきたという感じなのかもしれません。

そしてそれは、実際にトラブルを克服して何とか帰国できたという結果以上に、彼の「頭のチャンネル」をガラリと切り替え、生き方を大きく変えるような意味とインパクトがあったのではないかと思います。

ただし、言うまでもないことかもしれませんが、旅先での大きなトラブルは、常にそうした深い体験を旅人にもたらしてくれるとは限りません。

高野氏の場合は、インドで無一文になったことが、世界と自分に対する新しい認識のきっかけをもたらしてくれましたが、似たような体験をしても、人によってはそれはまさに究極の恐怖体験であり、人間不信への引き金であり、二度と思い出したくない、大きな心の傷になるだけで終わるかもしれません。

私も、旅先での思いがけないトラブルが、何かの拍子に旅人の「頭のチャンネル」を切り替え、その世界観や人生観をポジティブに変えていくということは十分にあり得ると思っているのですが、だからといって、あえて自分もインドで一文無しになってみようとはさすがに思いません……。


JUGEMテーマ:旅行 

at 19:39, 浪人, 旅の名言〜危機と直感

comments(0), trackbacks(0)

南京虫の逆襲

先日、ネット上のある旅行記を読んでいたら、欧米の国々で今、南京虫の被害が増えているという話がありました。
「夢の“世界一周”にチャレンジ 第28回 先進国でも繁殖中!? 南京虫の驚異!」(webR25)

南京虫とはトコジラミの別名で、昼間はベッドやソファーの隙間に潜み、夜になると人間の血を吸って、なかなか消えない咬み跡と、ひどいかゆみを残していく害虫です。
ウィキペディア 「トコジラミ」

昔の本などを読んでいると、安宿ときたら南京虫、というのがお決まりのパターンで、体中をかきむしり、眠れない夜を過ごす旅人の姿がよく出てきます。現在でも、開発途上国を旅するバックパッカーなら、一度や二度はその被害に遭った経験があるのではないでしょうか。私も、南京虫に全身を喰われた哀れな旅人を見かけたことがあります。
記事 「南京虫大発生」

ただ、私自身の経験からすれば、例えばアジアの国々でも、今ではよほどの僻地に行くとか、極端に不潔な宿に転がり込んだりでもしない限り、南京虫にやられることはまずないといっていいし、私もこれまでに被害を受けたという記憶がほとんどありません。

開発途上国といえど、バックパッカーが泊まるような安宿の水準は年々少しずつ向上しているし、安くて清潔な宿についての情報も、ガイドブックやインターネットを通じて、多くの旅人の間で共有されています。もちろん例外はあるでしょうが、全体的な傾向ということでいえば、南京虫と格闘する長い夜というのは、着実に昔話になりつつあるのだと思っていました。

しかしこの世界、やはりそう簡単にうまくはいかないようで、意外なところで南京虫の逆襲が始まったようです。上の旅行記によると、欧米で大発生している南京虫は殺虫剤への耐性を身につけていて、それが旅人の服や荷物にまぎれて、あちこちに拡散しつつあるというのです。

これは何とも皮肉な話です。私たちは、南京虫みたいな害虫には、開発途上国の、しかも不潔な安宿みたいなところでしかお目にかかれないだろうと信じ込んでいるわけですが、実はむしろ、豊かで清潔なはずの自分たちの社会で、それが蔓延していたのです。

この原因として一番大きいのは、もちろん薬剤への耐性ということなのでしょうが、もしかすると、私たちがもう長いこと南京虫とは無縁に暮らしてきたので、虫害を防ぐための生活の知恵を失ったり、部屋の衛生状態に無頓着になってしまい、それが被害の拡大を招いているという可能性もあります。

それはともかく、耐性を身につけた南京虫は、やがて世界中に拡散することになります。豊かな国々では、その対策のためにある程度のカネをつぎ込めるのでしょうが、カネをかけられない国々の安宿では、かつての旅人の悪夢がよみがえることになるのでしょうか?

そうなると、昔の旅がそうであったように、旅というものが再び、一種の苦行や試練とみなされる時代がやってくるのかもしれません。

まあ、ウィキペディアによれば、南と北とでは南京虫の種類が違うので、欧米の人々を悩ませているスーパー南京虫が、そのまま熱帯の国々まで広がることはなさそうですが……。


JUGEMテーマ:ニュース

at 18:51, 浪人, ニュースの旅

comments(0), trackbacks(0)

『奇跡の生還へ導く人 ― 極限状況の「サードマン現象」』

文庫版はこちら

 

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

 

この本は、探検家や登山家が極限状況で体験するといわれる、いわゆる「サードマン現象」の豊富な実例を集め、それが起きるメカニズムについて、さまざまな視点からの考察を加えたユニークな本です。

サードマン現象とは、極地や高山などの過酷な環境で、しかも生還を期しがたいような絶望的な状況に追い込まれた人間が、(多くの場合目に見えない)何者かが自分のそばにいる気配を強烈に感じるという現象です。体験者は、その「存在」に守られ導かれているような安心や希望を感じ、それが彼らに状況を切り抜けるための努力を続けさせ、結果的に、奇跡的な生還を果たすことがあるのです。

もちろん、その現象は誰にでも起きるわけではなく、また、それを体験したからといって、必ず生還できるというわけでもないようですが……。

ちなみに、サードマンという言葉そのものは、T・S・エリオットの有名な『荒地』という詩の中の、
 
いつもきみのそばを歩いている第三の人は誰だ?
数えてみると、きみとぼくしかいない
けれど白い道の先を見ると
いつもきみのそばを歩くもう一人がいる

という一節からきています。そして、この詩は、1916年、探検家シャクルトンの一行が南極周辺の海域で遭難し、残された小舟でサウスジョージア島へと脱出する壮絶な旅の途中、目に見えない何者かが一緒にいたという有名な体験談にインスピレーションを得たとされています。

この本には、登山家、極地探検家を始め、単独航海家や海難事故の生存者、戦争捕虜やテロ事件の生還者、ダイバー、パイロット、さらには宇宙飛行士まで、さまざまな状況でサードマン現象を体験した人々の事例が収められています。

どれも悲惨で壮絶な話で、事例を読むだけで圧倒されます。そして、どんな状況でも希望を失わず、ひたすら生き続けようとする彼らの姿と、その強い意志が可能にした奇跡の生還劇を読んでいると、心が熱くなってきます。

著者のジョン・ガイガー氏は、こうした事例をまとめる一方で、サードマン現象の要因についてさまざまな側面から考察し、それがどうして起きるのか、その謎を解き明かそうとしています。この本を、その謎解きのプロセスとして楽しもうという方にとっては、以下の記述はネタバレになりますのでご注意ください。

サードマン現象は、かつては、神や守護天使がさしのべる救いとして受け止められることも多かったのですが、現在では逆に、それを人間の生理的・心理的機構が生み出した幻だと見なしがちな傾向があります。

例えば、多くの科学者はそれを、激しい体力消耗や環境の単調さによって引き起こされる感覚上の幻影や幻覚、あるいは、食糧不足による血中グルコース濃度の低下や、高所脳浮腫、低温ストレスなどの症状として説明しようとします。

しかし、ガイガー氏は、サードマン現象にはそれ以上のものがあるとして、さらなる探求を続けます。科学者の言うように、それが単に心身の不調による幻覚だとするなら、それが体験者の心の支えとなり、冷静で的確な努力を続けさせる理由を説明できないからです。

実は、サードマンに似た「存在」の現象は、アメリカ先住民やアジア・アフリカの伝統的な通過儀礼の中に、また、孤独やストレスにさらされた子供の多くが体験する見えない遊び相手、あるいは、愛する人を失った直後に遺族が感じる死者の強い気配など、雪山や極地にかぎらず、私たちの日常生活の中にも見られるのです。

そのように、この現象をもっと広い視野でとらえたとき、それは、極端な環境や特殊な人々だけに特有なものであるというよりはむしろ、個人では対処しきれないほどの激しいストレスにさらされた人間が、ある程度共通して経験するプロセスの、一つの表れなのではないかという感じがしてきます。

ガイガー氏は、サードマン現象が起きるカギとなり、その体験者に意味を与える基本原則として、

1.退屈の病理(雪山・海上・砂漠・空など、周囲が単調で感覚入力がほとんどないことによって引き起こされる状態)
2.複数誘因の法則(本人にストレスを与えるさまざまな要因が重なっている)
3.喪失効果(極限の状況で同行者を失ったり、愛する者が死んだりしたとき、「存在」の感覚が孤独感を抑えるための心理的な力になる)
4.ムーサ・ファクター(本人のパーソナリティが、なじみのない新しい経験などを受け入れられるか)
5.救済者の力(自分が最後まで生き延びることを信じる姿勢)

の五つを挙げています。

これらは、体験者の心身の両側面の要因によってサードマン現象を説明するという点で、より総合的になっていて、単純な幻覚説みたいな説明よりは納得できるものですが、サードマン現象の本質に迫り切ったというよりは、多くの事例からとりあえずその共通項を取り出してみたという感じです。

それでもガイガー氏は、最終的にはもっと踏み込んで、サードマン現象は、生き延びようとする本人の強い意志、つまり自分の一部が外部の存在として知覚されるものであり、脳の側頭頭頂接合部にそうした「存在」の感覚を生みだす仕組みがあって、人間が仲間から隔絶された場所で極限状況に追い込まれたりすると、その「天使のスイッチ」が入るのではないか、という結論を示唆しています。

しかし、彼自身も触れているように、それは、現象が「どのように」起きるかを説明することはできても、「なぜ」そうなのかを説明してくれるわけではありません。

刀折れ、矢尽き果てた絶体絶命の局面で、生きるための最後の力を人間に与えてくれるのが、仮に自分の幻影であるとしても、本人の心の中で、それが自分以外の仲間の「存在」として映るのはなぜなのでしょう?

また、親密な他者として体験されるその「何か」が、自分に究極の力を与えてくれるという仕掛けを人間の心身に植えつけたのは、単なる進化の偶然なのでしょうか? それとも、そのような仕組みになっていること自体が、人類に対する、何か深い意味をもつメッセージなのでしょうか?

「サードマンは希望の媒介者である」とガイガー氏が言うとおり、誰かがそばにいるという実感、「私たちは一人ではないという信念と理解」が、極限状態の人間に最後の希望と力を与えます。そうした仕組みが、人間が口先で語るきれいごとではなく、私たちの心身の深い部分にあらかじめセットされていることに、私は暖かな希望を感じました。

ところで、私自身は、この本で初めてサードマン現象という用語を知ったのですが、これと似たパターンの話自体には、これまで何度も出会ってきました。例えば、いわゆるスピリチュアル系の世界では、変性意識状態において、自分を見守り導く「存在」に出会うのはおなじみの話です。

また、お大師さん(弘法大師)がいつもお遍路さんと一緒に足を運んでくださっているという、四国八十八カ所巡礼のあの有名な言葉、「同行二人」も頭に浮かびます。

何らかのきっかけで日常的な意識の世界を超え、ふつうの言葉では説明できないような体験をするという点で、サードマン現象には、スピリチュアルな世界と共通するものがあるといえるかもしれません。

一冊の本に、多数の事例とさまざまなトピックが詰め込まれているせいか、この本には少し読みにくいところもあります。それでも、壮絶な旅の記録として、また、人間の本質に対するユニークなアプローチとして、読むに値する素晴らしい本だと思いました。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします



JUGEMテーマ:読書

 

 

at 18:45, 浪人, 本の旅〜世界各国

comments(0), trackbacks(0)

謹賀新年 2011

新年、明けましておめでとうございます。

昨年は、サッカーワールドカップの日本代表の活躍とか、チリ鉱山の奇跡の救出劇とか、尖閣ビデオの流出や各国政府を震撼させたウィキリークスなど、さまざまな出来事がありました。

世界中の情報がほぼリアルタイムで入ってくる今、私たちの気を引くホットニュースは常にめまぐるしく入れ替わり、少なくとも退屈する心配だけはありませんが、日本を覆う全体的な雰囲気ということになると、世の中の閉塞感は相変わらずです。

しかし一方で、とどまることのないグローバル化とインターネットの発展は、日本を含めた多くの国々の古い社会システムを、根底から崩し始めているようにみえるし、今はまだはっきりとした姿を見せない新しい世界のあり方をめぐって、新旧世界のせめぎ合いは次第に激しさを増しているようです。

ただ、その攻防は、さまざまな事情を詳しく知れば知るほど非常に興味深いものがあり、また、その行く末が全く見えないスリルもあります。考えようによっては、今は非常に面白い時代といえるのかもしれません。

もちろんそれは、自分もまた、その激動の中に否応なく巻き込まれ、翻弄されていることを忘れることができればの話ですが……。

2011年が、皆様にとって、楽しく、実り豊かな一年でありますよう、お祈り申しあげます。

そしてもしも、ふと思い出すことがあれば、何かのついでにこのブログを訪ねてくださいますよう、よろしくお願いいたします……。

2011年 元旦


JUGEMテーマ:日記・一般

at 10:38, 浪人, つれづれの記

comments(0), trackbacks(0)