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『インドなんてもう絶対に行くか!! なますてっ!』

Kindle版はこちら

 

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

 

インドを旅するバックパッカーが、インドとインド人にひたすらツッコミを入れまくる、『インドなんて二度と行くか!ボケ!! …でもまた行きたいかも』で、旅行記の新しい世界を切り開いたさくら剛氏の、インド旅行記第2弾がこの本です。

今回のさくら氏は、アフリカからユーラシア大陸に入って西から東へ横断し、中国をめざす長い旅の途中で、3年ぶりに再びインドに入国します。

彼は前回の体験に懲りて、旅行者を騙しボッたくるインドの小悪人を避けるため、いい人が比較的多いとうわさの南インドを回るはずだったのですが、いつの間にかデリー、ジャイプル、バラナシといった、旅行者に悪名高い北インドの街に再び入り込んでしまい、なぜか前回と同じ絨毯屋に連れていかれたり、見覚えのあるインチキ占い師のもとを訪ねたりして、相も変わらずインド人たちとの激しいバトルを展開します。

今回は一応、南のムンバイやゴアにも足をのばしたり、あのカオスの祭り「ホーリー」をデリーで迎えたり、ブッダガヤに足を運んだりと、行き先や体験の内容に多少の変化も見られるのですが、彼の行動パターンや旅行記の文体は、前回の旅とそっくりです。
ウィキペディア 「ホーリー祭」

それをワンパターンやマンネリとみる人もいるでしょうが、私個人としては、ツッコミ旅行記というスタイル自体はエンターテインメントとして独特の完成度に達しているし、著者と笑いのセンスが合う人ならば、大いに楽しんで読めると思います。

ところで、このお笑い旅行記を読んでいて、ふと思い出したことがありました。

日本に存在する巨大仏を訪ね歩いた異色の旅行記、『晴れた日は巨大仏を見に』の中で、著者の宮田珠己氏が次のようなことを書いています。

かつて、大仏というものは、救済としての仏教の象徴としてありがたく参拝する対象だったのですが、それはやがて時代の移り変わりとともに、巨大構造物を見上げるスペクタクル感を楽しむものへ、さらには人々から見向きもされなくなり、むしろ巨大なだけのその存在の無意味さによって失笑されるものへと変わっていきました。

宮田氏は、その歴史をふり返った上で、巨大仏が社会から期待される役割が、「救い→驚き→笑い」というように変化したと鋭く指摘しているのですが、インド旅行記にも、似たような傾向が見られるような気がします。

かつて、日本から遠く離れたインドの土を直接踏むことは、選ばれたごく一部の人間にしか許されない特権でした。当然、その旅の記録は、そこに行けない人々にとっては貴重な情報源であり、ありがたいお話でも拝聴するつもりで旅行記をひもといた時代があったはずです。

やがて、より多くの人間がインドを訪れるようになると、ただインドに行ったという事実だけでは読んでもらえなくなり、インドという異文化に触れた驚きなど、その内容の深さや衝撃度によって読まれる時代がやってきます。

しかし、格安航空券が普及し、充実したガイドブックが出回り、現地の受け入れ態勢も整備されて、さらに多くの旅人が自由にインドを動き回れるようになると、もはや珍しい体験とかスペクタクルな光景の紹介だけでは、旅行記を読んでもらえなくなります。

この本に限らず、今やインド旅行記は、インドに対する著者のリアクションの面白さ、それも、読者を楽しませるエンターテインメントとしての面白さがないと、手にとってもらえない時代に入っているのかもしれません。

人々にとって、自分の人生の限られた持ち時間の使い方として、あえてインド旅行記を読むという選択をする意味は次第に失われつつあり、そしてそれは、インドだけの話ではなく、海外旅行記そのものが、同じような道をたどっている気がします。

ただ、旅行記のありがたみが薄れつつある(ように見える)としても、それは、実際に旅をする意義がなくなったことを意味するわけではありません。むしろ、誰もがその気になりさえすれば、地球上のほぼあらゆる場所を旅することができる時代だからこそ、人の書いた旅行記を読む以上に、自分が実際に現地に行ったり、そこで何かを感じることには大いに意味があるのではないかと思います。

だとすれば、それがお笑いであろうと何であろうと、誰かがこうした本を読んで、自分も旅に出てみたいと思うきっかけになるなら、それは現代の旅行記として、十分に役目を果たしていることになるのかもしれません。

ただし、これは言うまでもないことですが、インドには、この本に登場するような愛すべき小悪人だけしかいないわけではありません。どこの国でもそうですが、インドにもまた、もっと深い闇の世界は存在するし、旅行者が巻き込まれるトラブルにしても、いつも笑って済ませられるものばかりではないはずです。

それでも、実際にインドを旅してみたいと思われた方には、あの『深夜特急』の著者、沢木耕太郎氏にならって、以下の言葉を贈りたいと思います。

「気をつけて、でも恐れずに」……。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします



JUGEMテーマ:読書

 

 

at 18:47, 浪人, 本の旅〜インド・南アジア

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ことばのリセット

もう何日も前になりますが、テレビかネット上で、最近の若い世代が使う「普通においしい」という言い回しが話題になっていました。

そのときは、まあ、よくある話題の一つだと思ってそのままスルーしてしまったのですが、なぜか、その後もしばらくそのことが頭にひっかかっていました。

そこで、改めてネットで調べてみると、話題の発端になったのは1月末に、ある新聞社の論説委員が書いたコラムのようで、その中で彼は、「普通においしい」という言葉をおかしな表現として取り上げていました。
痛いニュース(ノ∀`):毎日記者「ここの店、うまいの?」 若者「普通においしいですよ」 記者(普通にって何だ…?)

ただ、こうした表現が話題になるのはこれが初めてではなく、数年前からあちこちで議論されてきたようだし、また、この言い回しの意味自体についても、人によってそのとらえ方にかなりのバリエーションがあるようです。

例えば、これを、すごくおいしいとか、思っていた以上においしいという意味にとる人がいるかと思えば、金額どおり・期待値どおりの味という意味だとする人もいます。また、これは誰が食べてもおいしい、つまり一部のマニア向けのうまさではないという意味だと受け止める人もいれば、お世辞とか何らかの留保なしに、素直においしいという意味だという人もいます。

私自身は、言葉というのは人間同士のコミュニケーションのために常に創造されつづけているものだと思うし、それがどんどん変化していくのも当然だと思っています。だから、どんな言葉であれ、それが個人的に気に入らない(から自分では使わない)ことはあっても、間違っているとか、おかしな表現だというふうには思わないのですが、一方で、実際の解釈にこれだけ幅があるようでは、同じ言い回しを使う若い世代同士でも、その意味をめぐって混乱が生じそうな気がします。

それはともかく、この「普通においしい」という表現の意味として、私がもっとも気に入ったのは、お世辞とか留保とかは抜きにして、とにかく素直においしい、という解釈でした。

今や、テレビにしても、新聞・雑誌にしても、インターネットにしても、あらゆるメディアに食に関する話題と情報があふれています。私たちはそうした情報に日常的に接しているために、食に関しては豊富すぎるほどの知識をもっているはずだし、また、いま何がおいしいとされ、何が流行っているのか、グルメランキング的な情報を気にして行動している人も大勢いるのではないかと思います。

ただ一方で、そういう状況におかれた私たちは、何かがおいしいという話をするとき、周囲にあふれるさまざまな情報のことを無視できないし、味覚の違う他人がその発言をどう受け止めるか気になってしまうこともあるでしょう。また、場合によっては、「大人の事情」で、たいしておいしくもないものをおいしいと言ったりすることさえあるかもしれません。

そこで、そういう面倒くさい配慮のことをいったん忘れて、あくまで自分としてどう感じるかを率直に言うならば、おいしい、というニュアンスを簡単に表現するために「普通においしい」という言い回しが生み出されたのだと考えると、何となくいろいろなことが腑に落ちる気がするのです。

最近のような情報過多の世の中では、情報を発信する側は、情報が他の情報の中に埋没してしまわないよう、また、受け手の側に飽きられないよう、他とは違う明確な特徴を常に打ち出し続けざるを得ないし、受け手に印象づけるために、よりインパクトのある表現を用いざるを得なくなっています。

テレビのグルメレポートなどは、まさにそのいい例で、それほどめずらしくもなさそうな料理を口にして、派手なリアクションで感激してみせたり、その味の特徴を極端なたとえで表現したりしますが、その傾向も、年々強くなっているような気がします。

つまり、マスメディアで流通する食の情報に関しては、それを表現する言葉とか身ぶりにインフレのような現象が起きていて、今では、グルメレポーターがただひとこと「おいしい」と言ったくらいでは、そのおいしさが受け手に伝わらないどころか、むしろたいしておいしくないような印象を与えてしまいます。

そして、私たちのほとんどが日々マスメディアに接している以上、これはテレビの中だけで収まる話ではなく、同じ日本語が使われている日常の世界にも、そうした表現のインフレがかなり大きな影響を与えているのではないでしょうか。

しかし、食事というのは誰もが毎日何度も行う、ごく日常的な営みです。だから、何かを食べておいしいと思う幸せも、日常的でありふれたものです。そういう幸せを感じるたびに、あるいは、そういうささやかな感動を人に伝えるたびに、まるでテレビのグルメレポーターのようにいちいち大げさに表現していたら、私たちは疲れ果ててしまうでしょう。

また、巷にあふれるグルメ情報とか、人それぞれに違う食の好みのことまで配慮した上で、自分の感じるおいしさというものを正確に伝えようとすれば、今度は面倒な味覚の修練とか表現力とかが問われることになり、下手をすると私たちは何も言えなくなってしまいます。

そんなふうに、いちいち大げさに表現したり、味に関する表現力を磨いたりしなければ、自分の感じる日常的でささやかな感動をうまく伝えられなくなってしまうのだとしたら、こんなに面倒なことはありません。

そこで、このジレンマを解決するために、自分がこれから話す言葉は、テレビなどのマスメディアで使われている言葉や身ぶりとは基準が違う、つまり、芸能人のハイテンションな表現でも、味覚の専門家による厳密なジャッジでもなく、あくまでごく普通の、日常の生活感覚に根ざした基準を使っているのだという意味で、「普通に」という言葉を頭につけるようになったのではないかという気がするのです。

いってみれば、これは、マスメディアによってインフレが進んでしまった言葉や身ぶりの基準を自分たちの手元に取り戻すための、言葉のデノミみたいなものなのではないでしょうか。

現行の通貨が激しいインフレをおこし、経済活動に支障が出るようになったら、通貨の単位を切り下げ、デノミをして新しい基準で仕切り直すように、普通の暮らしをしている人々は、マスメディアによってどんどん大げさになっていく言葉や身ぶりをそのまま受け入れると日常生活に支障をきたすので、それとは違う、私たち自身の言葉の基準を示す意味で、まるで新しい通貨単位を示すみたいに、「普通に」という表現をつけ加えるようになったのではないでしょうか。

もっとも、これは通貨のデノミのように、政府当局が上から宣言して一斉に行われるようなものではありません。また、誰か言葉に関して鋭い感受性をもつ文化人が、率先して使い始めたものでもありません。むしろ逆に、生活していく上で新しい言葉の必要を感じるようになったごく「普通」の人々が、ほとんど自然発生的に使い始めたのだと思います。

それは、日常の暮らしのレベルで、お互いのコミュニケーションのための言葉を守ろうとする、人々の生活の知恵といえるのかもしれません。そしてまた、マスメディアが結果的に混乱させてしまった言葉の経済を、ほんのちょっとした工夫でリセットし、言葉を自分たちの手に取り戻そうとする、したたかな対抗戦略であるといえるのかもしれません。

……つい、いつものように妄想を膨らませてしまったようです。

「普通においしい」とは正確にはどういう意味なのか、その解釈にさまざまなバリエーションがあるように、そうした言い回しが生まれた背景についても、さまざまな理由があるのでしょう。それについて、ああだこうだと根拠のない妄想を繰り広げるのは、この表現がおかしいと批判するのと同じくらい、意味のない行為に違いありません……。


JUGEMテーマ:日記・一般

at 18:25, 浪人, つれづれの記

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旅人の錯覚

バックパッカーとして、いわゆる開発途上国を旅していると、その国の自然の美しさや人々の素朴な優しさを感じることが多いのですが、それに加えて、旅の不便やトラブル、つまり、現地の食生活の単調さとか娯楽のない田舎生活とか移動の不便さ、さらにはワイロを要求する役人とか旅行者相手の小悪人とのバトルなども含めた、トータルとしての異文化体験を面白がっている自分に気がつくことがあります。

もちろんそれは、自分がいつでもそこから脱出できる、旅行者という気楽な立場だからで、その生活の不便やトラブルを永遠に耐え忍ぶ必要がないと分かっているからこそ、楽しんでいられるのだろうと思います。

そして、それはまた、自分の旅している土地はあくまで他人の国である、つまり、自分が見ている物事は、結局のところすべて他人事なのだという一線を、心の中で引くことができるからなのかもしれません。

しかし、そんな国々に何度も足を運ぶうちに、その土地の生活者ではないはずの自分が、いつの間にか土地と人々に次第に思い入れを感じ始め、見聞きする物事を、もはや他人事にできなくなり始めていることに気づくこともあります。

それを、あくまで旅人という立場に安住した、無責任で安っぽい同情ととらえることもできるのでしょう。

しかし、よく考えてみると、旅人が心の中で引いている一線というのは、実は頭の中で引いた境界線に過ぎません。実際のところ、それがどんな土地であれ、人間が同じ場所に居続けて、そこに生活らしきものが生まれ始めれば、そして、それが一日でも長くなればなるほど、いくら頭の中でそれを否定しようとも、そこは少しずつ自分の土地になってしまうのではないでしょうか。

もちろん、旅人は同じ国に何度旅しようと、どれだけ長く滞在しようと、基本的に国籍が変わるわけではないので、役所の書類上では、その人は常に外国人でありつづけるわけです。

それに、異邦人としての自分の外見は変えられないし、言葉の問題もあるし、自分が日本人であるというアイデンティティも、そう簡単に変化してしまうものではなく、たとえ2、3年同じ国に滞在したところで、その国の人間として完全に同化できるわけではありません。

しかし、旅人の心の中で引いている境界線の方は案外もろいもので、現地でのさまざまな体験とか、それに伴う感情の波によって、かなりあっさりと浸食され、ボロボロになってしまいます。

だから、自分は単なる通りすがりの旅行者のつもりでいたのが、それに、現地の人からも異邦人と見なされ続けているにもかかわらず、ある日ふと、自分の心の中に、その土地や人々への意外に強い愛着と身内意識のようなものが芽生えているのに気づいて驚くことになるのです。

とはいえ、それはもしかすると私たち人間にとって当たり前のことなのかもしれません。

ちょっと話が大げさになりますが、人間にとって、この地球上の土地のすべてが、もともと私たちにとっての居場所であり、自分たちの土地であり、逆に、それ以外の行き場はありません。

私たちはつい、国籍や民族によって心の中に境界線を引き、自分たちの世界と他の世界を分けたつもりになってしまいますが、それらはあくまで私たちが便宜的に設定したものにすぎず、実際に現地に足を運んでみれば、あの有名な赤道とか日付変更線のジョークのように、そこに目に見える境界線などないのです。

だとすれば、ある土地が自分とは関係のない他人の国だと思うことは、錯覚というか、むしろ自分から無理やりそう思い込もうとしているだけなのかもしれません。

ただ、旅人が現地で体験する物事は、それが何であれ、私たちの心に非常にパワフルな影響を及ぼします。旅人が心の中にどれだけ堅固な境界線を引いていようとも、日々の体験が、それを少しずつ溶かしてしまうのです。

それは、ときには、旅人がこれまでの人生で築き上げてきた世界観を根底から崩してしまうような、ちょっと恐ろしい一面があるし、旅先の貧しい国々もまた自分の世界の一部であると認めることは、目の前で繰り広げられているさまざまな現実に対して、自分も責任の一部を担う覚悟を迫られるということでもあります。

しかし、それは同時に、私たちがこれまで心の中に抱き続けてきた「錯覚」を、一つひとつ手放していくプロセスなのかもしれません。

そうした数多くの「錯覚」を一部だけでも手放し、自分の心の中にいつの間にか開いた風穴から、ありのままの世界を少しだけ覗くことができるなら、それは、旅の大きな効用の一つだと言えるのではないでしょうか。

でもまあ、心の境界線が全て崩れてしまうと、今度はまともな社会生活が送れなくなってしまうので、旅で心に風穴を開けるのは、ほどほどにしておいた方がよさそうです。

この世界には、そうした心の中の境界線をしっかり守って、自分の属する世界と、自分とは違う人々の世界とを厳格に区別し続けている人が大勢いますが、逆に、そういう人々が大勢いるからこそ、世界が今のような姿で安定していられるとも言えます。

それにしても、日本を出て、ちょっと他の国をウロウロしただけで、心の中の境界線がボロボロ崩れ始めてしまうのは、私が島国育ちの日本人だからなのでしょうか。こんなことを書くと、他の日本人旅行者からは、それは私の心の強度に根本的な問題があるだけじゃないかと言われてしまいそうですが……。


JUGEMテーマ:旅行

at 18:46, 浪人, 地上の旅〜旅全般

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『魂の流木』

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

この本は、アメリカの経済学者マイケル・S・コヤマ氏が、波乱に満ちた自らの半生を描いた自伝的小説です。

以下、本の前半のあらすじをまとめましたが、かなりのネタバレになりますのでご注意ください。

物語の主人公、小山文治は1934年にタイで生まれますが、タイ人の母はすぐに亡くなり、父はビルマのイギリス軍を支援していたために、第二次大戦中に日本で処刑されてしまい、たったひとり残された文治は孤児院へ送られます。

終戦後、東京の孤児院を脱走した少年は、三宮の闇市になんとか居場所を見出しますが、学校に通えない彼は、もっと勉強をしたいという強い思いに駆られていました。やがて彼は、親切な高校の先生と知り合い、その先生の奔走のおかげで特別に高校への入学を許され、パン屋に住み込みで仕事をしながら優秀な成績で卒業します。

東京の大学に入ると、彼はすぐにアメリカからの奨学金を得てカリフォルニアの大学に留学します。彼は、タイ人の移民枠を使ってアメリカへ入国したため、大学院へ行く前に徴兵されることになるのですが、入隊するとG2(陸軍諜報部)の要員として抜擢され、士官学校へ入るために、帰化してアメリカ市民権を取得、マイケル・フミハル・コヤマと名乗るようになります。訓練を受けてパリに赴任したマイケルは、やがて、さまざまな秘密任務に従事するのですが……。

複雑で不幸な彼の生い立ちは、人生前半の彼に巨大すぎる困難となってのしかかりますが、死を前にした父が文治少年に残した教訓、「自分を信じて、危険を乗り越えて生きろ。同じ人生ならチャレンジして困難な道を進め!」という力強い言葉と、もっと学びたいという本人の強烈な思いが、闇市を放浪する孤児というどん底から、彼を這い上がらせました。

彼は、自分をとりまく状況に人生の主導権を渡すことなく、彼自身の求める人生を勝ち取っていきました。そしてむしろ、彼のその複雑な生い立ちそのものが、諜報という分野で彼に活躍の場を与えることになるのです。彼は、世界という舞台を広く大きく使って、先の見えない、ユニークな人生行路を歩んでいきます。

もちろん、言うまでもないことですが、そうした彼の成功は、彼ひとりの才能と努力だけで成し遂げられたわけではありません。この物語には、節目節目で彼の人生を大きく変えた、親切な人々との出会いが描かれています。しかし、もしも彼自身が人生の主導権を手放し、運命に身を任せてしまっていたら、そうした出会いはなかったか、あってもそれを生かすことはできなかったのでしょう。

この本は、「事実をベースにしたフィクション」ということなので、話のどこからどこまでが事実かは分からないし、たぶん細かな部分では脚色も加えられているのでしょうが、大筋としては、作者であるマイケル・S・コヤマ氏の身に起きたことがそのまま語られているように思われます。

語り口は、シンプルで淡々としていて、コヤマ氏の「本業」である、経済学関連の難しい話もほとんど出てきません。また、少年時代・青年時代の話と、諜報の秘密任務の興味深いエピソードが話の中心になっているのは、一般の読者向けに書かれたからなのでしょう。

それにしても興味深いのは、コヤマ氏が生活の拠点をあちこちと変え、さまざまな言語と文化を身につけ、また、社会における表と裏の顔を使い分けながらも、自分のアイデンティティに関して、哲学的な苦悩の袋小路に入り込んだりはしなかったということです。彼は、人並み外れた明晰な思考力に恵まれている一方で、自分が何者であるかという問題に関しては、不毛な思考のドロ沼に足をとられることがないのです。

むしろ彼は、自分の複雑な生い立ちそのものを、前へ進み続けるための手段として、プラグマティックに利用しているようにすら見えます。それは父の残した言葉に集約された、一つのシンプルな人生観が大きく影響しているのでしょうか。

ただ、この本を読んでいると、つい自分の人生と引き比べてしまいます。私がそうであるように、多くの読者も、文治少年に対して深い共感を覚えるよりはむしろ、自分にはこれほどの才能もなければ、彼ほどの努力もできないと思ってしまったり、彼のことが、自分とはかけ離れた特別な人間だと思えてしまうかもしれません。

ミもフタもない言い方をしてしまえば、これはどん底からの典型的な成功物語であり、読む人によっては、それを単なる自慢話として受け止めてしまう可能性もあるということです。それでも、今や功成り名遂げて一流の学者として生きる人物が、このような形で、あえて自らの暗い生い立ちを率直に告白するというのは、ほとんどないことなのではないでしょうか。

それはともかく、第二次大戦の前に生まれた人々というのは、コヤマ氏に限らず、誰もが本当にいろいろな体験を重ねてきたのだということを改めて思います。そして、今この時代に生まれ、あるいは青年時代を過ごしている人は、当時とは比べ物にならない豊かさの恩恵を受けている反面、彼のように波乱に満ちた、しかし痛快な人生を送る余地は残されているのだろうか、という気がしないでもありません……。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします



JUGEMテーマ:読書

at 18:44, 浪人, 本の旅〜旅の物語

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旅の名言 「この罰当たりな世界の……」

 ユタは風景が美しく、風土も興味深いところだったけれど、州境を越えてアリゾナに入り、しけた砂漠の真ん中にあるしけた町の、最初に目に付いたしけたバーで冷えたバドワイザー・ドラフトを注文してごくごくと飲んだときは、やはり正直に言ってほっとした。この罰当たりな世界の、避けようとして避けがたい現実が、僕のからだにじわじわとしみこんでいった。リアルにクールに。うむ、世の中はこうでなくっちゃな、と思った。


『辺境・近境』 村上春樹 新潮文庫 より
この本の紹介記事

作家、村上春樹氏の旅行エッセイ、『辺境・近境』からの一節です。

彼は、この本の「アメリカ大陸を横断しよう」の章で、東から西まで、一気に車で大陸を横断する旅を描いているのですが、その旅の中でユタ州を通り過ぎます。

ユタ州は、かつてモルモン教徒が開いた州ということもあって、現在でも飲酒や喫煙には制限があるそうで、村上氏が旅をした当時、酒を飲むためのバーは会員制のものしかなかったようです。
ウィキペディア 「ユタ州」

ユタ州からアリゾナ州へ抜けた直後に、村上氏がわざわざ「しけたバー」に転がり込んだのはそのためで、彼はそこでようやく冷えたビールにありつくことができました。

そして彼は、その冷たい一杯が、「この罰当たりな世界の、避けようとして避けがたい現実」であることを噛みしめつつ、同時に、その痛快な喉越しを心ゆくまで味わったのでした。

でも、もちろん、これは彼だけがそう感じたわけではなくて、たいていの旅行者なら、さまざまな国や地域で似たような体験をしているのではないかと思います。

例えば、飲酒に対する規制といえば、イスラム教の国々が有名です。国によってその規制の厳しさに多少の差はありますが、いずれにしても、旅人は酒を飲みたいと思ってもなかなかその機会にありつけず、人によっては苦しい禁欲生活を強いられることになります。

それに加えて、ラマダン(断食月)のときなどは、いくらイスラム教徒以外は関係ないとはいっても、実際に地元の人々がみんなガマンしている中で、日中に自分だけ堂々と飲み食いすることはさすがにはばかられます。

ただ、一方では、そうやって酒を飲んだりふつうに食事をしたりという、日本では何の制限もなく自分の思い通りにできる行動を自由にできない体験というのは、自分が今、全くルールの違う土地を旅しているのだということを、身をもって実感できる貴重な機会であるといえなくもありません。

そしてそれは、日頃とくに意識することもなく、当たり前のものとして受け入れている自分の日常生活を、別の視点から見直してみるきっかけにもなるのではないでしょうか。

とはいえ、旅人の多くは、酒を自由に飲めないような国があることを身をもって知ったとしても、そういう国に対して、人類の理想を実現しようとする素晴らしい国だとは、あまり思わないのではないかという気がします。

私個人としては、もちろん、酒の飲みすぎが体に悪いことはこれまでの自分の経験を通してよくよく分かっているつもりだし、「罰当たりな世界」を人間の意志でもっとましな世界に変えていこうという理想をもって、多くの人が長年にわたって一歩一歩努力を続けてきたことも知っています。

それでもやはり、一番大事なのは、個々人が自分の生活を自ら律しようとする意志なのではないかと思うし、人々のあるべき行動を強制的なルールで一律に決めるよりも、一人ひとりがどういう行動をとるか、その選択の自由が与えられている社会の方が、ほっとできるように思います。

村上氏はアリゾナの「しけたバー」でビールに喉を鳴らしながら、「うむ、世の中はこうでなくっちゃな、と思った」わけですが、私も、自分の暮らす社会では、たとえそれが「罰当たり」な習慣であろうと、ビールを飲む自由やタバコを吸う自由くらいは、そのままであり続けてほしいと思います……。


JUGEMテーマ:旅行

at 18:43, 浪人, 旅の名言〜土地の印象

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