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そろそろ桜の時期ですが……

今年も桜の季節になりました。

例年であれば、桜の開花予想がテレビでにぎやかに報じられ、各地の桜の名所が紹介され、花見で楽しく盛り上がる人々の姿が映し出されるところですが、今年はやはり、そういう雰囲気ではないようです。

大震災の直後であり、亡くなった多くの方々や、避難所に暮らす数十万の方々、そして、原発の事故現場で今も命がけの作業を続けている方々のことを思えば、桜の下で浮かれ騒ぐのがはばかられます。

会社や学校の新人歓迎会を兼ねた花見の多くは、世間体もあって自粛せざるを得ないだろうし、関東地方では、時間と場所によっては計画停電に重なってしまうかもしれません。

それに、スギの花粉だけでなく、空中を漂う放射性物質のことが気になって、あまり外で長い時間を過ごしたくない人もいるのではないでしょうか。

とはいえ、桜の花を楽しめる時期は限られています。

今このタイミングを逃せば、次に桜を楽しめるのは一年後になってしまいます。こればかりは、都合のいい時期がくるまでとりあえず延期して様子を見るというわけにはいかないでしょう。

震災で大きな被害を受けた方々の苦しみにくらべれば、花見をどうするかなんていう問題は、あまりにささいなことなのかもしれません。ただ、一方で、日本人にとっての桜は、単に美しい花というだけではない、特別な意味をもった存在でもあります。

欧米の国々とは違い、入学や就職など、人生の節目のセレモニーが4月の始めに設定されることが多いこともあって、短いあいだ華やかに咲き誇り、潔く散っていく桜の花を、人生の移り変わりに重ね合わせたり、新しい生活への期待と不安、あるいは出会いと別れの象徴として受け止めている人も多いのではないでしょうか。

日本人にとって、春は変化の季節です。そして、その代表的なシンボルが桜の花です。

再び暖かな春がめぐってきた喜びと、人生の移り変わりの早さ・はかなさを、野に出て桜を愛でながらしみじみと噛みしめるのは、日本人ならではの美しい儀式なのかもしれません。

しかし、今年の私たちにもたらされた変化は、あまりにも突然で、衝撃的でした。

3月11日の午後、まさに世の中の「空気」が一変しました。

それは被災地だけでなく、日本に暮らす全ての人々の生活に深く大きな影響を与え続けていて、近い将来、それが社会にどれだけのインパクトをもたらすことになるのか、現時点ではほとんど先が見えない状態です。

今年の花見は、ほんとうにどうなるのでしょうか。

これから全国各地で行われるはずの、桜まつりのようなイベントについては、早くも中止が決まったり、公園での花見の自粛を促すところも出ているようです。そういう「空気」が広がりを見せるようであれば、さすがにそれに抗ってまで、屋外で気勢を上げようという人は少ないかもしれません。

でも、一年に一度の桜を大いに楽しむという、私たちの自発的で民族的な祭典をすっかりあきらめてしまうというのも、どこか悔いが残ります。

それに、地震で直接の被害を受けなかった方でも、震災後これまでの間、仕事や生活の上でいろいろ大変なことが続いて、けっこうストレスが溜まっているのではないかと思います。本音をいえば、自粛ムードのことはしばらく忘れて、一度くらいは春らしく、楽しく盛り上がりたいという人もいるのではないでしょうか。

では、どうすればいいのでしょう?

桜の木の下でどんちゃん騒ぎをしていれば、さすがに周囲から冷たい視線を浴びることになるかもしれませんが、木の下でしばし立ち止まり、花を見上げるだけなら、それをとがめる人はいないはずです。

ちょっと風情はないですが、花を眺め、今年の桜をしっかり脳裏に焼きつけたら、あとはすみやかに居酒屋や自宅に移動して、そこで静かに酒を酌み交わすとか、あるいは、桜にちなんだアイテムをいろいろと用意して、インドアでささやかに桜を楽しむ工夫をすればいいのかもしれません。

もちろん、桜の下に陣取って、気の合う仲間とにぎやかに酒を飲み、料理をつつく楽しみに比べれば、どんなアイデアも色褪せて見えますが……。

結局のところ、実際に屋外で花見をするかしないかは、人それぞれの判断ということになるのでしょう。

ただ、言うまでもないことですが、酒を飲んでいっときは幸せな気分を満喫しても、酔いが醒めれば現実が待っています。それを思うと、特に今年の場合、かりにどんなに楽しい花見が実現できたとしても、日頃のモヤモヤを何もかも忘れて、春の喜びに浸るというわけにはいかないかもしれません……。


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at 18:51, 浪人, つれづれの記

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大震災から10日

3月11日の大震災から10日が経ちました。

東北・関東各地の避難所で過ごす数十万の方々は、依然として厳しい生活を強いられていて、福島の原発も、いまだに予断を許さない状況です。

それでも、危険な被災地で救援活動を続ける方々や、物流の確保や秩序の維持に奔走される方々のおかげで、救われた多くの命がありました。

また、原発の被害を最小限に食い止めるために、発電所関係者と自衛隊、消防、警察の方々によって、文字どおり命がけの仕事が今なお続けられています。

そして、テレビや新聞、インターネットでは、被災者への祈りと励ましの気持ちを表し、自分にできることを次々に行動に移している日本全国の人々、世界中の人々の姿が伝えられています。

震災の瞬間以来、悲惨な出来事や心を打つ出来事、デマや混乱や苛立ちといった、人間のありのままの姿を生々しく映し出す出来事など、そうしたものすべてが短い時間の中で続けざまに起こりました。

それは、まるで何か、得体の知れない圧倒的な力が絶え間なく押し寄せてくる感じでした。

私自身は、地震による直接の被害をほとんど受けていないのですが、あの日以来、すっかり呆然としてしまい、何をしていても、どこか上の空になっているような気がします。

生活上、必要最小限のことをする以外は、ついテレビのニュースを見たり、ネットで震災関連の記事を読んだりしてしまうのですが、そして、今なお時々刻々と変わっていく状況に、大きく心を動かされてもいるのですが、何か、そこでは一番肝心なことが伝えられていないような、きっと多くの人の心の中でモヤモヤとしているだろうことに、ハッキリとした言葉が与えられていないような、何とももどかしい気持ちになります。

それが何なのかは、もちろん私自身にもよく分かりません。

ただ、個人的には、3月11日を境に、周りの世界が一瞬でガラリと変わってしまったような、何の準備もないままに、自分が見知らぬ世界に投げ込まれてしまったような違和感を拭い去ることができません。

テレビは、少しずつ日常的な番組編成に戻りつつあり、私の周囲でも、表面的には今までとほとんど変わりのない、日常的な生活パターンが戻りつつあるようです。

もう少し時間が経てば、こういう違和感も自然に薄れていくのかもしれません。

それでも、もうしばらくの間は、これまでのような日常感覚に戻ることはできそうもない気がします。

震災の被害に遭われた方々の途方もない苦しみに比べれば、こんなことは、本当に取るに足りない、ささいな心の波に過ぎないのでしょうが……。


JUGEMテーマ:日記・一般

at 20:07, 浪人, つれづれの記

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東日本大震災

3月11日に起きた東北地方太平洋沖地震で被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。

犠牲になられた方々のご冥福をお祈りいたします。

また、被災地で危険を冒して救援活動を続けておられる方々に、感謝と尊敬の念を覚えます。

一人でも多くの方に救いの手がさしのべられますように。


Togetter 「被災地でないところで できること/するべきでないこと」
CNET Japan 「傍観者ではなく“当事者としてできること”--東北地方太平洋沖地震」


JUGEMテーマ:日記・一般

at 19:07, 浪人, つれづれの記

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旅の名言 「そして、私は自力で……」

 たとえば、旅をしていて、誰かと知り合う。そう、外国を旅していて外国人に「家に来ないか」と誘われたとしようか。さあ、そのときどうするか。
 ひとつは、絶対にそんなことを言う奴は悪い奴に決まっている、きっと悪巧みをめぐらしているに違いないと判断してついていかない。もうひとつは、人はすごく親切なものだし、せっかくの機会なのだからと喜んでついていく。その二つとも旅行者の態度としてありうると思う。
 私だったらどう考えるかというと、世の中には基本的に親切な人が多いし、そんなに悪い奴というのはいないと思う。しかし、同時に、悪い奴はきっといるとも思う。そう考える私は、どこまで行ったら自分は元の場所に戻れなくなる可能性があるかという「距離」を測ることになる。そして、私は自力でリカバリーできるギリギリのところまでついていくと思うのだ。もしかしたらそれは相手の家の庭先までかもしれないし、居間までかもしれない。もし女性だったら、ニ階の部屋まで入ったら、もう戻れないかもしれない。要するに自分の力とその状況を比較検討し、どこまで行ったなら元の所には戻れなくなるかを判断するのだ。そういうことを何度か繰り返していると、旅をしているうちにその「距離」が少しずつ長く伸びていくようになる。

『旅する力 ― 深夜特急ノート』 沢木 耕太郎 新潮社 より
この本の紹介記事

旅行記の名作『深夜特急』の著者である沢木耕太郎氏が、旅をテーマに自らの半生を振り返るエッセイ、『旅する力』からの引用です。

旅においては、未知の人々との出会いやハプニングなど、予想のつかない出来事が日常生活よりもはるかに頻繁に起こります。

そうした先の読めない新鮮な展開は、旅の大いなる魅力ではあるのですが、その反面、それは場合によっては旅人を危険にさらし、取り返しのつかない深刻な結果を招くこともないわけではありません。

旅人の中には、危険を避け、安心・安全な旅を楽しむために、知らない人間からの誘いや、旅の予定を乱しそうな物事は、とりあえず全てシャットアウトしてしまうという人もいるだろうし、反対に、考えられる危険よりも未知の展開のワクワク感を大事にして、旅先での流れやハプニングに積極的に乗っていくという人もいるでしょう。

現実には、旅人それぞれが自分なりの判断基準を設けて、その両極端の間のどこかで行動を選択しているのだと思いますが、それに関して沢木氏は、「どこまで行ったら自分は元の場所に戻れなくなる可能性があるか」という、非常に興味深い基準を示しています。

それに似た意味で、ポイント・オブ・ノー・リターン(帰還不能限界点)という言葉があります。航空機が目的地に向かって飛行するとき、あるいは、探検隊が補給のきかない極地を踏破するようなとき、これ以上進めば、燃料や食糧不足で出発地点には引き返せなくなるという限界点を意味しています。

その点の手前までは、いつでも引き返すという判断をすることができる、つまりある種の保険がかかった状態で行動することができますが、その点を越えてしまうと、引き返すという選択肢はなくなります。つまり、その先で何が起きようと、とにかく目的地に向かって進み続けるしかなくなるのです。

普通の人間の普通の旅には、そのようなリスクに満ちた行程というのはまずあり得ないと思います。ただ、沢木氏の言うように、自分の力で状況をリカバリーできるかできないかという観点から、旅先での一つひとつの行動を見てみれば、旅人の能力や状況に応じて、そういう限界点は意外に多く存在するのではないでしょうか。

例えば、冒頭の引用のように、旅先で知り合った人に家に来ないかと誘われたとき、車で送ってあげようと言われたとき、あるいは、会ってすぐに食べ物や飲み物を勧められたとき……。

たいていの場合、こうしたケースで相手の申し出をそのまま受け入れたとしても、たぶん変なことは何も起きないでしょう。むしろ、旅のいい思い出になったり、相手と意気投合して、旅がさらに面白い展開を見せたりするかもしれません。しかし、そうはならず、そのとき深く考えずに申し出を受けてしまったことを、後々まで非常に後悔することになる可能性もあります。

この場合の限界点とは、一度そこを超えてしまったら、自分の力だけではその場の状況や相手の行動をコントロールすることができなくなる、ギリギリのポイントやタイミングを意味しています。旅人本人がそれを自覚しているかいないかはともかく、その先に足を踏み入れると、相手の出方や状況がその後の出来事の主導権を握ることになり、そこで自分のできることは限られてしまいます。

主導権がなくなるからといって、必ずしも悪いことばかりが起こるわけではないのですが、重要なのは、そこでは自分は基本的に無力で、事態がどんな方向に向かおうと、自分は出来事の流れに身をゆだねるしかなくなるということです。

沢木氏は、「私は自力でリカバリーできるギリギリのところまでついていく」と言っています。その意味するところはたぶん、その限界点に達するまでの間に、あらゆる感覚を働かせて状況を見極め、引き返すべきか、そのまま進むべきかを決断するということなのでしょう。

もちろん、ときには覚悟を決めて、帰還不能限界点の向こう側へ足を踏み出すことも必要だろうし、それによって、旅に新しい展開が開けることもあるでしょう。しかし、限界点を一度越えてしまったら、どんな結果が起きようと、旅人はそれを引き受けなければならないということは自覚しておく必要があります。

旅に慣れないうちは、そうした限界点が身の周りのあちこちに出現するし、しかも、その限界点までの「距離」が短いので、その先に進むべきかという判断の最終リミットがすぐにやってきてしまいます。

その短い時間の中で、また、心にも十分な余裕のない中で、これまでの少ない経験と、旅人としてまだまだおぼつかない感覚をフル稼働させて最終的な決断をしなければならないとなると、その判断はかなり難しいでしょう。

そう考えると、最初のうちは、自分の限界点がどのあたりにあるのか、まずはその見極めをしていくことの方が大事で、あえてあちこちで限界点を踏み越えて、自分を大きなリスクにさらすべきではないのかもしれません。

沢木氏の言うように、旅をしているうちにその「距離」は少しずつ伸び、経験を積み、感覚もだんだん研ぎ澄まされてきて、最終的な判断に至るまでの心の中のプロセスも、ある程度自覚できるようになるはずです。ちょっとした冒険をするのは、それからでも遅くはありません。

これ以上進めばどんなリスクがあるか自分には見えているだろうか、そのリスクにあえて身をゆだねるだけの動機が自分にはあるだろうか、そして、限界点に達するまでの間に何か気になる兆候はなかっただろうか……。

実際には、ここまでいちいち理屈っぽく考えるわけではありませんが、半ば無意識にでも、こうした判断を自分の責任でできるようになれば、自分で思い描いた自由な旅に、ときには面白いハプニングも織り交ぜた、ワクワクするような旅が楽しめるようになるのではないでしょうか。


JUGEMテーマ:旅行

at 18:50, 浪人, 旅の名言〜危機と直感

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