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旅の名言 「その町に流れる時間軸に……」

 その町に流れる時間軸に、すっと入りこめるときがある。どんな町でもだいたい、滞在三日か四日目でそういうときがやってくる。そこでくりかえしおこなわれている日常が、肌で理解でき、自分がそこにくみこまれているのだと理解する瞬間。
 隣のホテル前のパン屋では、小太りのアルバイト青年が店を開ける。昼すぎには、彼はおしゃべりな女の子二名と交代する。ダウンタウンの裏手にあるファストフード屋は、どうやら若い子たちの秘密のデート場らしい。私の宿泊してるホテルのホールでは、小規模なフラ大会や、小学生のパーティが開催されていたりする。時間はゆっくり流れ、私の日々が町に溶けこんでいく。なんでもない夕焼けや、雨上がりの濡れた車道が、ああ本当にうつくしいなあと気づくのはそういうときだ。

『いつも旅のなか』 角田光代 角川文庫 より
この本の紹介記事

作家・角田光代氏の旅のエッセイ集、『いつも旅のなか』からの引用です。

角田氏は、あるとき、一度ボツになった小説を書きなおすという、急で気のすすまない仕事を仕上げる必要に迫られました。彼女は自分を追い込むために、自主的に「カンヅメ」になることを思い立ち、 ハワイに飛んで、ハワイ島のヒロにしばらく滞在します。

そこで執筆を始めた彼女は、食事をとったりするために、ホテルのあるバニヤン・ドライブ地区を出て、ダウンタウン地区まで歩くのが日課になりました。

同じような日課を繰り返す中で、角田氏は少しずつヒロの町になじんでいき、やがて、美しい瞬間が訪れます。

ヒロで静かに繰り返されている日常を、彼女が肌で理解した瞬間、「その町に流れる時間軸に、すっと入りこ」んだ瞬間。そのとき、目の前の世界が、親密でありながら、新鮮で美しい光景として立ち上がります。

こういう瞬間を味わうことができるのは、スケジュールに追われることなく、居たいと思った場所に好きなだけ滞在できる、自由な個人旅行者ならではの特権です。

スローペースで旅する人なら、こういう瞬間をよく知っているはずだし、角田氏の文章に、大いに共感できるのではないでしょうか。

それにしても、その瞬間が訪れるのが、どんな町でも滞在3日か4日目、というのはとても面白いポイントです。

以前に、このブログに「滞在3日以上」の法則というのを書いたことがあります。

大都会を除けば、どんな町や村でも3泊以上していると、特にそのつもりはなくても、地元の人か旅人の誰かと出会い、親しくなるという個人的「法則」です。

もちろん、そこには別に神秘的な理由があるわけではありません。

1日や2日しか滞在しない町では、移動や観光でバタバタしていて、ゆったりと過ごせる時間があまりないからで、3泊以上すると、時間的にも気持ちにも余裕が生まれ、顔見知りになった人と時間を気にせず話をしたり、道端で話しかけてくる現地の人にも、オープンな気持ちで対応できるので、結果として誰かと親しくなる、ということなのだと思います。

別の言い方をすれば、私の場合、同じ町に何日か滞在していると、非日常の「移動モード」だった心の状態が、3泊目あたりを境に、日常の「生活者モード」へと徐々に切り替わっていく、ということなのかもしれません。

自分にとって未知の町でも、何度も街を歩き回り、少しずつ馴染んでいくうちに、行きつけの食堂とか茶店とか、お気に入りの散歩ルートや日課など、生活のリズムやパターンが生まれてきます。それに伴って、心の緊張が解け、町の人々の暮らしの細部に注意を向ける余裕も生まれてくるということなのでしょう。

そしてそれは、旅人の心の中で流れる時間が、少しずつ滞在先の時間の流れとシンクロし始める、つまり、角田氏の言うように、「その町に流れる時間軸に、すっと入りこ」んでいくということなのだと思います。

短い時間であちこちを見て回るような旅だと、どの町も慌しく通り過ぎることになり、結果として、現地の人々の日常を肌で理解することは難しくなりますが、旅人がその歩みをゆるめ、それぞれの町の時間の流れに寄り添い、身の周りのこまごまとしたできごとを静かに見つめるとき、「時間はゆっくり流れ、私の日々が町に溶けこんでいく」のです。

ただし、そんな幸福な瞬間も、永遠には続きません。一つの町に長居をし過ぎれば、それはやがて、感動のない、当たり前の日常へと変わっていきます。

旅人の心が、移動のもたらす気ぜわしさや、疲れや不安から離れ、また一方で、生活の繰り返しがもたらす倦怠や粘着性にも捕らえられていない、一種の無重力状態にあるとき、その好奇心はあらゆる方向に広がり、心に触れるすべてが、みずみずしい美しさに満ちて感じられます。

旅人は、そんな微妙で幸福な瞬間を求めて、何度も旅を繰り返すのかもしれません。


JUGEMテーマ:旅行

at 18:30, 浪人, 旅の名言〜旅の時間

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『GNHへ ― ポスト資本主義の生き方とニッポン』

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

このところ、震災と原発事故の重いニュースに釘づけになっていたせいか、せっかくの桜を見ても心は晴れず、いつにも増して、これからの生活に対する漠然とした不安を覚える日々が続いています。

本を読んで気持ちを切り替えようとしても、現実の引力が強すぎて、なかなか本に集中することができません。

こういうときは、いっそしばらく本から遠ざかり、何か他の気晴らしを探すべきなのかもしれませんが、とりあえず、未来社会の明るいビジョンを描いたものなら受けつけるかも、ということで、この本を読んでみました。

この本のタイトルにある「GNH」とは、ブータンの前国王が提唱した「国民総幸福量 Gross National Happiness」のことで、現在広く知られている国内総生産(GDP)に代わり、別の視点から社会の豊かさを測る試みのひとつとして知られています。
ウィキペディア 「国民総幸福量」

ただ、経済成長至上主義を見直すというテーマ自体は、まあ、それほどめずらしいものではなく、この本も一見しただけでは、そういう数多くの本のひとつにしか見えないかもしれません。私自身も、この本を知ったときには、ユニークなアイデアに溢れる著作の多い天外伺朗氏の本にしては、何か平凡なタイトルだな、と思ってしまいました。

しかし、実際に読んでみると、GNHという概念そのものは、いわばそれに続く話の枕に過ぎませんでした。

ギャンブル化した資本主義の行く末を憂う天外氏の話は、やがて、行き過ぎた合理主義とエゴの追求という世の中の流れに巻き込まれずに、各個人が「いかに生きるか」という問題へ、さらには「次世代社会体制への展望」へと、深く大きく広がっていきます。

天外氏の場合、電機メーカーのエンジニアやマネジメントとしての長い実務経験がある一方で、いわゆる「スピリチュアル系」の研究でも知られているだけに、その内容は現在の日本社会のメインストリームの常識的な発想を超えた、かなりユニークなものです。

例えば、この本の中でも、ミヒャエル・エンデ氏の代表的なファンタジー『モモ』の話とか、インディアン(アメリカ先住民)の儀式の話とか、トランスパーソナル心理学の知見に基づいた人類の意識レベルの話などが次々に出てきます。

こういう話は、その手の話題に慣れていれば非常に面白いし、私も大好物なのですが、実際のところ、それを唐突すぎると感じる人もいるだろうし、人によっては拒絶反応を起こしてしまうかもしれません。それに、天外氏の文章は、ときに大胆で歯切れがよすぎて、こんなことを大っぴらに書いて大丈夫なんだろうかとヒヤヒヤする箇所もあります。

それでも、できるだけ先入観を交えずに彼の話に耳を傾ければ、この本の内容はそれほど荒唐無稽というわけでもなく、むしろ彼は、ビジネスマンとしての豊富な経験に基づいて、単なるスピリチュアルな夢想では終わらない、実現可能性の高いアイデアを提示しようと試みていることが分かるのではないでしょうか。

天外氏は、現在のように各自が合理的に効率を追求し、エゴを張り合う文化から、より深い精神性を大切にする文化へのパラダイムシフトが、近い将来必然的に起きると考え、日本社会もGDP至上主義やギャンブル経済から脱却することで、「一人ひとりの人間としての意識レベルが、世界でも群を抜いて高く、GNHも高い、という社会」を目指していくべきだとしています。

そのために、個々人のレベルでは、人間として生きることの基本を見つめ直し、現在の消費社会の虚飾を捨てて「素に生きる」べきだし、そこでは、仕事や遊びにおいて、心からやりたいこと、楽しいことをすることで、時間を忘れて何かに没頭する「フロー」状態に入ることが重要だとしています。彼によれば、「フロー」に入ることで、私たちは潜在能力や創造力を発揮し、生きていることを心から実感することができるといいます。
ウィキペディア 「フロー」

一方で、人類の集合的な意識レベルの向上、進化に合わせて、社会のシステムも変えていかざるを得ません。天外氏は、将来の社会システムを先取りするものとして、教育の自由化、医療改革、通貨改革、次世代の社会統治システム案など、いくつかの分野について、(ごく簡単なものですが)具体的なたたき台を示しています。

こうした話は、特に、人間は「素に生きる」べきだという主張などは、一見すると現代社会批判にありがちな、文明を否定して「自然に帰れ」と叫ぶだけの議論に似ているように見えるかもしれません。

ただ、天外氏は、単に現代文明を全否定したり、かつてのアメリカ先住民のような暮らしにみんなが戻ることを理想としているわけではなく、現在に至るまでに人類が獲得してきたさまざまな知識や知恵のなかから、これからの私たちに本当に必要なものだけを厳選し、さらに高い(深い)意識の水準をめざすことで、現代文明の抱える本質的な問題を克服し、より多くの人が幸せを実感できるような社会を創造したいということなのだと思います。

とはいえ、もちろん一冊の本の中で、未来の社会の全体像が具体的に描き出されているわけではありません。

むしろ、この本の中で天外氏が主張しているように、今後の社会が、少人数のコミュニティの集合体を基盤としたボトムアップ型の社会になっていくのだとすれば、従来のように、一部のエリートが社会のあるべき姿を細かく設計し、それを残りの人間に提示するという、トップダウン型のやり方自体が、そもそもふさわしくはないのでしょう。

だとすれば、来たるべき社会は、これから私たち自身が時間をかけて試行錯誤を繰り返す中で、少しずつ姿を現し始めることになるのかもしれません。

それにしても、ほとんど機能不全を起こしているような現在の社会システムの中で、例えば法案を一つひとつ成立させたり、憲法を改正したりしながら新しい社会を実現していくとしたら、それは途方もない難業になりそうな気がします。

現代の人々の常識を超えるような全く新しい制度については、まだ誰もその価値や有効性について確信がもてないはずですが、一方で、そうした新しい制度に対し、社会の過半数以上が賛成するという奇跡が実現しなければ、社会システムを大きく変えていくことはできないからです。

これまでの人類のパラダイムシフトにおいては、そのたびに社会の大きな混乱があり、多くの血が流されてきました。天外氏の言うように、いま、大きなパラダイムシフトが進みつつあるのだとしたら、実際問題として、どのような移行のプロセスをたどるのが望ましいのでしょうか。

その過程で起こるかもしれない混乱や犠牲をできるだけ少なくするためにはどうすればいいのか、新しい社会のビジョンよりもむしろ、そちらの方がずっと難しい問題であるような気がします。

……と、未来について書かれた本を読みながら、やっぱり余計なことをいろいろと考えて、頭をモヤモヤとさせてしまうのでした……。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします



JUGEMテーマ:読書

at 19:50, 浪人, 本の旅〜人間と社会

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おかげさまで5周年

このブログを書き始めてから、今日で5年が経ちました。

ネットの世界では、その間、新しいサービスが次々に現れ、人気のサービスの栄枯盛衰も激しく、5年前はどんな状況だったのか、思い出すのも難しいくらいです。

もちろん、リアル世界でも、いろいろなことがありました。

アメリカのサブプライム・ローンの焦げつきに端を発する世界金融危機、チベット騒乱と四川省の大地震と北京オリンピック、オバマ大統領就任、日本の政権交代とその後のドタバタ劇、チュニジアから周辺諸国に波及しつつあるジャスミン革命、そして、東日本大震災とレベル7の原発事故。

未来を見通すことのできない私は、大事件や天災が起きるたびに動揺し、自分の生活にどんな影響が出てくるのだろうと、必死になってニュースに注目することの繰り返しでした。

かといって、そうやってニュースを見たり、識者のコメントを読みあさったからといって、これまでに少しでも賢くなったかといえば、全くそういう気配のないのが悲しいところです。

それでも、このブログが5年間も続いたことは、自分でもちょっと驚きです。

内容に進歩があったか、とか、そもそもブログを書き続けることに何か意味があるのか、という点に関しては目をつぶることにしますが、更新頻度を下げつつも、なんとかブログを継続したことに関しては、せめて「参加賞」くらいはあげたい気持ちです。

まあ、こういうご時勢でもあるし、自分へのご褒美は特に用意してませんが……。

これまで、このブログを訪れ、記事を読んでくださった皆様に、心からお礼申し上げます。

どうもありがとうございました。

これからも、いちおう「旅」というメインテーマは変えずに、書くペースも同じくらいで、ネタを思いつく限りは続けていきたいと思います。

今後とも、このブログをどうぞよろしくお願いいたします。


JUGEMテーマ:日記・一般 

at 19:23, 浪人, 感謝

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『日本辺境論』

Kindle版はこちら

 

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

この本は、「辺境性」をキーワードに、日本人の「民族誌的奇習」、つまり、私たちがふだん意識することなくはまり込んでいる固有の思考・行動のパターンを明らかにしようとする、ユニークな日本人論です。

著者の内田樹氏によれば、日本人は「辺境人」であり、私たちは常に、ここではない外部のどこかに世界の中心があると考えていて、その思考と行動は、どうすればそこに近づけるのかという、中心までの距離の意識に基づいて決まるというのです。

この本では、そんな辺境人の特性について、その学びや宗教について、そして日本人の辺境性と表裏一体の関係にある日本語の特殊性について、これまでの有名な日本人論も踏まえつつ、さまざまな具体例を交えて説明されています。

「辺境」という言葉には、どこかネガティブな響きがあるので、日本人は辺境人だと言い切られると、多くの人はあまりいい気持ちがしないでしょう。ただ、一方で、それはそうかもしれない、確かに何となく納得できる気がする、という方もけっこう多いのではないでしょうか。

日本人としての私たちの歴史は、強大な中華文明の東の辺境に位置する小国として始まり、以来、自分たちは世界の中心から遠く離れ、また、時間的に遅れてもいるという世界観を受け入れ、それを強く内面化してきました。

それは、価値あるものはすべて自分の外にあると信じ、「きょろきょろして新しいものを外なる世界に求める(丸山眞男氏)」態度や、「そのつど、その場において自分より強大なものに対して、屈託なく親密かつ無防備になってみようとする傾向」を形作ってきました。

そして、私たちは「世界標準に準拠してふるまうことはできるが、世界標準を新たに設定することはできない」ために、外部の文明のエッセンスを吸収し、それにひととおり追いついてしまうと、次に何をすればいいか分からなくなって、途方に暮れてしまうのです。

しかし一方で、自分たちは常に遅れているという辺境人の意識が、「師弟関係」や「道」にみられるような、効率的に学ぶための民族的なシステムを進化させてきました。また、「私を絶対的に超越した外部」に対するおのれの無知と未熟を痛感する感受性は、深い宗教性への出発点にもなります。

むしろ私たちは、辺境人であることのおかげで、自分たちこそ世界の中心だと思い込むような傲慢さから無縁でいられるのかもしれません。それに私たちは、文明の中心を自ら任じている人々の眼が届かないのをいいことに、彼らに面従腹背し、狡猾に立ち回るしたたかさも身につけています。

内田氏も認めているように、日本人や日本文化について語るのは大風呂敷を広げるようなもので、その内容は厳密に検証できるものではないし、語り手次第、材料次第でどのような結論にでも導けるという面があります。彼の日本人論にいろいろとツッコミを入れたい人もいるでしょうが、個人的には、「辺境性」という切り口から整理された日本人論はとても面白く、興味深いものでした。

ただ、ここで辺境人の特性として挙げられているものは、実際のところ、空間的な辺境とか、歴史的に見た後進地域だけに当てはまるものというよりは、もっと一般的なもので、時間・空間的な位置にかかわらず、内面に深い劣等感を抱える人間のパーソナリティとして、世界のほとんどどこにでも見出せるような気がしなくもありません。

むしろ、日本人のユニークさは、日本語の構造がそうであるように、単に辺境性を内面化しているだけでなく、世界の中心を演じる人々の思考と行動のパターンや、その力の源泉となっている文明のエッセンスもすばやく感知し吸収してしまうことで、中心と辺境の二極のどちらの性質も使い分けることができること、そして、そのことがもたらす内的な矛盾や二重性を、そのまま抱え込んでいられる力にあるのではないかという気がします。

ところで、私たちが辺境人としての特性を宿命的に身につけてしまっているのだとしたら、現在の激動の世界で、どのようにふるまうのがふさわしいのでしょうか?

内田氏は、こうなったらとことん辺境で行こうではないか、こんな国は歴史上、他に類例を見ないし、それが現在まで生き延びてきた以上、そこには何か固有の召命があると考えることもできる、それに、こんな変わった国の人間にしかできないことを考える方が楽しいし、他の国の人々にとっても有意義だろうと言っています。

たしかに、それは何か楽しそうです。しかし、インターネットの爆発的な普及によって、少なくともネット経由で手に入る情報に関しては、空間的・時間的な格差というものはなくなりつつあります。そこでは、自分を辺境人として位置づける思考と行動の枠組み自体が、もはや有効ではなくなってしまうのではないでしょうか。

だとすれば、これまで辺境人という立場に安住してきたともいえる日本人は、今後どう生きていけばいいのでしょう?

まあ、そうやって、世界のどこかにいいお手本でもないものかと、ついキョロキョロしてしまう私の思考と行動自体が、実に日本人的なのでしょうが……。

それにしても、私はこれまで辺境的なものにあこがれを抱き、そこに何か面白いものが見つかるような気がして、アジアの片田舎をふらふら旅してみたりしたのですが、実は日本こそ辺境性の権化だったことに、この本を読んで今さらのように気がつきました。

私は今まで、辺境的なものを求めているつもりが、それと気づかずに、実は日本的なるモノ、自らの似姿を、ここではない外部のどこかにひたすら求め続けていたのかもしれません……。


本の評価基準

 


 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします



JUGEMテーマ:読書

 

at 19:01, 浪人, 本の旅〜人間と社会

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旅の名言 「旅もまた……」

大震災から3週間が過ぎました。

テレビや新聞は次第に通常の編成に戻り、被災地から遠く離れた私の周辺は、少なくとも表面的には、以前の日常を取り戻しました。

個人的には、いまだに心が非日常モードに入ったままで、何か生産的な作業をしようという意欲が湧いてこないのですが、いつまでも呆然としているわけにもいきません。

地震の前に書きかけていた記事を仕上げたりしながら、徐々に日常モードに復帰していきたいと思います。

というわけで、「旅の名言」です。

 実際、旅は偶然に満ちている。さまざまな種類の偶然が旅を変容させていこうとする。たとえば、いくら厳密な予定を組んでいたとしても、予期しなかった事態に遭遇して変化を余儀なくされそうになる。まるで砂の城を洗う波のように、偶然が幾重にも押し寄せ予定を崩していこうとする。そのとき、大事なのは、あくまでも予定を守り抜くことと、変化の中に活路を見出すことのどちらがいいか、とっさに判断できる能力を身につけていることだ。それは、言葉を換えれば、偶然に対して柔らかく対応できる力を身につけているかどうかということでもある。
 そうした力は、経験や知識を含めたその人の力量が増すことによって変化していくものだろうが、それはまた、思いもよらないことが起きるという局面に自分を晒さなければ増えてこないものでもある。だからこそ、若いうちから意識的に、思いもよらないことが起きうる可能性のある場というものに自分を晒すことが重要になってくるような気がするのだ。
 そのためには、スポーツをするのもいい訓練になるだろう。スポーツは、自分だけではコントロールできない、思いもよらないことが起きるという中で、瞬間的にどう対処するのかということを判断していかなければならないものとしてあるからだ。もちろんスポーツマンにもつまらない人間はたくさんいるが、魅力的なスポーツマンというのは、たぶんそういう経験を多く積むことによって、自分の身の丈を高くしていった人なのだろうと思う。
 そして、それは旅についても言えるような気がする。旅もまた思いもよらないことが起きる可能性のある場のひとつなのだ。それに対処していくことによって、少しずつその人の背丈が高くなっていき、旅する力が増していくように思われる。

『旅する力 ― 深夜特急ノート』 沢木 耕太郎 新潮社 より
この本の紹介記事

前回の「旅の名言」に引き続き、沢木耕太郎氏のエッセイ『旅する力』からの引用です。

彼は、このエッセイの中で、旅の効用として「自分の背丈を知る」ことを挙げているのですが、ここでいう「自分の背丈」とは何か、それはどのようにして伸ばしていくことができるのか、若い人たちに向けて丁寧に説明しています。

旅は数々の偶然に満ちており、旅人は、ときには予想もつかないような事態に遭遇します。

それを乗り切るためには、変化に柔軟に対処できる力が必要ですが、その力は、実際に先の読めない状況、「思いもよらないことが起きる可能性のある場」に何度も身を晒すことによってしか体得できません。

だから、若いうちから意識的にそうした経験を積んでいくことで、人は「旅する力」、つまり自分の身の丈を伸ばしていくことができるというのです。

旅において大事なことは、自分だけではコントロールできない未知の体験や状況の大きな変化に対して、どのように対処すべきか、とっさに判断できる能力であるという沢木氏の指摘には、長年の旅の経験を通じた、旅への深い理解を感じます。

そして、それはそのまま、私たちの人生そのものに対しても当てはまることなのだと思います。

沢木氏の言うように、旅は「思いもよらないことが起きる可能性のある場」ですが、人生もまた同じだからです。

そう考えると、旅とは、人生において起こり得るさまざまな事態に対処する能力を高め、「自分の背丈」を伸ばすための、とてもいい訓練の場でもあるのかもしれません。

でもまあ、そうは言っても、訓練とか学びということをあまり気にしすぎると、今度は旅そのものを楽しめなくなってしまいそうな気もします。

実際、旅の効用とか意義みたいなものは、旅をしている最中にはなかなか自覚できないもので、旅を終えて長い時間が経って、はじめて何かに気づくということもあります。それに、近頃は、人生修行としての旅みたいな考え方も、あまり人気がないのかもしれません。

個人的には、そういう考え方にはけっこう惹かれるものがあるのですが……。

それはともかく、旅先で時間を持て余しているときなど、旅や人生について、あるいは「自分の身の丈」について、いろいろと思いをめぐらしてみるのは楽しいことですが、一方で、そういうことを考えすぎるのも禁物だと思います。特に一人旅をしているときなど、何かのきっかけで余計なことを考え始めて、いつしか結論のない堂々巡りに陥ってしまいがちです。

旅をしているあいだは、やはり何より、新鮮な感動に満ちた旅の日々を思い切り味わうのが一番です……。


JUGEMテーマ:旅行

at 18:52, 浪人, 旅の名言〜旅について

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