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2011.06.29 Wednesday
ショートカットする科学者
先日、ネット上で面白い記事を見かけました。
ある日本人の科学者が、下水汚泥の処理問題の解決策として、汚泥、つまり人間の排泄物に含まれるタンパク質を抽出、滅菌処理して、再び肉として成型する研究をしているというニュースです。
GIZMODO 【食べれます? 食べたいですか? 「うんこバーガー」】
動画を見ると、科学者がその肉を実際に口にするシーンもあって、なかなか衝撃的です。今年のイグノーベル賞の、かなり有力な候補かもしれません。
ウィキペディア 「イグノーベル賞」
ただ、その科学者は、世間の常識が通用しない奇人というわけではないようです。彼自身、人間には排泄物を加工した肉を食べることへの心理的な壁があると指摘しています。
その一方で、その肉で作ったハンバーガーを、自分で「うんこバーガー」と呼んでいるくらいなので、彼はこうした研究が社会に及ぼすインパクトや笑いを承知の上で、半ば確信犯的にやっているのでしょう。
ちなみに、下水を飲み水として再利用する試みなら、すでに行われています。有名なところでは、国際宇宙ステーションで尿や生活排水が飲料水としてリサイクルされているし、水不足に悩むカリフォルニアでは、下水を浄化して上水道向けに供給することもされているようです。
WIRED 【尿を飲料水にリサイクル:国際宇宙ステーションの最新設備】
WIRED 【「下水を飲み水にする」世界最大のシステム:カリフォルニアからレポート】
少なくとも水に関していえば、人間が排泄したものを人間の手によって浄化し、再利用することは十分に可能だし、水が非常に貴重な環境であれば、コスト的にも実現可能なレベルになっているということなのでしょう。
だからまあ、こういうニュースは面白いネタとして、右から左に受け流してしまえばいいのでしょうが、一方で、こうした研究に何ともいえないグロテスクさを感じるのも確かなので、ここであえて、それについてちょっとマジメに考えてみたいと思います。
本来、ヒトに限らず、生き物の排泄物はすべて自然の中で循環し、時間をかけて再び私たちの食料になっているわけですが、私たちはもちろん、それを奇妙だともグロテスクだとも感じていません。
それなのに、下水汚泥から肉をリサイクルすることに関しては、どうして気持ち悪いと感じてしまうのでしょう?
その違和感がどこから来るのか、はっきりと理屈で説明するのはむずかしいし、科学者やエンジニアから、衛生的に全く問題はないと断言されれば、それ以上反論のしようもないように思えるのですが、それでも、何ともいえない不快感のようなものは、最後まで消えることはないのではないでしょうか。
これはあくまで私の個人的な考えなのですが、それはたぶん、私たちの尻の穴から出たものが、再び私たちの口の中へと入るまでのプロセスが短すぎるから、つまり、自然界では複雑で時間のかかるはずのプロセスが、人間の手によって、異常なまでにショートカットされていることに対して、強い違和感を感じるからなのではないかという気がします。
あるいはそれは、人間が生み出したものを、いったん自然の循環にゆだねるというプロセスを経ずして、閉じられたサイクルの中で、人間の操作だけで回していくことに対して、何か良くないことが起こるのではないかという、本能的な恐れのようなものを感じてしまうからなのかもしれません。
今回のケースでは、科学者は下水の汚泥に含まれる大量のタンパク質に注目し、それを私たちの食料へと短絡させようとしています。自然の循環の中では、タンパク質はいったん分解され、再び合成されるという長いプロセスをたどるわけですが、それが分解される前に自然のサイクルから取り出し、そのまま人造肉としてリサイクルできれば、非常に効率的なショートカットになると考えたのでしょう。
私も、それ自体は面白い発想だと思います。ただ、その実現へといきなり走り出し、実際に人造肉を作り上げてしまう前に、それがもたらす他の側面も考えておかなければならないはずです。
タンパク質のリサイクルという面だけに注目して、人間がそれに感じている違和感や、その操作が自然の循環プロセスにもたらすさまざまな影響を無視したり、それは専門外だから他の研究者が検討すべきだということにしてしまうと、結果として、素人目に見てもアンバランスでグロテスクな存在を生み出してしまうということなのではないでしょうか。
もっとも、こういうショートカットは、今の世の中においてはそれほどめずらしいものではありません。
飛行機が、ムダな回り道をせずに目的の都市へとダイレクトに飛んでいくように、むしろそれこそは、余計な時間とコストを省き、望んだ成果を最大限に効率よく手に入れるための合理的な方法として、世の中で広く用いられているし、実際に私たちはその巨大な恩恵を受けています。
そのせいか、私たちと自然環境との関係は、いつもぎくしゃくとしているわけですが……。
でもまあ、こんなヘリクツをくどくど言うまでもなく、ウンコから成分を抽出したリサイクル肉を、喜んで食べるという人はいないでしょう。
ただ、心配なのは、こういう技術がいったん確立されてしまうと、それは基本的に誰もが利用可能なものになってしまうということです。かりに下水汚泥から食料を安価に生み出せる仕組みが完成すれば、倫理的な問題とか心理的な壁とかは関係なしに、それをカネにしようとする人物が必ず現れます。
そして、本来のプロセスをショートカットして安上がりに作ったものを本物に見せかけるために、さまざまな偽装をほどこしたり、流通経路を複雑化して出所をごまかすというのは、残念ながら、これも世の中でありがちなことです。
下水汚泥から生み出されたリサイクル肉が、ウンコ・ロンダリングによって、あるいは、絶対に安全だからという科学的キャンペーンを通じて、いつの間にかふつうの食材に紛れ込んでしまうような時代は、もう私たちの目前に迫っているのかもしれません……。
JUGEMテーマ:ニュース
ある日本人の科学者が、下水汚泥の処理問題の解決策として、汚泥、つまり人間の排泄物に含まれるタンパク質を抽出、滅菌処理して、再び肉として成型する研究をしているというニュースです。
GIZMODO 【食べれます? 食べたいですか? 「うんこバーガー」】
動画を見ると、科学者がその肉を実際に口にするシーンもあって、なかなか衝撃的です。今年のイグノーベル賞の、かなり有力な候補かもしれません。
ウィキペディア 「イグノーベル賞」
ただ、その科学者は、世間の常識が通用しない奇人というわけではないようです。彼自身、人間には排泄物を加工した肉を食べることへの心理的な壁があると指摘しています。
その一方で、その肉で作ったハンバーガーを、自分で「うんこバーガー」と呼んでいるくらいなので、彼はこうした研究が社会に及ぼすインパクトや笑いを承知の上で、半ば確信犯的にやっているのでしょう。
ちなみに、下水を飲み水として再利用する試みなら、すでに行われています。有名なところでは、国際宇宙ステーションで尿や生活排水が飲料水としてリサイクルされているし、水不足に悩むカリフォルニアでは、下水を浄化して上水道向けに供給することもされているようです。
WIRED 【尿を飲料水にリサイクル:国際宇宙ステーションの最新設備】
WIRED 【「下水を飲み水にする」世界最大のシステム:カリフォルニアからレポート】
少なくとも水に関していえば、人間が排泄したものを人間の手によって浄化し、再利用することは十分に可能だし、水が非常に貴重な環境であれば、コスト的にも実現可能なレベルになっているということなのでしょう。
だからまあ、こういうニュースは面白いネタとして、右から左に受け流してしまえばいいのでしょうが、一方で、こうした研究に何ともいえないグロテスクさを感じるのも確かなので、ここであえて、それについてちょっとマジメに考えてみたいと思います。
本来、ヒトに限らず、生き物の排泄物はすべて自然の中で循環し、時間をかけて再び私たちの食料になっているわけですが、私たちはもちろん、それを奇妙だともグロテスクだとも感じていません。
それなのに、下水汚泥から肉をリサイクルすることに関しては、どうして気持ち悪いと感じてしまうのでしょう?
その違和感がどこから来るのか、はっきりと理屈で説明するのはむずかしいし、科学者やエンジニアから、衛生的に全く問題はないと断言されれば、それ以上反論のしようもないように思えるのですが、それでも、何ともいえない不快感のようなものは、最後まで消えることはないのではないでしょうか。
これはあくまで私の個人的な考えなのですが、それはたぶん、私たちの尻の穴から出たものが、再び私たちの口の中へと入るまでのプロセスが短すぎるから、つまり、自然界では複雑で時間のかかるはずのプロセスが、人間の手によって、異常なまでにショートカットされていることに対して、強い違和感を感じるからなのではないかという気がします。
あるいはそれは、人間が生み出したものを、いったん自然の循環にゆだねるというプロセスを経ずして、閉じられたサイクルの中で、人間の操作だけで回していくことに対して、何か良くないことが起こるのではないかという、本能的な恐れのようなものを感じてしまうからなのかもしれません。
今回のケースでは、科学者は下水の汚泥に含まれる大量のタンパク質に注目し、それを私たちの食料へと短絡させようとしています。自然の循環の中では、タンパク質はいったん分解され、再び合成されるという長いプロセスをたどるわけですが、それが分解される前に自然のサイクルから取り出し、そのまま人造肉としてリサイクルできれば、非常に効率的なショートカットになると考えたのでしょう。
私も、それ自体は面白い発想だと思います。ただ、その実現へといきなり走り出し、実際に人造肉を作り上げてしまう前に、それがもたらす他の側面も考えておかなければならないはずです。
タンパク質のリサイクルという面だけに注目して、人間がそれに感じている違和感や、その操作が自然の循環プロセスにもたらすさまざまな影響を無視したり、それは専門外だから他の研究者が検討すべきだということにしてしまうと、結果として、素人目に見てもアンバランスでグロテスクな存在を生み出してしまうということなのではないでしょうか。
もっとも、こういうショートカットは、今の世の中においてはそれほどめずらしいものではありません。
飛行機が、ムダな回り道をせずに目的の都市へとダイレクトに飛んでいくように、むしろそれこそは、余計な時間とコストを省き、望んだ成果を最大限に効率よく手に入れるための合理的な方法として、世の中で広く用いられているし、実際に私たちはその巨大な恩恵を受けています。
そのせいか、私たちと自然環境との関係は、いつもぎくしゃくとしているわけですが……。
でもまあ、こんなヘリクツをくどくど言うまでもなく、ウンコから成分を抽出したリサイクル肉を、喜んで食べるという人はいないでしょう。
ただ、心配なのは、こういう技術がいったん確立されてしまうと、それは基本的に誰もが利用可能なものになってしまうということです。かりに下水汚泥から食料を安価に生み出せる仕組みが完成すれば、倫理的な問題とか心理的な壁とかは関係なしに、それをカネにしようとする人物が必ず現れます。
そして、本来のプロセスをショートカットして安上がりに作ったものを本物に見せかけるために、さまざまな偽装をほどこしたり、流通経路を複雑化して出所をごまかすというのは、残念ながら、これも世の中でありがちなことです。
下水汚泥から生み出されたリサイクル肉が、ウンコ・ロンダリングによって、あるいは、絶対に安全だからという科学的キャンペーンを通じて、いつの間にかふつうの食材に紛れ込んでしまうような時代は、もう私たちの目前に迫っているのかもしれません……。
JUGEMテーマ:ニュース
2011.06.21 Tuesday
インプットとアウトプット
時間をかけて一冊の本を読み終わり、読後の余韻とささやかな解放感に浸っているときなどに、ふと、人は一生のうちにどれだけの本を読み、テレビや新聞や雑誌を読み、映画や舞台や美術作品を見、音楽を聴き、人と話をするのだろうか、また、その逆に、どれだけの文章を書き、絵を描き、写真を撮り、歌をうたい、自らの内面を語ったり、感情を表現したりするのだろうか、と思うことがあります。
もっと単純に言い換えるなら、それは、人は誰かが表現したものを、一生でどれくらい自分の中にインプットし、逆にどれだけ自分の表現としてアウトプットするのか、という風になるでしょうか。
もちろん、こんな風に思ったりはするけれど、それに関して、納得できるような具体的な数値が得られるとは思っていません。
そもそも、「表現」とひとくちに言っても、それは文章とか、絵とか、音楽やダンスのような、いわゆる芸術やエンターテインメントと呼ばれるものだけにはとどまらないはずです。
人が生きるために行うさまざまな仕事とか、地域や社会への貢献、それに家事や子育てなども、その直接的な目的はともかく、やはり人間の表現活動に含まれるのではないかと思います。むしろ、人間が生きている間にすることで、表現行為でないものなど存在しないのかもしれません。生きていることそのものが、それだけで何らかのアウトプットになっていると言うべきでしょうか。
だとすると、それぞれに性質の異なるそうした人間の活動すべてを、統一された基準に照らして、そのクオリティまで含めて数値化し、その合計をインプットやアウトプットの量として算出することなど、やはり不可能な気がするし、かりにそんな数字を出したところで、漠然としすぎていて、実質的な意味は何もないように思えます。
それに、インプットやアウトプットを算出するという発想自体、「自己」が一種のシステムとして、はっきりとした境界をもち、周囲の環境から独立した存在であることが前提になっていますが、人間の身体はともかく、その心まで含めた全体を考えるとき、それは幻想にすぎないのかもしれません。
ただ、そうした数字に意味がないことは重々承知しつつも、人間の表現活動に関して、アウトプット/インプットの比率というものがあるなら、その数字がどれくらいのものなのか、一度見てみたいという気はします。
人間の平均的なアウトプット/インプット比は 1/100 くらいなのか、1/1000くらいなのか、それとも、もっと低いのでしょうか。その比率は人によって大きく異なったり、歴史的に見た場合に、人類全体でその比率は変化しているのでしょうか……。
ムダと知りつつ、そんなことをあれこれ考えてしまうのは、自分の生活をふり返ってみたときに、どうも誰かの表現したものをひたすらインプットしているばかりで、ろくなアウトプットをしていないように思えるからです。
もしも、人類の平均アウトプット率みたいな数字が提示されていて、自分が一応その水準くらいまで達していると確認できれば、まあ、人間というのはだいたいこんなものなんだ、みんなこのくらいなんだから、現実は自分が思っているほど悪くないんだな、と納得したり、安心したりできるような気がします。何というか、人生の通信簿みたいなものとして。
もっとも、逆に人類の平均以下だと数字ではっきり示されてしまったら、それはそれで余計に落ち込んでしまいそうですが……。
こういうことを考えるのは、もしかすると、自分のアウトプット率に興味があるからというよりは、もっと総合的な自分の価値、つまり、自分が人類全体の中でどのくらい役に立っているのか、ミもフタもない言い方をするなら、その70億人中のランキングを知りたい、という願望があるということなのかもしれません。
しかし幸いなことに、今のところ、人間の表現活動すべてを、そのクオリティを含めて数値化する統一された基準というのは存在しないので、自分がどれだけのアウトプットを出せる存在なのか、その現実をはっきりと数字で突きつけられる試練には遭わずに済んでいます。
ただ、それに近い仕組みなら、すでに存在します。人間が消費するモノやサービスの価値を、貨幣でやりとりできる数値に置き換えて市場へと取り込んでいく、資本主義社会のシステムです。
現状では、人間の表現活動のすべてに値段がつけられ、市場でやりとりされているわけではありませんが、少なくともそのかなりの部分が、お金をもらえる仕事や、作品・商品という形でシステムに組み入れられているし、そうした仕事のクオリティとか人気度を量る仕組みとして、モノやサービスの値段というものが非常に役立っているのは事実です。
実際、世間的には、個人の年収とか作品の価格といった数字で人間のアウトプットを評価することが多いし、金額で表された価値というのは、生活実感を伴うだけに、とても分かりやすいところがあります。現に、世界中の人間の経済的なアウトプットを、一人当たり国内総生産みたいな形で、大ざっぱに比較するようなこともされています。
それはそれで、人間の表現活動の一部分を分かりやすく把握する便利な方法ではあるのですが、一方で、現代社会で暮らしていると、かつて自分がやったこと、今やっていること、あるいはこれからやろうとしていることが、どれだけの金銭的価値に換算できるか、ということを、常に意識せざるを得なくなってしまっているのも事実です。
それがいいとか悪いとかいう以前に、私たちは家庭や学校で、子どもの頃からそうした思考パターンを植えつけられているし、大人になってからも、職場で日々、それを強化され続けます。
本来、人間の活動のすべてを金銭的な価値で量ることなどできないはずだし、資本主義社会のシステムが、人間活動のすべての領域をカバーしているわけでもないのですが、そのパワフルで分かりやすい思考パターンが、生活のあらゆる局面につきまとってくるために、私たちはいつの間にか、実際に金額に換算できないものを価値ある対象として認められなくなったり、物事が数字で分かりやすく示されないと、どうにも納得できないと感じるようになってしまっているのかもしれません。
私がアウトプット/インプットの比率みたいなものを気にしてしまうのも、そういう世の中の風潮が、私自身の思考パターンに深く影響を与えているということなのでしょうか。
ただ、そうしたアウトプット率と同様、自分の仕事や人生の成果を金銭的価値に換算することについて、そこにどういう意味があるのかと考えてみると、結局のところ、そこには究極的な意味など何もないような気がしてならないのです。
たしかに、自分の生み出した成果を数値化して他の人と比較し、自分は上だ、とか、いや下だ、といって一喜一憂するのは、私たち自身の現実の生活水準に直結する生々しい問題ではあるし、かりにそこに意味などないとしても、これは地球人全員参加のグローバル・ゲームなのだと割り切れるなら、成績上位である限り、それはそれで、けっこう楽しい遊びであるのかもしれません。
それに、この資本主義社会において、多くの人がそれなりにお金を稼いだり、欲しいものを手に入れたりすることで、そこそこハッピーに暮らしているのは事実です。実際、歴史的に見ても、これほど多くの人が力を合わせて物質的な豊かさを生み出し、ある程度フェアなやり方でそれを分け合う社会システムなど、これまで存在しなかったのではないかと思います。
ただ、ふとゲームの手を休め、私たちが生きていく中で行うさまざまな活動のうち、どうしても金額として表せないもののことを思うとき、あるいは、このゲームは一体いつまで続くのだろうと思ったり、ゲームを続ける究極の目的について考えてしまうとき、心の中に一抹の虚しさが忍び込んでくるのです。
話がどんどん脱線して、あらぬ方へと進んでしまいました。
でもまあ、アウトプット/インプットの比率とか、資本主義社会がどうだという問題はともかく、こうやって余計なことをあれこれと考え続けることもまた、ハッピーに暮らすことにはほとんど関係がないような気がします。
グローバル・ゲームの手を止めて、思考の脇道へとはまり込んでいくことは、ゲームに熱中するよりも立派な行為というわけではありません。
ごくたまに、そのおかげでものすごいヒラメキが舞い降りることもないわけではないのでしょうが、多くの場合はゲームに集中できなくなるだけだし、下手をすればゲームから脱落してしまうという意味で、むしろ、大いなる不幸の始まりなのかもしれません……。
JUGEMテーマ:日記・一般
もっと単純に言い換えるなら、それは、人は誰かが表現したものを、一生でどれくらい自分の中にインプットし、逆にどれだけ自分の表現としてアウトプットするのか、という風になるでしょうか。
もちろん、こんな風に思ったりはするけれど、それに関して、納得できるような具体的な数値が得られるとは思っていません。
そもそも、「表現」とひとくちに言っても、それは文章とか、絵とか、音楽やダンスのような、いわゆる芸術やエンターテインメントと呼ばれるものだけにはとどまらないはずです。
人が生きるために行うさまざまな仕事とか、地域や社会への貢献、それに家事や子育てなども、その直接的な目的はともかく、やはり人間の表現活動に含まれるのではないかと思います。むしろ、人間が生きている間にすることで、表現行為でないものなど存在しないのかもしれません。生きていることそのものが、それだけで何らかのアウトプットになっていると言うべきでしょうか。
だとすると、それぞれに性質の異なるそうした人間の活動すべてを、統一された基準に照らして、そのクオリティまで含めて数値化し、その合計をインプットやアウトプットの量として算出することなど、やはり不可能な気がするし、かりにそんな数字を出したところで、漠然としすぎていて、実質的な意味は何もないように思えます。
それに、インプットやアウトプットを算出するという発想自体、「自己」が一種のシステムとして、はっきりとした境界をもち、周囲の環境から独立した存在であることが前提になっていますが、人間の身体はともかく、その心まで含めた全体を考えるとき、それは幻想にすぎないのかもしれません。
ただ、そうした数字に意味がないことは重々承知しつつも、人間の表現活動に関して、アウトプット/インプットの比率というものがあるなら、その数字がどれくらいのものなのか、一度見てみたいという気はします。
人間の平均的なアウトプット/インプット比は 1/100 くらいなのか、1/1000くらいなのか、それとも、もっと低いのでしょうか。その比率は人によって大きく異なったり、歴史的に見た場合に、人類全体でその比率は変化しているのでしょうか……。
ムダと知りつつ、そんなことをあれこれ考えてしまうのは、自分の生活をふり返ってみたときに、どうも誰かの表現したものをひたすらインプットしているばかりで、ろくなアウトプットをしていないように思えるからです。
もしも、人類の平均アウトプット率みたいな数字が提示されていて、自分が一応その水準くらいまで達していると確認できれば、まあ、人間というのはだいたいこんなものなんだ、みんなこのくらいなんだから、現実は自分が思っているほど悪くないんだな、と納得したり、安心したりできるような気がします。何というか、人生の通信簿みたいなものとして。
もっとも、逆に人類の平均以下だと数字ではっきり示されてしまったら、それはそれで余計に落ち込んでしまいそうですが……。
こういうことを考えるのは、もしかすると、自分のアウトプット率に興味があるからというよりは、もっと総合的な自分の価値、つまり、自分が人類全体の中でどのくらい役に立っているのか、ミもフタもない言い方をするなら、その70億人中のランキングを知りたい、という願望があるということなのかもしれません。
しかし幸いなことに、今のところ、人間の表現活動すべてを、そのクオリティを含めて数値化する統一された基準というのは存在しないので、自分がどれだけのアウトプットを出せる存在なのか、その現実をはっきりと数字で突きつけられる試練には遭わずに済んでいます。
ただ、それに近い仕組みなら、すでに存在します。人間が消費するモノやサービスの価値を、貨幣でやりとりできる数値に置き換えて市場へと取り込んでいく、資本主義社会のシステムです。
現状では、人間の表現活動のすべてに値段がつけられ、市場でやりとりされているわけではありませんが、少なくともそのかなりの部分が、お金をもらえる仕事や、作品・商品という形でシステムに組み入れられているし、そうした仕事のクオリティとか人気度を量る仕組みとして、モノやサービスの値段というものが非常に役立っているのは事実です。
実際、世間的には、個人の年収とか作品の価格といった数字で人間のアウトプットを評価することが多いし、金額で表された価値というのは、生活実感を伴うだけに、とても分かりやすいところがあります。現に、世界中の人間の経済的なアウトプットを、一人当たり国内総生産みたいな形で、大ざっぱに比較するようなこともされています。
それはそれで、人間の表現活動の一部分を分かりやすく把握する便利な方法ではあるのですが、一方で、現代社会で暮らしていると、かつて自分がやったこと、今やっていること、あるいはこれからやろうとしていることが、どれだけの金銭的価値に換算できるか、ということを、常に意識せざるを得なくなってしまっているのも事実です。
それがいいとか悪いとかいう以前に、私たちは家庭や学校で、子どもの頃からそうした思考パターンを植えつけられているし、大人になってからも、職場で日々、それを強化され続けます。
本来、人間の活動のすべてを金銭的な価値で量ることなどできないはずだし、資本主義社会のシステムが、人間活動のすべての領域をカバーしているわけでもないのですが、そのパワフルで分かりやすい思考パターンが、生活のあらゆる局面につきまとってくるために、私たちはいつの間にか、実際に金額に換算できないものを価値ある対象として認められなくなったり、物事が数字で分かりやすく示されないと、どうにも納得できないと感じるようになってしまっているのかもしれません。
私がアウトプット/インプットの比率みたいなものを気にしてしまうのも、そういう世の中の風潮が、私自身の思考パターンに深く影響を与えているということなのでしょうか。
ただ、そうしたアウトプット率と同様、自分の仕事や人生の成果を金銭的価値に換算することについて、そこにどういう意味があるのかと考えてみると、結局のところ、そこには究極的な意味など何もないような気がしてならないのです。
たしかに、自分の生み出した成果を数値化して他の人と比較し、自分は上だ、とか、いや下だ、といって一喜一憂するのは、私たち自身の現実の生活水準に直結する生々しい問題ではあるし、かりにそこに意味などないとしても、これは地球人全員参加のグローバル・ゲームなのだと割り切れるなら、成績上位である限り、それはそれで、けっこう楽しい遊びであるのかもしれません。
それに、この資本主義社会において、多くの人がそれなりにお金を稼いだり、欲しいものを手に入れたりすることで、そこそこハッピーに暮らしているのは事実です。実際、歴史的に見ても、これほど多くの人が力を合わせて物質的な豊かさを生み出し、ある程度フェアなやり方でそれを分け合う社会システムなど、これまで存在しなかったのではないかと思います。
ただ、ふとゲームの手を休め、私たちが生きていく中で行うさまざまな活動のうち、どうしても金額として表せないもののことを思うとき、あるいは、このゲームは一体いつまで続くのだろうと思ったり、ゲームを続ける究極の目的について考えてしまうとき、心の中に一抹の虚しさが忍び込んでくるのです。
話がどんどん脱線して、あらぬ方へと進んでしまいました。
でもまあ、アウトプット/インプットの比率とか、資本主義社会がどうだという問題はともかく、こうやって余計なことをあれこれと考え続けることもまた、ハッピーに暮らすことにはほとんど関係がないような気がします。
グローバル・ゲームの手を止めて、思考の脇道へとはまり込んでいくことは、ゲームに熱中するよりも立派な行為というわけではありません。
ごくたまに、そのおかげでものすごいヒラメキが舞い降りることもないわけではないのでしょうが、多くの場合はゲームに集中できなくなるだけだし、下手をすればゲームから脱落してしまうという意味で、むしろ、大いなる不幸の始まりなのかもしれません……。
JUGEMテーマ:日記・一般
2011.06.14 Tuesday
旅の名言 「デリーにいると……」
デリーで暮らしていると、「怒りの回路」みたいなものが、自分の中にはっきりできてくる。あまりにも理不尽だと思える状況に見舞われ、派手に「ッキー!」となることが、あまりにも多いのだ。
似た価値観を持つ人々に囲まれている自分の国での生活では、そこまで「ッキー!」とか「ムッカー!」となる事態には、なかなか遭遇しないものである。日本にいるときには、そんなことは考えたこともなかったが、思い返せばそうなのだ。デリーにいると、日本ではついぞ触られたことのない怒りのボタンを、バンバン押されるのである。こちらとしては、そんな部分に触られたことがなかったので、「私にこんな怒りが湧くとは知らなかった」みたいなヘンなことを思ったりする。
『インド人の頭ん中』 冬野 花 中経の文庫 より
この本の紹介記事
インドの首都デリーで4年間一人暮らしをした女性が、そこで日々遭遇した仰天エピソードと、激しいカルチャーショックの数々をユーモラスに綴ったエッセイ、『インド人の頭ん中』からの引用です。
インドで暮らしていると、「日本ではついぞ触られたことのない怒りのボタンを、バンバン押される」とは、ちょっと穏やかではありませんが、インドに長く滞在した経験のある日本人ならきっと、冬野氏のこの表現にとても深く共感できるのではないでしょうか。
具体的にどんなことで、そんなに怒りをかきたてられていたのか、詳しくは彼女のエッセイを読んでいただきたいのですが、あくまで通りすがりの旅人としてインドを体験しただけの私でも、現地では、旅行者を騙してカネを巻き上げようとする不良インド人から理不尽な扱いを受けるたびに、こみ上げる怒りを抑えきれず、彼らに怒鳴りまくっていた記憶があります。
ただ、かりにこうした激しい怒りを体験しても、旅行者の場合は、それを旅の非日常として受け止められる気楽な立場にあります。インド人に怒りを感じたり、思わずケンカをしてしまっても、それがほどほどである限りは、旅を盛り上げる多彩なエピソードの一つと見えなくもないし、やがて時が経てばいい思い出になる、くらいの気持ちで割り切ることもできるでしょう。
しかし、インドに長く暮らすとなると、そういう体験が日常的に、延々と続くことになるわけで、さすがにそれをいつも軽い気持ちで受け流すわけにはいかなくなります。
「あまりに理不尽だと思える状況」に毎日のように見舞われ、そのたびに怒りの炎を燃え上がらせていれば、やがて、そのプロセスがパターン化し、そういう理不尽に遭遇するたびに自動的にスイッチが入り、効率よく怒りを爆発させる、「怒りの回路」みたいなものが自分の中にできあがってしまうのでしょう。
その回路が作動し、心が「噴火」していく様子について、冬野氏は、次のようにリアルに描いています。
きっとこう来るぞ……。インド人だもん、絶対こう来る……!
そう思っているときが、地震が起きているときである。そして、
出た! やっぱり出ちゃったよ! なんでそういうことになるのかね!? 百回考えても、それっておかしくない!?
ってときが、噴火である。
事が起きると、それがダイレクトにドカンと腹に来る回路ができてきて、それをさらにガーッと怒りの感情に変換する「怒りの筋肉」が鍛えられてしまうのだ。
そのうち、自分のアドレナリンが吹き出る瞬間までわかるようになってくる。そして、怒りが湧くと同時に、胃や肝臓など、関連する内臓に負担がかかるのもわかるようになる。ある意味、怒りが派手でわかりやすいからだと思うが、ガーッと怒りが湧いて、ドバーッとアドレナリンが出て、ドスンと胃に来て、ズシッと肝臓が重くなるのを実感するようになるのだ。怒りと同時に、手先が冷えることまで知ってしまった。頭に血が行くからだろう。
インドが悪いのではない。あくまでも自分の育った環境との落差の激しさによるものなのだ。
激しい怒りによって自分の体がダメージを受ける様子まではっきりと実感できてしまうくらい、繰り返し繰り返し怒りのボタンを押し続けられたんだと思うと、読んでいて、何だかいたたまれない気持ちになりますが、一方で、これだけ辛い思いをしても、「インドが悪いのではない」と言い切るところに、冬野氏のインドへの深い愛を感じます。
世の中には、ボロボロに傷つけあっても互いに別れられないというような、不思議な人間関係というものが存在するようですが、一部の日本人とインドとの間にも、そういう不思議で濃厚な関係が存在するのかもしれません。
まあ、頼まれもしないのにこうしてインドのことばかり書きたがる「インド病」の私も、その一人なのかもしれませんが……。
それにしても、インドというのはそういう大変なところなのか、何はともあれインドに生まれなくて本当によかった……と胸をなでおろしている方もおられると思いますが、では逆に、日本に生まれて本当によかったかというと、一概にそうとも言い切れないところがあります。
先日の大震災で、日本が、地震をはじめとする激しい自然災害に常にさらされる厳しい土地であることは、改めて世界中に知られることになりましたが、それを別にしても、日本での暮らしには、インドとはまた違った形のストレスがあります。
それについて、冬野氏はこんな風に書いています。
デリーで受けるストレスは、「バッコーン!」「やったな、コラァ!」という種類のもので、まるで筋トレのような、何かを鍛えられているようなストレスである。ストレスを受けたことがはっきりとわかり、しかも複雑ではない。
しかし、日本の生活で受けるストレスは、まるでガンのように恐ろしいと思うことがある。気づかないうちに、少しずつ、少しずつ、やる気や元気を奪われていく気がするのだ。ヤラれたことに気づかないくらい絶妙な、表面的には「正しいこと」「いいこと」っぽく思われていることの中に含まれる侵食細菌みたいなものに蝕まれる感じで、気づくとウツロになっている。
自分の心に正直に生きようとすると、自分の欲求にすら気づいていない「なんとなくいい人」たちに、「なんとなく」「いつのまにか」引きずり降ろされてしまう。それがいろいろな形で現れ、なんだか自分が「無根拠由来・無自覚・自己抑制系・自己中心虚脱症」になっていくような気がするのだ。
日本は日本で、けっこうワナが多く複雑な社会だ。ないものねだりというわけではないけれど、日本にいると、インドの筋トレ的ストレスが懐かしくなったりするのである。
そして、こういう見えにくい微妙なストレスは、きっと日本だけの問題ではないのでしょう。いわゆる先進国と呼ばれる国々にも、似たようなストレスに苛まれている人間が大勢いるのではないかという気がします。
また、それは微妙なストレスであるだけに、その中でずっと暮らしていると、ストレスを感じていることにすら気がつかないということもあり得ます。むしろ、インドのような国で、全く性質の違うストレスにさらされる経験をして始めて、それまで日本でどんなストレスを受けていたのか、初めて気がついたりすることもあるのではないでしょうか。
とはいえ、結局のところ、この地上で普通に生きている限り、世界のどこに住んでも、必ずストレスの源というのはあるわけで、残念ながら、そこから完全に逃れることはできません。
ただ、もし救いがあるとすれば、それは、それぞれの土地によって、受けるストレスに違いがあるということです。
土地ごとに違うストレスが、それぞれの土地の個性みたいなものだとするなら、そうしたストレスとの相性も、個々人によって違ってくるのではないでしょうか。
だとすると、世界各地を旅して、さまざまなストレスを味わってみれば、やがていつの日か、旅人自身にとって相性のいい土地、つまり、その土地の与えるストレスなら、なんとか耐えていけそうだと思えるような土地が、この地球上のどこかに見つかるのかもしれません……。
JUGEMテーマ:旅行
2011.06.06 Monday
『13歳からの反社会学』
評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
この本は、謎のイタリア人戯作者パオロ・マッツァリーノ氏が、これからオトナになる若い世代に向けて、データの見かた、情報の集めかた、解釈のしかたの基本をレクチャーするという内容です。
本文には、「パオロさん」と中学生の男女という3人のキャラが登場するのですが、3人の掛け合いでバラエティ豊かなネタを楽しみながら、社会や情報をおもしろく見るためのヒントや方法を学べるようになっています。
ちなみに、『13歳からの反社会学』というタイトルは、宮台真司氏の『14歳からの社会学』(私は未読ですが)のパロディです。「反社会学」という、どこか過激な言葉の響きともあいまって、この本に、ちょっとブラックな笑いを想像してしまう人もいるかもしれません。
実際、マッツァリーノ氏の最初の作品『反社会学講座』は、データを駆使した社会学的研究という「科学的」な装いをまとわせることで、自分の個人的な偏見を人々に押しつけようとする俗流社会学者への痛烈な批判に満ちていました。この本でも、その精神は健在だし、本文の随所には、子供向けにしてはかなりひねりの効いた笑いが仕込んであります。
ただ、この本のメインテーマは、社会学や統計データをめぐるそうしたウラ事情を伝えることよりも、巷にあふれる情報を鵜呑みにせず、自分の力で調べ、考え、それを行動につなげていくための具体的なノウハウを伝えることにあるようです。そして、読み通してみると、マッツァリーノ氏が若い人々に向けた、むしろまっとうで人間味のあふれるメッセージが伝わってきます。
単なる知識の詰め込みは、決して人生を豊かにはしてくれません。彼によれば、世の中に出て本当に必要とされるのは、興味をもったものごとを自分で調べる能力と、問題を解決まで導ける思考力と行動力です。一方で、彼は、情報を集めたり、データを検証したりするのは、何か絶対的な正しさとか正義に至るための方法ではないことも強調しています。
そして、世の中には、完璧な正しさも100パーセントの正義も存在しないこと、オトナになるとは、中途半端に正しい現実と、勇気を持って向きあえるようになることなのだと喝破しています。
文章は、中学生でも読めるくらいに、かなり噛み砕いて書かれているのですが、私自身が中学生の頃はどうだったかと考えてみると、こういう本を自分から手にとるほど、社会への現実的な関心をもっていたとはいえないし、この本のような、ひねりの効いた味わい深い文章を楽しめるほど、社会経験も積んでいなかったような気がします。
まあ、今の若い人たちはそうでもないのかもしれませんが……。
個人的には、この本は、むしろオトナの方が楽しめるし、勉強にもなるのではと思いました。
オトナといえど、自分が興味をもったテーマについて、ふだんから図書館やネットの情報を深く掘り下げ、自ら考え続けるという作業をしている人は、けっして多くないのではないかという気がします。本文中で紹介されている読書術や図書館活用法などは、ごくシンプルで基本的なものなので、学校を出て以来、調べもののたぐいにすっかり縁がなくなっていたオトナでも、この本が、改めてそうした作業を始めるきっかけになるかもしれません。
ところで、マッツァリーノ氏は、ネット上のレビューというものについて、かなり批判的です。
彼によれば、レビューの星印は、批評する人の気分をあらわしているだけのことが多いし、作家になれるほどの才能も、なろうと努力する気もないけれど、自分の知性と感性にちょっと自信のある人が、あまり努力しなくても書けるレビューで「プチ自慢」しているのだといいます。
また、サイトによっては、星の数の合計をみんなの頭数で割って平均値を出していますが、人によって意見や好みが違うからこそ、レビューの意味があるはずなのに、平均値にしてしまったら個人の意見がないがしろにされることになるし、その数字に統計学的な意味もないと言っています。
これまで、自分が読んだ本について、主観的判断だけで偉そうに星印をつけてきた私には、とても耳の痛い指摘です。たしかに、全身全霊をあげて生み出した作品を、気分次第で評価されるプロの人たちにしてみれば、たまらないだろうなと思います。
でも、素人のこういう主観的な評価とか感想も、見る人によってはそれなりに参考になることもないわけではないのではないか……と、あくまで自分に好意的に考えることにして、これからも、星印を使った本の評価は続けたいと思います。
マッツァリーノ氏には申し訳ありませんが……。
パオロ・マッツァリーノ著 『反社会学講座』 の紹介記事
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
JUGEMテーマ:読書
この本は、謎のイタリア人戯作者パオロ・マッツァリーノ氏が、これからオトナになる若い世代に向けて、データの見かた、情報の集めかた、解釈のしかたの基本をレクチャーするという内容です。
本文には、「パオロさん」と中学生の男女という3人のキャラが登場するのですが、3人の掛け合いでバラエティ豊かなネタを楽しみながら、社会や情報をおもしろく見るためのヒントや方法を学べるようになっています。
ちなみに、『13歳からの反社会学』というタイトルは、宮台真司氏の『14歳からの社会学』(私は未読ですが)のパロディです。「反社会学」という、どこか過激な言葉の響きともあいまって、この本に、ちょっとブラックな笑いを想像してしまう人もいるかもしれません。
実際、マッツァリーノ氏の最初の作品『反社会学講座』は、データを駆使した社会学的研究という「科学的」な装いをまとわせることで、自分の個人的な偏見を人々に押しつけようとする俗流社会学者への痛烈な批判に満ちていました。この本でも、その精神は健在だし、本文の随所には、子供向けにしてはかなりひねりの効いた笑いが仕込んであります。
ただ、この本のメインテーマは、社会学や統計データをめぐるそうしたウラ事情を伝えることよりも、巷にあふれる情報を鵜呑みにせず、自分の力で調べ、考え、それを行動につなげていくための具体的なノウハウを伝えることにあるようです。そして、読み通してみると、マッツァリーノ氏が若い人々に向けた、むしろまっとうで人間味のあふれるメッセージが伝わってきます。
単なる知識の詰め込みは、決して人生を豊かにはしてくれません。彼によれば、世の中に出て本当に必要とされるのは、興味をもったものごとを自分で調べる能力と、問題を解決まで導ける思考力と行動力です。一方で、彼は、情報を集めたり、データを検証したりするのは、何か絶対的な正しさとか正義に至るための方法ではないことも強調しています。
そして、世の中には、完璧な正しさも100パーセントの正義も存在しないこと、オトナになるとは、中途半端に正しい現実と、勇気を持って向きあえるようになることなのだと喝破しています。
文章は、中学生でも読めるくらいに、かなり噛み砕いて書かれているのですが、私自身が中学生の頃はどうだったかと考えてみると、こういう本を自分から手にとるほど、社会への現実的な関心をもっていたとはいえないし、この本のような、ひねりの効いた味わい深い文章を楽しめるほど、社会経験も積んでいなかったような気がします。
まあ、今の若い人たちはそうでもないのかもしれませんが……。
個人的には、この本は、むしろオトナの方が楽しめるし、勉強にもなるのではと思いました。
オトナといえど、自分が興味をもったテーマについて、ふだんから図書館やネットの情報を深く掘り下げ、自ら考え続けるという作業をしている人は、けっして多くないのではないかという気がします。本文中で紹介されている読書術や図書館活用法などは、ごくシンプルで基本的なものなので、学校を出て以来、調べもののたぐいにすっかり縁がなくなっていたオトナでも、この本が、改めてそうした作業を始めるきっかけになるかもしれません。
ところで、マッツァリーノ氏は、ネット上のレビューというものについて、かなり批判的です。
彼によれば、レビューの星印は、批評する人の気分をあらわしているだけのことが多いし、作家になれるほどの才能も、なろうと努力する気もないけれど、自分の知性と感性にちょっと自信のある人が、あまり努力しなくても書けるレビューで「プチ自慢」しているのだといいます。
また、サイトによっては、星の数の合計をみんなの頭数で割って平均値を出していますが、人によって意見や好みが違うからこそ、レビューの意味があるはずなのに、平均値にしてしまったら個人の意見がないがしろにされることになるし、その数字に統計学的な意味もないと言っています。
これまで、自分が読んだ本について、主観的判断だけで偉そうに星印をつけてきた私には、とても耳の痛い指摘です。たしかに、全身全霊をあげて生み出した作品を、気分次第で評価されるプロの人たちにしてみれば、たまらないだろうなと思います。
でも、素人のこういう主観的な評価とか感想も、見る人によってはそれなりに参考になることもないわけではないのではないか……と、あくまで自分に好意的に考えることにして、これからも、星印を使った本の評価は続けたいと思います。
マッツァリーノ氏には申し訳ありませんが……。
パオロ・マッツァリーノ著 『反社会学講座』 の紹介記事
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
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