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ネットカフェへの規制強化?

ネット上で見かけるさまざまな記事によると、最近、警察庁が、ネットカフェの個室営業に対する規制を強化する動きに出ているようです。
ダイヤモンドオンライン 【ネットカフェの個室は本当に「犯罪の温床」なのか? 風営法による規制強化まで取り沙汰されることの是非 】

問題になっているのは、現在ネットカフェで広く行われているような、個室で飲食物を提供するサービスで、警察側の解釈によれば、それは風営法の適用対象となる、ということのようです。

ネットカフェ側としては、風営法上の届出をすると深夜の営業ができなくなってしまうので、それを避けるためには、仕切りを取り払って個室をなくすとか、飲食物を個室以外のオープンな場所だけで提供するなど、何らかの対応をする必要があります。
風営法のハテナ 【ネットカフェの個室で飲食が禁止されたわけ】
風営法のハテナ 【ネットカフェ指導強化に関して】

ただし、そうした対応は、いずれも現在の利用客のニーズから外れることになるはずで、どんな対策をとるにせよ、ネットカフェ側としては、かなり頭の痛い問題なのではないでしょうか。

ところで、ネットカフェというものは、考えてみればとても不思議な空間です。

それは、いちおう名前のとおり、インターネットを利用できる喫茶店という体裁になっているのですが、同時にマンガの貸本屋のようでもあり、また、壁で仕切られた個室は、仮眠スペースや一種の簡易宿泊所のようでもあり、実際にそのように利用されています。

私は日本のネットカフェの現状に詳しいわけではないのですが、メディアやネットの世界で見聞きした範囲では、それは、ネットの利用やマンガを読むという本来の利用目的を中心に、お金のない旅人や終電に乗り遅れたサラリーマンが最低限の費用で夜を明かせる、ホテル未満の宿泊施設として、あるいは、いわゆる 「ネットカフェ難民」の住まいとして、そしてまた、老若男女にかかわらず、家庭や学校、会社などのしがらみからの一時的な逃避、いわばプチ家出の場所としても使われたりと、さまざまな目的や事情をもった人々を受け入れる懐の広さをもっているようです。

それは、都会で暮らす誰もが気が向いたときにいつでも利用できる、時間貸しの「秘密基地」みたいな空間なのかもしれません。不特定多数の人間が集まるカフェではありますが、壁で区切られた個室に入ればある程度のプライバシーを確保できるし、その「秘密基地」の中で何をして過ごすかは、完全に各人の自由に任されています。

しかし、その自由度の高さが、一方ではさまざまな問題を生む原因にもなっているわけで、警察のような、社会秩序を維持する役所からすれば、ネットカフェの個室化された空間がはらんでいるネガティブな可能性に、どうしても目がいってしまうのでしょう。

そして、これは私の個人的な想像に過ぎないのですが、お役所としては、個々の具体的な違法行為を摘発したいというよりは、やはり、喫茶店にも貸本屋にも風俗店にも旅館にも分類できないような、ネットカフェという空間のわけのわからなさに対する不安から、それを「風俗店」という世の中の既存のカテゴリーの中に押し込めることで、何とか管理できる存在にしておきたいという気持ちがあるのではないかという気がします。

ネットカフェに限らず、世の中のあらゆる物事について言えるのでしょうが、カテゴリーのはっきりしない、あいまいな存在、どんな言葉や定義によってもうまくその全体像をとらえきれないような存在を、怪しげで気持ち悪いと感じる人は少なくないでしょう。

そういうものは、いつも世の中の片隅からいつの間にか現れて、それが一体どういう存在なのか、誰がどういう根拠で管理すべきなのか、みんなが迷って手をこまぬいているうちに、そのわけのわからないアングラ感の発散する魅力が、行き場を求めていた多くの人のエネルギーを吸い上げて無視できない存在になるばかりか、そのまま放置していれば、「お上」がコントロールできないくらい巨大な影響力を持つようになるかもしれません。

もっとも、庶民の日々の暮らしの中からは、その切実なニーズに応える形で、常にさまざまな新奇なものが生まれ続けています。それが、世の中の既成概念にうまくあてはまらない、怪しげな存在であることは多々あるし、それをどうにかして管理し、社会にとって無害なものにしようとする「お上」とのせめぎあいも、今に始まったことではありません。その意味では、今回のネットカフェのケースにおいても、お役所は、いつものとおり、やるべきことを粛々とやっているだけなのでしょう。

ただ、個人的には、風営法を根拠にネットカフェを取り締まるという考え方に、やはりモヤモヤとした違和感を感じます。法律の解釈の問題はともかく、ネットカフェを利用する人のほとんどは、そこが「風俗店」だと思って訪れているわけではないでしょう。

ネットカフェの側も、このまま規制の動きを受け入れれば、利用者にとってのメリットが大きく失われ、これまで客のニーズを取り込んで進化し続けてきたネットカフェのあり方に大幅な軌道修正というか、退化をもたらすことになる気がします。

あるいは、現在のネットカフェの、あいまいで何でもありみたいな業態が、官からの介入を招くということであれば、個室や簡易宿泊場所を提供する機能は、飲食のサービスと切り離して、いわゆる「ネットルーム」みたいな形へ、また、インターネット利用やマンガ喫茶としての側面は、個室化を断念してネットカフェ初期の頃のスタイルに戻すなど、それぞれの機能が別々の店として専門分化することで、生き残りを図ることになるのかもしれません。

役所の規制に対応して、その多目的であいまいな性質を放棄し、誰にでも受け入れられるような、安心・安全で、同時に面白みのない存在へと変わっていくのか、それともさらに利用者のニーズを取り込んで、新奇で、よりわけの分からない空間へと変貌を遂げていくのか、あるいはネットカフェ業界全体が、その二つの方向へと分裂していくのか……。

いずれにしても、人々のニーズがあれば、それを満たそうという動きがあり、そして、そうした動きが人目を引けば、上からコントロールしようとする動きがあり、そのせめぎあいの積み重ね、つまり私たちの社会における、欲望とそのコントロールのバランスが、ネットカフェの現状と将来の姿を決めていくことになります。

その姿は、ある意味で、私たち自身の内面の投影でもあるのかもしれません。

ネットカフェという、あいまいで何でもありの不思議な空間が、どんな姿になっていくのか、これからも興味をもって見守りたいと思います。


記事 「ネットカフェ「難民」というけれど……」
記事 「「居場所」の料金」


JUGEMテーマ:ニュース

at 19:42, 浪人, ニュースの旅

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なでしこジャパン、世界一おめでとう!!

サッカー女子ワールドカップのドイツ大会で、延長、PK戦の末、日本代表がアメリカを下して初の世界一に輝きました。

正直に言うと、私は今回の決勝戦になって初めてリアルタイムでTV観戦した典型的な「にわかファン」に過ぎないのですが、これまで一度も勝ったことのないアメリカという高い壁に立ち向かい、ピンチをひたすらしのぎ、打たれても打たれても再び立ち上がるような壮絶な試合と、その劇的な結末は、心にグッとくるものがありました。

女子サッカーに思い入れのある人なら、涙なしには見られなかったのではないでしょうか。

後々まで記憶に残る、すばらしい試合を見せてくれて、本当にありがとう!


JUGEMテーマ:ニュース

at 09:55, 浪人, ニュースの旅

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『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』

文庫版はこちら

Kindle版はこちら

 

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります


ホームレスの人々がブルーシートや廃材で作り上げた路上の家に、「人間が本能的に建てようとする建築の世界」を見出し、そこに秘められた画期的なアイデアの数々をまとめたユニークな本、『TOKYO 0円ハウス0円生活』については、以前にこのブログでも紹介しましたが、この本は、その著者である坂口恭平氏が、豊かな「都市の幸」を利用して生きる路上生活の中にポジティブな可能性を見出し、それを「都市型狩猟採集生活」というコンセプトでまとめたものです。

内容としては、『TOKYO 0円ハウス0円生活』とかなり重複しているのですが、今回の作品は、家も仕事もカネもなく、着の身着のままでいきなり東京のまん中に放り出された人間が、まったくのゼロからいかに生きていくかという具体的なシミュレーションの形で話が進んでいくので、非常に分かりやすくなっています。

読み手としても、かりに自分が同じ境遇におかれたら、路上での新しい生活を受け入れることができるだろうかと、いろいろと自問しながら読めるだろうし、もしものときには、都市でのサバイバル・マニュアルとしても役立つかもしれません。

路上での生活は、まずは炊き出しに並び、まだ着られる服を拾ったり、配給でもらったり、自分用のダンボールハウスを組み立てることで、最低限の衣・食・住を確保することから始まります。やがて、生活を共にする仲間が生まれ、路上生活の師匠としてさまざまなノウハウを伝授してくれる人物にも出会うことになるでしょう。

とりあえずそれだけでも、何とか命をつないでいくことは可能です。この本を読む人は、東京のような大都市の場合、いざとなっても飢える心配はないという事実を知って、驚くかもしれません。

ただ、この本で坂口氏のいう「都市型狩猟採集生活」とは、炊き出しなどの援助に頼る受け身の生活よりも、もっと積極的なもので、最終的な目標は、自らの頭で考え、独自の生活や仕事をつくり出していくことにあります。

路上生活にある程度慣れたら、周辺をくまなく歩き、都市を注意深く観察することで、よりよい食事や生活の楽しみ、さらにはささやかな現金収入の道さえ見つけることができます。大都会では、日々膨大な廃棄物が生み出されていますが、ほとんどの人にとって、それは単なるゴミに過ぎなくても、路上生活者には、その多くが豊かな資源として目に映ります。

この本では、そうした「都市の幸」をお金に変えるいくつかの方法も紹介されています。そのほとんどは、かなり地道な作業を伴いますが、自分なりに工夫を重ね、そうした仕事を続けていくうちに、それはやがて、自分の才能や生活スタイルに合った「生業」に発展していくかもしれません。

一方で、路上の家も、単純なダンボールハウスから、廃材やブルーシートを使ったより堅固で快適なものへと、自由に建て直したり、改造したりすることができます。

こうした路上や河川敷の手作りの家は、家に関する私たちの固定観念を根本から覆すパワーを秘めています。それは、家を建てるのは専門家に任せるべきだという観念や、家は非常に頑丈でなければならないという観念、あるいは、土地所有に関する観念や、電気・ガス・水道などのインフラに関する観念を次々に揺るがします。

私たちは、何もない状態で都会のど真ん中に放り出されたら、絶対に生きていけないのではないかと思いがちですが、この本を読めば、それが可能であるばかりか、むしろそれは、生活の安定のための仕事とか、人生設計とか、何十年ものローンと引き換えの持ち家のようなものに煩わされず、自分の生活を自由に創造できる、可能性に満ちた状態なのではないかという気さえしてくるかもしれません。

坂口氏によれば、路上生活者は、都市の中で唯一、自力で「家」や「仕事」を、つまりは「生活」を発明しながら生きている、原初的な生命力を失っていない人々なのです。

実際、この本に出てくる人たちはみな魅力的です。たとえば、隅田川で暮らす都市型狩猟採集生活の達人「隅田川のエジソン」(鈴木さん)や、多摩川の河川敷で、発電機で電気を確保し、雨水を利用し、都市のインフラから独立した暮らしを実践している「多摩川のロビンソン・クルーソー」や、金を一切持たず、ダンボールハウスすらなく、与えられるわずかな食事だけで超然として生きている「代々木公園の禅僧」などなど……。

ただ、やはり気になるのは、この本が、路上生活のいい面だけを強調しすぎているのではないかということです。世の中の大多数の人々は、できれば、あるいは絶対にそういう生活をしたくないと思い、そのために辛い仕事にも必死に耐えて生きているわけで、そこに多少の思い込みはあるにしても、そう思うことにはやはり、それだけの理由があるように思うのです。

そして、この本で「都市型狩猟採集生活」を賞賛する坂口氏にしても、それを日々実践しているわけではないし、この本の内容も、知り合った路上生活者から聞いた話がもとになっています。もしも、彼自身が長年にわたって路上生活を経験し、実際の体験から紡ぎだした生活哲学を披露したのであれば、そこにはもっと強力な説得力があったのではないかという気がします。

それに、「都市型狩猟採集生活」が成り立つのも、「都市の幸」を豊かに生みだす大量消費社会があってこそだし、それぞれの都市の路上生活者の数とその生活のクオリティは、都市の豊かさと密接に関連しているはずです。

何らかの理由で都市の景気が悪くなったり、浪費を見直す動きが起きて、節約やリサイクルが活発になれば、都市の幸に頼る人々の生活は厳しくなるでしょう。

また、いわゆる開発途上国においても、都市の廃棄物を生活の糧として暮らす人が大勢いるわけですが、そこではそうした人々のあいだで、日本では考えられないほどの厳しい競争があるはずです。

ミもフタもない言い方をするなら、日本の場合は、まだまだ使えるモノをゴミとして捨てて省みないだけの豊かさと、ゴミを求める人間同士の競争がそれほど熾烈でないからこそ、ある程度文化的な「都市型狩猟採集生活」が可能になっているのかもしれません。

現在の東京で、公園や河川敷での生活が黙認されているのも、路上生活者の数がまだ許容範囲内に収まっているからこそで、もしも路上生活者が急増し、それに伴うさまざまな問題が発生すれば、当然規制は厳しくなるだろうし、そうした生活をする人間を社会から排除しようとする動きも強まるかもしれません。

いずれにしても、「都市の幸」をあてにして暮らせるのは、常に社会のごく一部の人々に限られるわけで、だとすれば、かりに何らかのポジティブな可能性がそこにあるとしても、「都市型狩猟採集生活」が、現実に多くの人々を惹きつけることはあり得ないのでしょう。

さらにつけ加えれば、やはり子どものいるファミリーとか若い女性については、そういう生活はほとんど不可能か、かなり厳しいことになりそうです。

ちょっと、批判的なことを書きすぎてしまったかもしれません。

それでも、世の中の常識的なモノの見方をなんとなく受け入れるのではなく、たとえばこの本の路上生活者のような、まったく違う視点から自分の周りの世界を眺める方法を身につけることで、あえて世の中を変えたりしなくても、目の前に全く新しい世界が開けてくるし、そこに各自が自由に創造性を発揮する余地もあるという坂口氏のメッセージは、とても重要だと思います。

今の世の中の閉塞状況を受けて、私たちはつい、問題だらけの社会システムを根本的に変えたり、全く新しいタイプの優秀なリーダーを求めたり、みんなが一斉に考え方を改めたりしなければならないのだと考えてしまいがちですが、本当にそうしようとすれば、社会全体でものすごいエネルギーが必要です。

もしかすると、そういう大変化を求める必要などなく、気がついた人から、それぞれ気軽に始められることがたくさんあるのかもしれません。そして、今の自分の生活を見直し、とりあえず自分に何ができそうかを考え、行動に移すうえで、この本は、荒削りですが、さまざまなヒントに満ちている気がします。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします



JUGEMテーマ:読書

 

at 19:22, 浪人, 本の旅〜人間と社会

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旅の名言 「だから、旅を……」

 いまは旅にとって幸福な時代ではないかもしれない。辺境も秘境も失われ、どこかにユートピアがあるはずだという素朴な楽園幻想も持てない。グローバリズムの浸透によって、どこへ出かけようと、ここでないどこかを見出すのはとても困難だ。どこまでいっても、結局自分の脳内をぐるぐるまわっているような閉塞感もますます深まるだろう。旅になど出なくても、かんたんに世界の情報も得られるし、長い旅から戻ったものの、仕事が見つからなかったり、着地点を見出せずに苦しんでいる人たちもいる。
 でも、だとしても、旅をあきらめてはいけないと思う。きっと、まだ見えていないものがある。いまは見えていなくても、時をおけば、きっとなにかが見えてくる。ほんのささやかな旅であっても、そこには情報に還元しつくせない無数の経験が存在している。そうした経験は心の中でゆるやかに熟成し、日々の生活をべつの文脈から見ることを可能にしたり、ものごとの意味を新しく捉え直す力になったりすることがある。だから、旅をあきらめてはいけない。


『孤独な鳥はやさしくうたう』 田中 真知 旅行人 より
この本の紹介記事

作家・翻訳家の田中真知氏による旅のエッセイ『孤独な鳥はやさしくうたう』の「あとがき」からの引用です。

引用前半の一段落で、田中氏は、現代の旅につきまとう閉塞感について、簡潔に、的確にまとめています。

「いまは旅にとって幸福な時代ではないかもしれない」という彼の言葉に同意するかどうかは人それぞれかもしれませんが、国内・海外を問わず、旅が好きで、すでにあちこちを見てまわったことのある人なら、旅の現状をめぐって彼の言わんとするところはだいたい理解できるのではないでしょうか。

ほんの数十年前までは、この地球上にも、人類未踏の場所がいくつも残されていたし、探検家ならともかく、普通の旅人には簡単に近づけないような秘境の地というものも数多く存在しました。

この地上に、ほとんど誰も知らない、あるいは、普通の人間には決してたどり着けない場所があるという事実は、秘められた土地についての人々の想像をかきたてずにはおかなかっただろうし、それはまた、「どこかにユートピアがあるはずだという素朴な楽園幻想」にもつながっていたのだろうと思います。

しかし今や、普通の旅人にとってさえ、手の届かない場所というものはほとんどありません。さすがに紛争地帯へは行けませんが、かつての秘境でも、多少の出費さえ覚悟すれば、ツアーで簡単に訪れることができます。未知の土地が失われたことで、そこに私たちの幻想を重ねる余地もなくなりました。

それでも、人類全体ではなく、私たち一人ひとりの視点に立つならば、世界的に有名で、すでに多くの観光客が足を踏み入れた場所であっても、自分がまだそこに行ったことがないのなら、それは未知の土地だと言えないこともないのかもしれません。

実際、毎年数多くの人々が、国内・海外のありとあらゆる土地を旅し、それぞれの人にとって見慣れぬ風景や異なる文化に出会うたびに、新鮮な感動を味わっているはずです。

また、ガイドブックを片手に、自分で飛行機・鉄道・バスやタクシーを乗り継ぎ、世界を自由に、格安で旅するというスタイルも、ここ数十年間のあいだに若者を中心に広まった新しい旅の楽しみ方で、そうした新しい旅の可能性も、まだまだ完全に追求され尽くしたとは言えないのかもしれません。

ただ、一方で、そうした自由旅行の広がりは、世界各地にゲストハウスや旅行代理店、観光客向けのカフェやレストランなどを次々に生み出すことになり、その現象は、有名観光地の周辺ばかりではなく、辺境と呼ばれるような地域にまで及びつつあります。

同時に、グローバル化の進展にともなって、どこの国でも、ある一定水準以上の収入のある人々は、世界的なブランドの同じようなモノを買い、同じような音楽や同じような映画を楽しみ、同じようなニュースに興味をもち、同じようなことを考え、結果として、同じような暮らしをするようになりつつあります。

観光インフラの普及は、旅を便利で快適なものにしてくれたし、グローバル化のおかげで、私たちは異国の人々とも共通のバックグラウンドをもつことになり、それが旅先でのコミュニケーションを容易にしてくれるのですが、一方で、それらは、世界の金太郎飴化ともいうべき状況をもたらしているのかもしれません。

旅そのものは、年を追うごとに安全で快適なものになっているし、それは良いことであると私も思うのですが、ふと気がつくと、世界のどこへ行っても、似たような宿に泊まり、似たような食事をし、似たような体験をして、似たような人々と出会い、似たようなお土産を買って帰っているように思えてきます。

自分にとって本当に未知の何か、エキゾチックで新鮮な体験を求めて旅に出たはずが、旅をすればするほど、「どこへ出かけようと、ここでないどこかを見出すのはとても困難」になっているような気がするのです。

また、テレビや新聞・雑誌、旅行記やガイドブック、そしてネット上の旅行情報など、旅先に関する情報は有り余るほどで、私たちは、旅を始める前から、もうお腹いっぱいの状態です。

せっかく現地まで足を運んでも、事前に見聞きした膨大な情報のために驚きや感動が薄れてしまい、初めて実際に目にする風景に強い既視感を覚えたり、新しいことを体験しているはずなのに、何となく先が読めてしまう気がする人も多いのではないでしょうか。

異国の街角でも、どこかで見たような店に入り、自分と似たような人々に出会い、知らない国にいるはずなのに、意外性や驚きのない旅。それは、先が見通せて不安がないという意味で、安全で快適な旅ではあるのですが、そこには同時に、世界中に広がる巨大なシステムの内側に閉じ込められたまま、どうやっても外に出られないフラストレーションや、「どこまでいっても、結局自分の脳内をぐるぐるまわっているような閉塞感」があります。

さらに、これは日本特有の問題かもしれませんが、海外を数年間放浪して帰国したような旅人の中には、日本社会に激しい逆カルチャーショックを感じ、不適応の症状が出てしまう人がいるし、再び就職して日本社会になじもうとしても、職歴上のギャップを嫌う日本企業に敬遠されて、思うように職を見つけられない人もいるようです。

こういうことはすべて、実際に旅を続けてみて、始めて実感として分かってくるという面も大きいので、むしろ何度も旅を重ねたり、長い旅を続けている人のほうが、こうした旅の閉塞感にとらわれたり、旅に深い幻滅を感じる傾向があるのかもしれません。

その一方で、最近は若い世代の海外旅行離れが進んでいるという話もあります。ひと昔前のような、海外への素朴な憧れみたいなものも、今はもうなくなってしまったのかもしれないし、カネや手間暇をかけてまで旅に出ようと思わなかったり、旅に全く意味を見出せないという人も、けっこう多くなっているのでしょうか。
記事 「若者の海外旅行離れ?」

しかし、それでも、田中氏は、「旅をあきらめてはいけない」と言います。

どんなにささやかな旅であろうと、自分にとって未知の土地を訪れるという行為は、言葉や情報という形に還元することのできない、無数の経験のかたまりであり、今はそこに深い意味を見出せないとしても、旅の経験は心の中で熟成を続け、いつか、私たちの生活を別の新しい視点から見つめるための力になってくれるかもしれないというのです。

私も、きっとそうなのだろう、そうであってほしいと思います。

かつて、私が長い旅に出る決意をしたときも、これから自分が体験することは、世間的な意味ではほとんど役に立たないだろうし、旅に伴う危険もいろいろあるけれど、長い目でみたときに、自分に返ってくる何かがあるのではないか、今はそれについて何のあてもないけれど……といったようなことを、ぼんやり考えていた気がします。

でもまあ、私の場合は、旅を何年続けても、何かがはっきりと見えてきたわけではないし、旅のおかげで、自分が何かの能力に目覚めたという実感もありません。むしろ、周りの人からすれば、海外をフラフラ旅しているうちに、人生をドロップアウトしたようにしか見えないでしょう……。

それはともかく、現代の旅と閉塞感が分かちがたく結びついていて、人によっては、そのネガティブな感覚と必死で闘いつつ、自分なりの意味を求めて旅を続けているのかと思うと、なんだか切なくなってきます。

しかし、現在、世界を覆い尽くしているグローバル化や情報化の流れが続くかぎり、その閉塞感から簡単に逃れることはできないだろうし、個々人が実際に旅をする意味も、これからますます失われていくのかもしれません。

そういう状況の中では、結局のところ、自分の中に旅への強い衝動を持ち続けている人間だけが、旅を続けられるのでしょう。

今、ここで意味を見いだせなくても、旅を続けさえすれば、いつか何かが見えてくるかもしれないという田中氏の言葉は、自分の中のネガティブな思いに打ち勝ち、さらに一歩を踏み出そうとする旅人にとって、ひとつの希望だと思います。

ただ、「旅をあきらめてはいけない」というひとことに素直に励まされ、何の担保もなしに、不確かな未来の可能性に賭けることのできる旅人がいるとしたら、それはその人の中に、どんなことがあっても消えない、旅への強い衝動があるということなのかもしれません……。


JUGEMテーマ:旅行

at 19:04, 浪人, 旅の名言〜旅について

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