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旅の名言 「放浪の旅で待ち受けている……」

 放浪の旅で待ち受けている冒険や挑戦の中で最もむずかしいのは、家に帰ることかもしれない。
 帰郷することは、楽しかった旅の喜び、自由、思いがけない出来事との出会いがもう終りになるということであり、残念なことだと思うだろう。しかし、海外で生き生きとした経験をして家に帰ると、ただただ変な感じがして落ち着かなく感じられることもある。すべては自分が旅に出る前となんら変わりないかのように見えるのに、まったく違うもののように感じられるのだ。
 この家に帰るという体験をうまく言葉で表すために、T・S・エリオットの『小さな眩暈』がよく引用される。

  すべての探険の最後に待っているのは
  出発した場所に戻ることだ
  そしてその場所をはじめて知ることになるのだ

 示唆に富んだ言葉ではあるが、自分の故郷をはじめて「知る」というのは、本来なじみ深いはずの場所で自分をよそ者のように感じるということだ。

 
『旅に出ろ! ― ヴァガボンディング・ガイド 』 ロルフ・ポッツ ヴィレッジブックス より
この本の紹介記事

これから放浪(ヴァガボンディング)の旅に出ようとする人のために、その心構えと実際を説いた入門書、『旅に出ろ!』からの引用です。

旅に出る人は、これから旅先で出会うだろう新奇なものごとや、未知の人々との交流への期待に胸をふくらませることはあっても、さらにその先、自分の旅が終わった後に何が起こるかまでは考えていないのがふつうです。まして、長い旅ともなると、そもそもいつ旅が終わるのかさえ分かっていないかもしれません。

しかし、以前にこのブログでも何度か触れましたが、長い旅を終えて久々に帰郷すると、人によっては、激しい「逆カルチャーショック」に襲われることがあります。
旅の名言 「旅に出ても……」

旅人は、勝手知ったる土地に戻る以上、また昔と同じ生活が始まるだけだと思いがちですが、数カ月ぶり、あるいは数年ぶりに帰国して、見慣れた懐かしい風景を目にし、親しい人々と再び言葉を交わしてみると、「すべては自分が旅に出る前となんら変わりないかのように見えるのに、まったく違うもののように感じられる」のです。

もちろん、流れた歳月によっては、そこに多少の外見上の変化はあるでしょうし、世の中の流行もすっかり移り変わってはいるでしょうが、ここで言う「まったく違うもののよう」とは、そうした外面的な違い以上に、生まれたときから何の不思議もなく受け入れてきた、自分の国や社会のすべてのものごとに対して、内面的に感じる、何ともいえない違和感を意味しています。

旅人は、旅を通じて自分の内面が劇的に変わってしまっていたことに、たぶん、旅が終わるまでほとんど気づかずにいます。鏡なしには自分の姿が見られないように、自分の変化は、何か自分自身を正確に映し出してくれるものを通してしか、感じとることができないからです。

彼らは、かつて見慣れた世界、旅をする前の自分が何の違和感もなく適応していた世界に再び投げ込まれることをきっかけに、そこに何ともいえない大きなズレを感じ、自分がどれだけ違う人間になってしまっていたか、激しいショックとともに自覚することになるのです。

しかも、多くの旅人は、逆カルチャーショックについての予備知識などなく、そういうことが起きること自体を知らないか、旅仲間から事前にそういう話を聞かされていても、それが大変な体験になるかもしれないなどとは思ってもみないでしょう。

帰国した瞬間から感じ始めた違和感は、むしろ時間が経つほどに強くなっていきます。その変な感覚をどうにもうまく説明できなくて、自分が精神的におかしくなってしまったのだと勘違いしてしまう人もいるかもしれません。

まあ、こうした帰国ショックがどのようなものになるかは、旅人の性格とかこれまでの人生経験などによっても大きく違うだろうし、もちろん、ふつうは特に何の対処もしなくても、時間が解決してくれます。違和感は自然に克服され、いつの間にか、再び周りの世界に融け込めるようになるでしょう。

ただ、どれだけ世の中にうまく再適応できたとしても、敏感な人なら、そのときの違和感がいつまでも心の奥底に残り続けていること、そして、もう二度と、その違和感から逃れることはできないことに気がつくのではないでしょうか。

旅を通じて訪れた国々が、かつての自分にとっては「外」の世界であったとするならば、自分が生まれ育った国や社会は「内」なる世界であり、生まれたときから、自然に自分と一体化していたはずです。

それが、自分にとって違和感のある世界に感じられ、まるでその世界を「はじめて知る」かのように、いちいち心に引っかかるというのは、そこもまた、自分にとっての「外」側になったということ、つまり、自分にはこれまで「内」側として感じられていた親密な世界が、もはやそうではなくなってしまったということです。

長い旅を終えた旅人は、帰郷して、自分がすでに「故郷」を失ってしまっていたことに気づくのです。

そして、一度失われたものが、再び戻ってくることはありません。

そう考えると、たしかに、「放浪の旅で待ち受けている冒険や挑戦の中で最もむずかしいのは、家に帰ること」なのかもしれません。

もちろん、旅人の心の中で、故郷に対する違和感が消え去ることはないとしても、たぶん、自分の国や土地に対する思い入れの深さが変わることはないだろうし、生まれた場所というのは、本人にとって死ぬまで特別な場所のひとつであり続けるのでしょう。

それでも旅人は、たとえ自分の国で暮らしていても、そこがもはや、なじみ深い身内の世界ではなく、他の国々と本質的には変わらない、一つの滞在先に過ぎなくなってしまったことも、心の片隅で感じ続けることになるのです。

それは、何とも切なく、哀しいことであるのかもしれません。

しかし同時に、そうした「よそ者」になることによってはじめて、旅人は、自分がその中で生まれ育った小さな世界を、これまでとは全く別の新鮮な目で見つめることができるし、それによって、これまで当たり前すぎて意識することもなかった、その小さな世界の美しさに、改めて気づかされるのかもしれません。


JUGEMテーマ:旅行

at 18:59, 浪人, 旅の名言〜旅の終わり・帰還

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何か言いたいような、でも言えないような

最近、世界各地から伝えられる悲惨な事件・事故や、欧米発のさらなる経済危機の足音など、嫌なニュースの数々に接していると、このブログに、つい何かひとこと書きたくなります。

でも、ほとんどの場合、私は結局何も書かないで、そのモヤモヤした気持ちをそのままやり過ごすことになります。

かりに何か書いたところで、それはきっと、酔っぱらいが赤ちょうちんでクダを巻いているレベルになるだけだし(まあ、私がこのブログに書いてることは、みんなそのレベルなのですが)、きっと誰かがすでに似たようなことを書いているだろうと思うと、インターネットの膨大な情報の海に、改めて余計なひとことを加える必要もない気がします。

それに、そのモヤモヤした気持ちをそのまま吐き出すのではなく、せめてそれなりに脈絡のある文章にしたり、そこにポジティブなものを少しでも感じられるようにしたいと思うのですが、それにはまず、自分自身が前向きな気分を保っていなければならないし、一つひとつのテーマに関する予備知識はもちろん、記事をまとめるまでには長い自問自答のプロセスも必要です。

それがなければ、ネガティブなニュースに対して、ただネガティブな気分を反射するだけになってしまうでしょう。やはり、そういうものを、人の目に触れる場所に出すのは自制したいと思うのです。

というわけで、何か言いたいような気はしても、でもあえて書くまでもないか、やっぱり自分には書けないな、などとグジグジ迷った末に、何も書かないことがしょっちゅうあります。そして、3月の震災以来、その頻度がさらに高くなりました。

ただ、こんなモヤモヤを抱えているのは、たぶん私だけではないだろうと思います。

世の中に対して、政治的に声を上げることもなく、現在の社会体制を潜在的に支持している多数派、みたいな意味合いで使われる、サイレント・マジョリティという言葉がありますが、その一見「サイレント」な人々にしても、彼らがみんな紳士淑女だから、常に静かにおとなしく生きている、というわけではないでしょう。

この世に生きる誰もが、政治的な信条とか社会的な立場にかかわりなく、心を乱す大波小波を、常に胸の内に抱え込んでいるはずです。政治的に声を上げないからといって、すべての人間が現状を肯定しているとは限りません。

心にモヤモヤを抱えた人は数限りなくいるのでしょうが、一晩寝たら全部忘れてしまうという人もいれば、赤ちょうちんで飲んだくれて憂さを晴らす人もいるだろうし、家族や知り合いの内輪だけで不満を言い合ったり、日記や匿名掲示板の中でだけ本当の思いを綴ったりしながら、みんな、何とか自分の気持ちをやり過ごしているんだろうと思います。

だから、「サイレント」というのは、そうした気持ちの振り幅が、広場に群がって日頃の鬱憤をぶちまけたり、シュプレヒコールを叫んでデモ行進したり、政治的なアピールを文書にしたりというレベル、いやでも多くの人の目に触れるようなパフォーマンスをするほどの激しさまでには至っていない、というだけです。

そして、ブログの記事を書こうか書くまいかとあれこれ迷ったあげく、いつもほとんど何も書かない私も、そうした「サイレント」な人間の端くれなのでしょう。

ただ、表面的に静かにしているように見えても、みんなが同じような視点からこの世界を見て、同じようなことを考え、同じような思いを心に抱いているわけではないはずです。

しかし、「サイレント」なだけに、そのあたりがお互いによく分かりません。

大震災以降の一連の出来事についても、それをどんな風に受けとめ、今はどんなことを考えているのか、自分の身近な人々についてなら、その一端を知ることはできますが、やはり心の奥底までは知る由もないし、ましてや日本人の一人ひとりがそれぞれどんな思いでいるのか、そのホンネを知る手段はありません。

時間をかけて個々の人間に寄り添い、日頃の言動に接していれば、その人の本心についても、ある程度想像できなくもないのでしょうが、そうした現実の人間関係を離れ、数え切れないくらい多くの人々が生みだす動きの全体を、時間的・空間的に俯瞰する視点、いわば、政府やマスメディアや歴史の書き手のような視点から社会全体を見回すなら、個々人の小さな心のつぶやきなど全く聞こえなくなって、ごくごく少数の「ノイジー・マイノリティ」以外は、常に声を潜めているように、そしてみんな同じように見えてしまうのでしょう。

でもまあ、考えようによっては、本当に世の中に向かって言いたいことがあったり、伝えなければならない重大な事実を知っている人なら、その思いをどうしても抑えることができないだろうし、自分で表現できないのなら、代わりにその役目を負うにふさわしい代弁者を、きっとどこからか見つけ出すでしょう。

逆にいえば、私のように、書くべきか書かざるべきか、あーだこーだと考えているばかりでちっとも表現に結びつかないのは、結局のところ、そこに、人に伝えるべき思いの強さや必然性が足りないというか、それが誰か他の人間へと伝わっていく価値がないということに、自分でも薄々気がついているということなのかもしれません……。

それはともかく、ひとつ気になるのは、あの震災以来、自分の気持ちを制する心の壁が少し低くなったのか、それとも心の壁にヒビでも入ったのか、世の中で起きているあれこれについて、何か言いたい気持ちになることが、これまでよりも多くなった一方で、それと同時に、これまで続いてきた日常(と、それを支えてきたさまざまなしがらみ)を必死で守ろうとする動きが、同調圧力のような形で日に日に強まっていくのも感じていて、そういう状況では、うっかり変なことは言えないという強い緊張感を覚えることです。

そしてそのせいか、心の中で、アクセルとブレーキを両方踏み続けているような、心のエネルギーを大量に消費するわりにはどこにも進んでいけないような、とても消耗する感じがするのです。

日本と世界の激動をよそに、新聞やテレビがどこか他人事のような、型どおりの報道を繰り返し、世間の表面的な動きも、それに同調しているように見える一方で、ネットの世界では、極端な立場からかなり刺激的な発言をする人がけっこう目立ちます。

そうした極論が、多くの人のホンネを反映したものなのか、人々がそれにどのくらい共感しているのかは私には分かりません。

ただ、ネット上で極端な発言をしている人々を見ていると、彼らのように心のブレーキから足を離し、ひとつの方向に突っ走ってしまえば、それなりに気持ちはいいんだろうな、という気はします。

もっとも、そういう極論は、それに同調する人々はもちろん、その対極の立場の人も引きつけてしまうようで、ネット上では常に、その両極の人々がいつ終わるとも知れない罵倒合戦を繰り広げています。それを見ていると、結局のところ、そこにはやはり出口がないように思えてなりません。

かといって、周りの空気を気にして自分の思いを心の内に押し込め、とりあえず様子見を決め込もうとしても、心の圧力はどんどん高くなる一方のような気がするし、何よりも、方向性もないまま状況に流されていくようで、自分でももどかしくなってきます。

ひょっとすると、今、私に何か言いたいことがあるのだとしたら、それは、ある一定の立場から、世の中のあれこれについて断定口調でコメントしたり、はっきりと固まった自分の意志を周りに示すことではないのかもしれません。

多くの人も、あるいは同じように感じているのかもしれませんが、特に震災以降、何を事実として受け入れたらいいのかさえはっきりしない現実にとまどい、信頼できるはずのメディアやさまざまな権威が疑わしくなり、一方で、ネットを中心に拡がるさまざまなモノの見方や意見にはそれぞれ一理あるように感じられ、結局、どの意見を選んだらいいのか、自分は今何をするべきで、これからどこに向かっていけばいいのか、さまざまな思いが錯綜して動けなくなっているのが現状で、迷い、停滞しているその姿こそが今の自分であり、むしろその混乱した状態こそ、いま表現したいことなのかもしれません。

こういうモヤモヤとした状態で、先の見通しもないまま日々を過ごすのは、もちろん、決して気持ちのいいことではありません。

ただ、こういうどっちつかずでじりじりとした状態から先に進むべき道があるとしたら、それはきっと、これまでに完全に慣れ親しんだやり方をひたすら繰り返すことでも、過激にぶっ飛んだ極端な行動をとることでもないのでしょう。

たぶんそれは、これまでの日常を作りあげていた小さな自分の世界から少しずつ足を踏み出し、既知と未知の境界のような薄ぼんやりとしたところを、自分の心の奥から湧き上がるかすかな感覚と慎重に照らし合わせつつ、ゆっくりと進んでいくことなのだと思います。

そして、その道は、これまでのように学校やマスメディア、あるいは親の世代から一律に示されるようなものではなく、人それぞれに違っているはずで、だから他人のマネをするわけにはいかないし、また、隠された道しるべを一つひとつ見つけるのは、徹底して地味で、孤独な作業でもあるのでしょうが、世の中がゴチャゴチャと混乱しているときには、しばらくのあいだ、そういうことを黙々と続けていくしかないのでしょう。

それは、目立つパフォーマンスをしたり、いらだちを爆発させたりすることにくらべれば、ずっと消極的で、まどろっこしく感じられるだろうし、それはまさしく「サイレント」にしか見えないでしょうが、一回の派手なパフォーマンスで世の中を驚かすことよりも、サイレントな人々の着実な一歩の積み重ねの方が、たとえ時間はかかっても、世の中を、よりまっとうな世界に変えていくのだろうと思います。

何だか、あまりにも抽象的で、ありがちな結論ではありますが……。


JUGEMテーマ:日記・一般

at 18:50, 浪人, つれづれの記

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『サバイバル時代の海外旅行術』

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

一時期、マスコミの芸能ネタで世間をにぎわせた映像作家・DJの高城剛氏が、旅行術の本を書いていたことを知って、興味が湧き、ちょっと読んでみました。

高城氏がこれまでどんな仕事をしてきて、今は何をしているのか、ウィキペディアなどを見てもいまひとつよく分からないのですが、この本自体は、具体的な旅のアイデアやヒントに満ちた面白いものでした。

彼によれば、世界はいま、格安航空会社(LCC)の台頭などによって、世界の流動人口が爆発的に増え、遊びや仕事の場所や機会が大きく変容を遂げる、「ハイパーモビリティ」と呼ばれる状況を迎えつつあり、海外旅行のあり方も、ここ数年のあいだに大きく変わりつつあるようです。

高城氏はこの本の中で、欧米を中心に広がる新しい旅行スタイルを紹介しながら、日本で出版されている、旧態依然で「使えない」旅行ガイドブックに頼らず、インターネットを中心に自ら欲しい情報を集め、自分なりの旅行ガイドを組み立てることを提案し、また、最先端の情報端末を旅先で役立てるためのノウハウや、便利な旅行グッズやパッキング術など、具体的なアイデアを披露しています。

バックパック一つで世界のどこにでも気軽に出かけていくフットワークの良さに加えて、ネットと情報端末を駆使して、自分のしたい旅をスマートに実現し、ときには人気のレストランで美食も楽しむなど、バックパッカーの自由さと、旅先でクオリティの高い体験を楽しむ優雅さがミックスした、いわゆる「フラッシュパッカー」の具体的な姿がここにあります。
ウィキペディア 「バックパッカー」の「フラッシュパッキング」の項

また、彼は、機内持ち込み手荷物の制限内に収まるモノだけを厳選してパッキングし、世界を自由に移動しながら、同時にその手荷物の制約の中で、移動先のどこでも仕事ができる環境を構築する「トラベルオフィス」を実現し、普通の人にとっては非日常である旅を、日常と融合させることにも成功しているようです。

高城氏は、IT革命とグローバル化が生み出した果実、特に、場所の制約から解放された軽快な暮らしを、人に先んじて十分に味わっているといえるかもしれません。

フラッシュパッカーが用いる情報端末や周辺機器の進化は日進月歩なので、2009年の夏に出たこの本の情報はもう古くなりかけているのでしょうが、細かな最新情報はともかく、持ち物やパッキングのアイデア、トラブルを最小化するための「ダブルバックアップ」の考え方や、スマートフォンによる海外でのネット接続法など、ベースとなる部分についてはそのまま有効で、興味のある方ならかなり参考になるでしょう。

ただ、自分で情報を集め、自由な発想で旅を組み立てていくのは素晴らしい体験になるはずですが、そこに至るまでには、ある程度の旅の経験や、知識の蓄積、最新の情報を伝え合う仲間同士のネットワークも必要になるでしょう。

この本を読んで、彼のパッキング術や持ち物リストなど、「形」をマネすることならすぐにできても、その先の、ガイドブックに頼らない旅、自分らしい旅を常に創造していくプロセスを本当に楽しむためには、たぶん彼自身がそうであったように、長年にわたる試行錯誤が必要だと思います。

あと、これは個人的な趣味の問題になりますが、この本で紹介されているような、フラッシュパッカー的でスマートな旅のスタイルについては、ユニークだし、これからの旅の主流になる可能性が高いとも思うのですが、今の私は、世界のどこで最先端のおいしいディナーが食べられるか、とか、情報端末のGPSで見知らぬ都市を効率よく探索、みたいなことにはあまり興味をひかれません。

むしろ、高城氏の実現している「トラベルオフィス」の考え方、旅と生活を融合させ、これまでのような定住型ではない、新しいライフスタイルを実践する試みの方に、より一層の興味を覚えます。

ところで、彼は、マスコミからはあまりいい扱いを受けていない印象があるのですが、そこには、移動型のライフスタイルを打ち立てた人間を、定住型の人間が見たときの思い込みとか理解不能なところが、多分に影響しているのではないかという気がします。

日本人の多くは、今でも地域のコミュニティや会社などの共同体に属し、同じところに何年、何十年も住んで、なじみ深い人々との濃密な人間関係を保って暮らしていると思いますが、そうした定住型の人間から見た場合、高城氏は、ふだんはどこにいるのか分からないのに、あるときふっと視界に入り、すぐにまたどこかへ消えていく、まるで彗星みたいな存在だろうし、世界各地を転々としつつ、あれこれと何かよく分からない仕事をして、なぜかそれなりに食っているという、かなり怪しげな人物として目に映るのかもしれません。

まあ、移動型の生活に憧れ、彼の実現した「トラベルオフィス」をうらやましく思う私でさえ、彼がいったい何をしている人なのか、いまだによく分からないわけですが……。

高城氏のようなタイプの人間は、現在も、そして近い将来も、やはり社会の中の圧倒的な少数派で、あのフーテンの寅さんがそうだったように、定住型の人間の世界にときどきふらりと現れては、そこに波乱を巻き起こし、彼らの生活を活性化するものの、その役目が終われば、すぐに放り出されてしまうような存在なのかもしれません……。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします



JUGEMテーマ:読書

at 18:48, 浪人, 本の旅〜世界各国

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おかげさまで60,000アクセス

先日、このブログ上のアクセスカウンターが 60,000を超えました。

アクセスが50,000に到達したのが昨年の12月だったので、累計アクセスが1万増えるのに、前回と同様、だいたい8か月弱かかっている計算になります。

最近、かなり更新頻度も落ちてしまったし、旅関係のブログにしては、フレッシュな旅の話題が全然ないという致命的な欠陥を抱えているのですが、それでも、毎日数十名の方々がこのブログを訪ねてくださるのは、検索エンジンのおかげというか、何とも不思議で、ありがたいことです。

これまでに、このブログを読んでくださった皆様に、心よりお礼申しあげます。

どうもありがとうございました。

近いうちに記事に書こうと思っているのですが、最近、世の中の出来事に対して、何か言わずにはいられないような気分になることが多いものの、考えがうまくまとまらなかったり、何となく気兼ねしているうちに、そのまま時機を逸することがよくあります。

ふと心によぎる、ちょっとした思いみたいなものは、ツイッターで発散するのがいいのかもしれませんが、私のような人間には、自分の日常生活とか、思いついたことをそのまま世界に向けて発信してしまうスタイルは、食わず嫌いかもしれませんが、どうも苦手な気がして、まだ実行に踏み切れずにいます。

かといって、やはりブログとなると、いろいろと考えすぎてしまうのか、なかなか気楽に記事を書くというわけにはいきません。

これは、ブログというメディアに対する、私自身の思い込みのせいなのかもしれないし、記事のマンネリ化から脱出しようとジタバタしすぎ、かえってドツボにはまっているということなのかもしれないし、あるいは、最近のネット世界のスピード感やオープン化の流れと私自身の感覚が、すっかりズレてしまっているということなのかもしれません。

いずれにせよ、このブログで、今後どういうことを書いていくべきかは、ちょっと悩ましい問題ではありますが、その辺は何とか工夫して、これからもぼちぼちと更新していくつもりです。

今後とも、このブログをどうぞよろしくお願いいたします。


JUGEMテーマ:日記・一般

at 19:07, 浪人, 感謝

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