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2011.12.29 Thursday
年末のごあいさつ
2011年も、残すところあと数日、振り返れば、今年は大変な一年でした。
大震災と原発事故はいうまでもありませんが、ほかにも、ジャスミン革命とアラブの春、深刻化するユーロ危機、独裁者たちと大物テロリストの死、ウォール街占拠、タイの大洪水、大阪ダブル選挙など、海外、国内問わず、重大なニュースが次から次へと報じられました。
これだけいろいろなことが立て続けに起きると、今年は特別で、こんなことはそうめったにあるものじゃない、と思いたくなりますが、では来年は平穏な一年になるかといえば、私はそうはいかないような気がしてなりません。
ここ数年、さまざまな事件や出来事として顕在化しつつある、歴史の大きな流れのようなものは、これから先何年ものあいだ、新たな事件をめまぐるしく生み出し続けるだろうし、私たちの生活も、それに翻弄されるのは確実だからです。
しかし、これから何が起こるにせよ、私たちは、この世界で精一杯生きていくしかありません。
激しく変化する世界で、何とか自分なりにできることを考え続けるとともに、多くの人に余計な苦しみが及ばないことを祈りたいと思います。
ところで、ここ数年、一年間に読んだ本の中から、最も印象に残った一冊を紹介してきたのですが、今年は本を読む気分になれず、結局、読み通すことのできた本もわずかだったので、面白かった何冊かを挙げるだけにしておきます。
それぞれの本の内容については、リンク先の紹介記事をご覧ください。
『奇跡の生還へ導く人 ― 極限状況の「サードマン現象」』
『GNHへ ― ポスト資本主義の生き方とニッポン』
『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』
『減速して生きる ― ダウンシフターズ』
というわけで、2011年のブログ更新はこれで最後となります。
今年一年、どうもありがとうございました。
皆様、どうぞよいお年を……。
JUGEMテーマ:日記・一般
大震災と原発事故はいうまでもありませんが、ほかにも、ジャスミン革命とアラブの春、深刻化するユーロ危機、独裁者たちと大物テロリストの死、ウォール街占拠、タイの大洪水、大阪ダブル選挙など、海外、国内問わず、重大なニュースが次から次へと報じられました。
これだけいろいろなことが立て続けに起きると、今年は特別で、こんなことはそうめったにあるものじゃない、と思いたくなりますが、では来年は平穏な一年になるかといえば、私はそうはいかないような気がしてなりません。
ここ数年、さまざまな事件や出来事として顕在化しつつある、歴史の大きな流れのようなものは、これから先何年ものあいだ、新たな事件をめまぐるしく生み出し続けるだろうし、私たちの生活も、それに翻弄されるのは確実だからです。
しかし、これから何が起こるにせよ、私たちは、この世界で精一杯生きていくしかありません。
激しく変化する世界で、何とか自分なりにできることを考え続けるとともに、多くの人に余計な苦しみが及ばないことを祈りたいと思います。
ところで、ここ数年、一年間に読んだ本の中から、最も印象に残った一冊を紹介してきたのですが、今年は本を読む気分になれず、結局、読み通すことのできた本もわずかだったので、面白かった何冊かを挙げるだけにしておきます。
それぞれの本の内容については、リンク先の紹介記事をご覧ください。
『奇跡の生還へ導く人 ― 極限状況の「サードマン現象」』
『GNHへ ― ポスト資本主義の生き方とニッポン』
『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』
『減速して生きる ― ダウンシフターズ』
というわけで、2011年のブログ更新はこれで最後となります。
今年一年、どうもありがとうございました。
皆様、どうぞよいお年を……。
JUGEMテーマ:日記・一般
2011.12.25 Sunday
旅の名言 「私が未知の外国を……」
素のままの自分を山に放ちたい。なぜなら、その方が面白いからだ。すべてがわかり、完璧に安全だとわかっているならクライミングなどしなくてもいい。わからない中で、自分の力を全開にして立ち向かうところに面白さがあるのだ。
その山野井氏の意見はよく理解できた。そして思ったのだ。私が未知の外国を旅行するときにほとんどガイドブックを持っていこうとしないのも、できるだけ素のままの自分を異国に放ちたいからなのだ、と。放たれた素のままの自分を、自由に動かしてみたい。実際はどこまで自由にふるまえるかわからないが、ぎりぎりまで何の助けも借りないで動かしてみたい。
もちろん、うまくいかないこともある。日本に帰ってきて、あんな苦労をしなくても、こうやればよかったのかとわかることも少なくない。しかし、だからといってあらかじめ知っていた方がいいとも思えない。知らないことによる悪戦苦闘によって、よりよく知ることができることもあるからだ。その土地を、そして自分自身を。
『旅する力 ― 深夜特急ノート』 沢木 耕太郎 新潮社 より
この本の紹介記事
『深夜特急』の著者、沢木耕太郎氏による旅のエッセイ、『旅する力』からの名言です。
冒頭の、「素のままの自分を山に放ちたい」というのは、クライマーの山野井泰史氏の言葉です。
山野井氏は、できるだけ軽量化した装備で頂上を目指す自分の登山スタイルを説明するさいに、そのような表現をしたのですが、沢木氏はこの言葉を受けて、ガイドブックなどを持たずに異郷に飛び込んでいく自分の旅のスタイルも、同じような動機に基づいているのだと語っています。
「素のままの自分を異国に放ち」、ぎりぎりまで何の助けも借りずに、自分を自由に動かしてみたい……。
それは、未知の環境にあえて自分を投げ込み、何も分からない状況から、自分がどれだけ一人で動けるか、そして、何も仕込んでいない新鮮な目に何が映るかを試してみるような旅です。多少のリスクやトラブルは覚悟の上で、「わからない中で、自分の力を全開にして立ち向かうところ」に面白さを見いだし、旅が与えてくれる自由の感覚を最大限に引き出そうとする旅のスタイルだといえます。
もちろん、沢木氏も書いているように、そういう旅のやり方にはメリットもあればデメリットもあります。ちょっとした情報を知らなかったばかりに、ムダと思えるような苦労をしたり、知っていれば防げたトラブルに巻き込まれる可能性もあるでしょう。
それに、自分以外に頼れるものが何もない状況では、未知の土地で臨む一瞬一瞬に、真剣勝負で向き合わざるを得ません。
だからやはり、それなりに旅慣れていない人は、こういう旅には不安を覚えるだろうし、安心・安全で快適な旅を求める人なら受け入れがたいスタイルでしょう。
最近では、携帯情報端末を使いこなし、目的地に効率的にアクセスしたり、旅先でのエンターテインメントを最大限に楽しむような、スマートな旅のスタイルが普及しつつあるようですが、沢木氏の旅は、ある意味では、最近のそういうトレンドとは正反対の方向性を目指しているといえるかもしれません。
しかし、異郷であえて悪戦苦闘し、混沌とした状況から少しずつ自分なりの旅を作り上げていく体験は、旅人に、濃密で自由な時間を約束してくれるだろうし、それはまた、自分がどういう人間で、何ができるかを、これ以上ないくらいにはっきりと見せてくれるのではないでしょうか。
……とはいうものの、私はといえば、未知の土地をガイドブックなしで旅することはあまりありません。
ガイドブックなしで旅をしたことも、あるにはあるのですが、情報収集にかなりの手間がかかったり、知らないがために不便で割高なルートをとってしまったり、移動時間や旅のスケジュールの目処が立たずに余計な心配をしたりと、いろいろあって、やはりある程度の情報は必要だと思うようになりました。
もちろん、ガイドブックや旅行代理店に頼ることのデメリットも承知してはいるのですが、それ以上に、自分の問題解決能力というものを、あまり信用していないのかもしれません……。
まあ、旅のスタイルは人それぞれだし、周囲の助けを利用するかしないかについては、どちらが正しいという問題ではないのでしょう。旅する土地の状況や、旅の目的、あるいは本人の年齢や体調を考慮しつつ、各自が最適だと思うバランスを見出していけばそれでいいのだと思います。
それと、若いうちは、一般的に人生経験や知識があまりないという意味で、本人の意思とは関係なく、旅するときはいつでも、現地に素のままで放り込まれているようなものかもしれません。一方で、若いうちなら、現地で大変な目にあっても、気力と体力で何とか対応できる余地もあります。
もちろん、チャレンジ精神が心の奥底でふつふつと湧いている人なら、年齢に関係なく、沢木氏のような旅をやってみる価値はあるのではないでしょうか。
もっとも、やはり歳をとると、混沌とした状況の中で自分を自由に動かしてみる楽しさとか、悪戦苦闘の面白さよりは、肉体的、精神的に少しでも楽をしたいという気持ちが忍び込んでくるのは避けられませんが……。
JUGEMテーマ:旅行
2011.12.16 Friday
『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』
評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
この本は、チベットのツアンポー峡谷に魅せられ、その探検に青春を賭けた一人の日本人の型破りな旅の記録です。
ツアンポー川(ブラマプトラ川)は、チベット高原からヒマラヤ山脈の東部を経てベンガル湾へと流れ込む大河で、ヒマラヤ東部で世界最大級の峡谷を形成しています。その峻険な地形は長い間人を寄せつけず、過去の名だたる探検家ですら、峡谷のすべてを踏破することはできませんでした。
著者の角幡唯介氏は、学生時代にツアンポー峡谷の探検史に触れて以来、その魅力にとりつかれ、当時なお未踏のまま残されていたツアンポー川大屈曲部の「空白の五マイル」を含めた、峡谷の無人地帯60キロの完全踏破を目標にします。
彼は2002年から2003年にかけての単独行で、「空白の五マイル」のほとんどを探検することに成功するのですが、無人地帯の完全踏破には至りませんでした。就職後もその夢をあきらめきれなかった彼は、ついに仕事を辞め、2009年の冬、厳戒態勢のチベットに無許可で潜入し、上流側の村ギャラから峡谷に分け入ろうとするのですが、旅の展開は角幡氏の予測を何度も裏切り、探検は次第に悲惨さを増していきます……。
彼が深い峡谷の中でどんな事態に見舞われたのか、詳しくは本書を読んでいただきたいのですが、この本は、彼の二度の単独行を詳しく描くだけでなく、ツアンポー峡谷の探検史やチベット人の理想郷伝説など、興味深いテーマを詰め込んだ盛り沢山の内容です。
読んでいると、ツアンポー峡谷に対する思い入れの深さとともに、彼の探検がいかに困難なものであったか、そしてそれがどれだけ画期的な探検であったかが伝わってきます。
しかし一方で、やはり、探検の時代はもうかなり以前に終わってしまったというか、それに社会が熱狂し、探検に多くの人々の注目が集まることはもうほとんどなくなってしまったのだということを、改めて感じました。
実際、日本でも、探検以前の問題として、ツアンポー峡谷の存在自体、その分野に興味のある一部の人以外にはほとんど知られていないのではないかと思います。
もちろん、だからといって、探検や冒険が命がけの行為であること自体に変わりはありません。現代の冒険家は、社会的な意味や名声みたいなものを期待できない以上、自分の行為そのものの中に、何か純粋な価値を見いだしたり、個人的な強い思い入れを持つことが必要になってくるのでしょう。
そう考えると、角幡氏のように、個人で装備も資金も用意し、どんな結果になろうと、自分ですべての責任を負う単独行のようなスタイルが、今後は主流になっていくのかもしれません。
生命のリスクを伴う挑戦が、世の中にあまり知られず、社会的に評価もされないのはさびしいことかもしれませんが……。
ちなみに、この本には、「空白の五マイル」で撮影された貴重な写真や詳しい地図も載っているのですが、そうした資料や迫真の探検記を読み、私自身の小さな想像力を限界にまでふくらませてみても、実際に現地に足を運んだことのない人間には、探検家が命の危険とひきかえに目にした絶景や、極限の心理状態については、やはりその一部ですら想像できていないのだろうと痛感します。
これは、こうした探検記を読むときにはいつも思うことなのですが、手近なエンターテインメントや快適さにあふれた「文明」の世界から出ることもなく、ただふわふわと生きているヘタレの私には、その向こう側にある「荒野」がどんなものであるのか、最後まで分からずに終わってしまうのかもしれません……。
それはともかく、この本でほかに興味深かったのは、2008年のチベット騒乱後の微妙な時期に、どうやって無許可でチベットに潜入できたのかということでした。
もちろん、協力者を危険にさらさないために、肝心な部分の記述はぼかされているし、潜入の裏ワザ自体も遠からず通用しなくなると思うので、その方法をマネすれば旅行者がどんどんチベットに入れるというわけでもないでしょう。
ただ、どんな状況であっても、旅人が本気になり、それ相応のリスクを負う覚悟ができるのなら、道はそれなりに開けるということなのだと思います。
あと、秘境中の秘境であるツアンポー峡谷の村でさえ、すでに携帯電話が普及していることも驚きでした。
かつて読んだある本の中で、カメラマンの吉田勝美氏が、文明とそれ以外の世界とを分ける境界を「コカコーラ・ライン」と呼んでいました。「キンキンに冷えたコーラ」という快楽は、電気、物流、貨幣経済など、現代の都市生活を支えるさまざまな条件がそろわないと実現しないのですが、逆にいえば、そうした快楽の手に入らない、「コカコーラ・ライン」の向こう側こそ、現代の秘境であり辺境だということになります。
記事 旅の名言 「世界の辺境にはね……」
しかし今や、グローバル化とIT革命の波は、その境界線をはるかに超えて、電気も道路もないような場所まで覆いつくし、人間が住む土地のほとんどすべてを、世界的な経済システムの内側に取り込んでしまおうとしているようです。
そのシステムの外に出てみたいと思ったら、残された場所はもう、人の住めない「荒野」だけなのかもしれません……。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
JUGEMテーマ:読書
この本は、チベットのツアンポー峡谷に魅せられ、その探検に青春を賭けた一人の日本人の型破りな旅の記録です。
ツアンポー川(ブラマプトラ川)は、チベット高原からヒマラヤ山脈の東部を経てベンガル湾へと流れ込む大河で、ヒマラヤ東部で世界最大級の峡谷を形成しています。その峻険な地形は長い間人を寄せつけず、過去の名だたる探検家ですら、峡谷のすべてを踏破することはできませんでした。
著者の角幡唯介氏は、学生時代にツアンポー峡谷の探検史に触れて以来、その魅力にとりつかれ、当時なお未踏のまま残されていたツアンポー川大屈曲部の「空白の五マイル」を含めた、峡谷の無人地帯60キロの完全踏破を目標にします。
彼は2002年から2003年にかけての単独行で、「空白の五マイル」のほとんどを探検することに成功するのですが、無人地帯の完全踏破には至りませんでした。就職後もその夢をあきらめきれなかった彼は、ついに仕事を辞め、2009年の冬、厳戒態勢のチベットに無許可で潜入し、上流側の村ギャラから峡谷に分け入ろうとするのですが、旅の展開は角幡氏の予測を何度も裏切り、探検は次第に悲惨さを増していきます……。
彼が深い峡谷の中でどんな事態に見舞われたのか、詳しくは本書を読んでいただきたいのですが、この本は、彼の二度の単独行を詳しく描くだけでなく、ツアンポー峡谷の探検史やチベット人の理想郷伝説など、興味深いテーマを詰め込んだ盛り沢山の内容です。
読んでいると、ツアンポー峡谷に対する思い入れの深さとともに、彼の探検がいかに困難なものであったか、そしてそれがどれだけ画期的な探検であったかが伝わってきます。
しかし一方で、やはり、探検の時代はもうかなり以前に終わってしまったというか、それに社会が熱狂し、探検に多くの人々の注目が集まることはもうほとんどなくなってしまったのだということを、改めて感じました。
実際、日本でも、探検以前の問題として、ツアンポー峡谷の存在自体、その分野に興味のある一部の人以外にはほとんど知られていないのではないかと思います。
もちろん、だからといって、探検や冒険が命がけの行為であること自体に変わりはありません。現代の冒険家は、社会的な意味や名声みたいなものを期待できない以上、自分の行為そのものの中に、何か純粋な価値を見いだしたり、個人的な強い思い入れを持つことが必要になってくるのでしょう。
そう考えると、角幡氏のように、個人で装備も資金も用意し、どんな結果になろうと、自分ですべての責任を負う単独行のようなスタイルが、今後は主流になっていくのかもしれません。
生命のリスクを伴う挑戦が、世の中にあまり知られず、社会的に評価もされないのはさびしいことかもしれませんが……。
ちなみに、この本には、「空白の五マイル」で撮影された貴重な写真や詳しい地図も載っているのですが、そうした資料や迫真の探検記を読み、私自身の小さな想像力を限界にまでふくらませてみても、実際に現地に足を運んだことのない人間には、探検家が命の危険とひきかえに目にした絶景や、極限の心理状態については、やはりその一部ですら想像できていないのだろうと痛感します。
これは、こうした探検記を読むときにはいつも思うことなのですが、手近なエンターテインメントや快適さにあふれた「文明」の世界から出ることもなく、ただふわふわと生きているヘタレの私には、その向こう側にある「荒野」がどんなものであるのか、最後まで分からずに終わってしまうのかもしれません……。
それはともかく、この本でほかに興味深かったのは、2008年のチベット騒乱後の微妙な時期に、どうやって無許可でチベットに潜入できたのかということでした。
もちろん、協力者を危険にさらさないために、肝心な部分の記述はぼかされているし、潜入の裏ワザ自体も遠からず通用しなくなると思うので、その方法をマネすれば旅行者がどんどんチベットに入れるというわけでもないでしょう。
ただ、どんな状況であっても、旅人が本気になり、それ相応のリスクを負う覚悟ができるのなら、道はそれなりに開けるということなのだと思います。
あと、秘境中の秘境であるツアンポー峡谷の村でさえ、すでに携帯電話が普及していることも驚きでした。
かつて読んだある本の中で、カメラマンの吉田勝美氏が、文明とそれ以外の世界とを分ける境界を「コカコーラ・ライン」と呼んでいました。「キンキンに冷えたコーラ」という快楽は、電気、物流、貨幣経済など、現代の都市生活を支えるさまざまな条件がそろわないと実現しないのですが、逆にいえば、そうした快楽の手に入らない、「コカコーラ・ライン」の向こう側こそ、現代の秘境であり辺境だということになります。
記事 旅の名言 「世界の辺境にはね……」
しかし今や、グローバル化とIT革命の波は、その境界線をはるかに超えて、電気も道路もないような場所まで覆いつくし、人間が住む土地のほとんどすべてを、世界的な経済システムの内側に取り込んでしまおうとしているようです。
そのシステムの外に出てみたいと思ったら、残された場所はもう、人の住めない「荒野」だけなのかもしれません……。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
JUGEMテーマ:読書
2011.12.08 Thursday
本と便意の微妙な関係
「青木まりこ現象」という言葉をご存知でしょうか?
本屋や図書館など、本が大量に並べられている場所に入ると、なぜか便意を催す現象のことで、「青木まりこ」とは、1985年にその体験をある雑誌に投稿し、この現象が広く知られるきっかけとなった方の名前なのだそうです。
ウィキペディア 「青木まりこ現象」
ちなみに、これは特別な体質の人だけに起きる、まれな出来事ではないらしく、けっこう多くの人が同じような経験をしているようです。
本というのは、それを読む人にとってはエンターテインメントであったり、貴重な情報源や学びの機会であったり、とにかく世間では楽しいもの、価値あるものとみなされているはずで、それと排泄という行為とは、一見、どうにも結びつかないような気がしますが、だからこそ、その意外な組み合わせが面白くて、多くの人の関心を呼ぶのでしょう。
その原因については、これまで様々な説明がなされていて、例えば、本のインクの匂いが関係しているのでは、とか、小さな書店にはトイレがないことが多いのでそれが逆にプレッシャーになるのでは、とか、好きな本に囲まれてリラックスするから、とか、いろいろですが、どれも決定力には欠けるような気がします。
こうした話は、たまに世間をにぎわせたかと思うとすぐに消え、また忘れたころに蒸し返されるというパターンをずっと繰り返しているようですが、それは、この現象がそれなりに有名であるにもかかわらず、いつも納得のいく理由が示されないまま、モヤモヤとした消化不良の状態で棚上げにされてしまうからなのかもしれません。
私自身はこれまでにそういう「症状」を覚えたことはないのですが、本屋でトイレに行きたくなるという話は、私の中ではそんなに違和感がないというか、何となく納得ができるような気がします。
これから書くことは、ちゃんとした理屈ではなく、あくまで私個人の勝手な妄想に過ぎないのですが、本とは、その作者にとって、一種の排泄物のようなものなのではないか、だから本屋に来る人は、本の山に囲まれると、そのことを無意識のうちに連想し、それが便意につながるのではないかという気がするのです。
もちろん、こんな表現をするのは、本作りに関わるすべての人にとって大変に失礼なことだし、もし気分を害される方がおられるなら本当に申し訳ないのですが……。
ただ、出版社や印刷所で本作りに携わったり、その流通をサポートしている方々はともかく、少なくとも本の著者にとって、本とはどういうものなのかという点を考えてみると、それは、著者が経験している創造プロセスの本来の目的というよりは、その副産物というか、抜け殻のようなものなのかもしれないという気がします。
人が、自分の中に、表現されることを求めている混沌とした「何か」を感じとり、それをどうにかして意味のある言葉に置き換えていこうとするプロセスは、ときには非常に苦しく困難ではありますが、創造的で、やりがいがあり、大きな喜びを感じることなのではないかと思います。
もちろん本の著者は、そうやって吐き出された言葉が、その後丁寧に編集され、印刷されて美しい本になって、多くの人のもとに届けられることにも多くの喜びを感じるはずです。また、本というモノを生み出すことの結果として、執筆料や印税、あるいは社会的な評価など、プロの作家はさまざまな利益を得ることができるし、実際、作家はそれによって生活を支えています。
しかし、本人がより多くの喜びとやりがいを感じるのは、やはり、言葉以前の「何か」が、言葉として外の世界に生まれ出てくるまでの過程そのものを味わうことにあるのではないかと思うし、それに比べれば、(あえて極端な表現をすれば)いったん言葉として外界に現れた言葉そのものは、創造プロセスがたしかに起きていたことの証明くらいの価値しかもたないのではないかと思うのです。
もっとも、私は作家ではないので、彼らが日々体験している創造プロセスや、その本当の苦しみや喜びについて語れる立場にはありません。ただ、このブログを書く程度のささいな作業でも、それなりの苦労とか楽しみが感じられることを思うと、作家が人生におけるさまざまなものをつぎ込んで、大きなテーマに挑戦し、そこから納得のいく言葉を紡ぎ出していくプロセスがどのようなものであるのか、かすかに想像できるような気がするのです。
そして、似たようなことは、本作りやその流通に携わる人々についても言えるのかもしれません。注意深く、適度な緊張感をもって仕事に取り組み、目の前の作業に集中して、よりよい成果を生み出そうとするプロセスそのものが、本人にとっては日々の大きな喜びであるはずで、その結果として生み出される仕事の成果や報酬自体は、その喜びの副産物のようなものであるといえなくもないのではないでしょうか。
さらに、多くの読者も、紙の束である本そのものよりも、実際にそれを読むプロセスにこそ、価値を見出しているはずです。
そう考えていくと、物理的な本の山というのは、本に関わるすべての人が、本を媒介にして、生きるプロセスそのものを楽しみ、味わったあとに残された排泄物の山みたいなものだと見ることも可能なのかもしれません。
まあ、自分でも少しこじつけっぽいとは思いますが……。
ただ、印刷された本というものが、かりに作家にとって創造活動の残りかすなのだとしても、もちろんそれは、全く無価値であるという意味ではありません。
先ほど書いたように、それは多くの人が仕事を通じて喜びを味わうきっかけとなり、また、多くの読者がそれを読むことに楽しみを見出しています。
偉大な作家の紡ぎ出した言葉は、それが印刷され、コピーされたものであろうと、百年前、千年前のものであろうと輝きを放っているし、その輝きが読者の中の「何か」に引火して、その心の内で、思いもかけない新たな創造プロセスが働き出すこともあるでしょう。
別の言い方をすれば、それは多くの人の精神活動にとってのまさに「肥やし」であり、そこに価値を見出せる人にとって、本というのはやはり貴重な宝なのだと思います。
ところで、そういうことを考えていくと、インターネットというものも、まさに地球上のあらゆる種類の言葉が絡まりあった巨大なかたまりであり、人間の知的活動が生み出した地球規模の排泄物と言えるのかもしれません。
であるなら、ネットに接している人たちにも、やはり「青木まりこ現象」が生じる可能性があるということになります。
皆様は、ネットをしていて、トイレに行きたくなることはありませんか?
JUGEMテーマ:読書
本屋や図書館など、本が大量に並べられている場所に入ると、なぜか便意を催す現象のことで、「青木まりこ」とは、1985年にその体験をある雑誌に投稿し、この現象が広く知られるきっかけとなった方の名前なのだそうです。
ウィキペディア 「青木まりこ現象」
ちなみに、これは特別な体質の人だけに起きる、まれな出来事ではないらしく、けっこう多くの人が同じような経験をしているようです。
本というのは、それを読む人にとってはエンターテインメントであったり、貴重な情報源や学びの機会であったり、とにかく世間では楽しいもの、価値あるものとみなされているはずで、それと排泄という行為とは、一見、どうにも結びつかないような気がしますが、だからこそ、その意外な組み合わせが面白くて、多くの人の関心を呼ぶのでしょう。
その原因については、これまで様々な説明がなされていて、例えば、本のインクの匂いが関係しているのでは、とか、小さな書店にはトイレがないことが多いのでそれが逆にプレッシャーになるのでは、とか、好きな本に囲まれてリラックスするから、とか、いろいろですが、どれも決定力には欠けるような気がします。
こうした話は、たまに世間をにぎわせたかと思うとすぐに消え、また忘れたころに蒸し返されるというパターンをずっと繰り返しているようですが、それは、この現象がそれなりに有名であるにもかかわらず、いつも納得のいく理由が示されないまま、モヤモヤとした消化不良の状態で棚上げにされてしまうからなのかもしれません。
私自身はこれまでにそういう「症状」を覚えたことはないのですが、本屋でトイレに行きたくなるという話は、私の中ではそんなに違和感がないというか、何となく納得ができるような気がします。
これから書くことは、ちゃんとした理屈ではなく、あくまで私個人の勝手な妄想に過ぎないのですが、本とは、その作者にとって、一種の排泄物のようなものなのではないか、だから本屋に来る人は、本の山に囲まれると、そのことを無意識のうちに連想し、それが便意につながるのではないかという気がするのです。
もちろん、こんな表現をするのは、本作りに関わるすべての人にとって大変に失礼なことだし、もし気分を害される方がおられるなら本当に申し訳ないのですが……。
ただ、出版社や印刷所で本作りに携わったり、その流通をサポートしている方々はともかく、少なくとも本の著者にとって、本とはどういうものなのかという点を考えてみると、それは、著者が経験している創造プロセスの本来の目的というよりは、その副産物というか、抜け殻のようなものなのかもしれないという気がします。
人が、自分の中に、表現されることを求めている混沌とした「何か」を感じとり、それをどうにかして意味のある言葉に置き換えていこうとするプロセスは、ときには非常に苦しく困難ではありますが、創造的で、やりがいがあり、大きな喜びを感じることなのではないかと思います。
もちろん本の著者は、そうやって吐き出された言葉が、その後丁寧に編集され、印刷されて美しい本になって、多くの人のもとに届けられることにも多くの喜びを感じるはずです。また、本というモノを生み出すことの結果として、執筆料や印税、あるいは社会的な評価など、プロの作家はさまざまな利益を得ることができるし、実際、作家はそれによって生活を支えています。
しかし、本人がより多くの喜びとやりがいを感じるのは、やはり、言葉以前の「何か」が、言葉として外の世界に生まれ出てくるまでの過程そのものを味わうことにあるのではないかと思うし、それに比べれば、(あえて極端な表現をすれば)いったん言葉として外界に現れた言葉そのものは、創造プロセスがたしかに起きていたことの証明くらいの価値しかもたないのではないかと思うのです。
もっとも、私は作家ではないので、彼らが日々体験している創造プロセスや、その本当の苦しみや喜びについて語れる立場にはありません。ただ、このブログを書く程度のささいな作業でも、それなりの苦労とか楽しみが感じられることを思うと、作家が人生におけるさまざまなものをつぎ込んで、大きなテーマに挑戦し、そこから納得のいく言葉を紡ぎ出していくプロセスがどのようなものであるのか、かすかに想像できるような気がするのです。
そして、似たようなことは、本作りやその流通に携わる人々についても言えるのかもしれません。注意深く、適度な緊張感をもって仕事に取り組み、目の前の作業に集中して、よりよい成果を生み出そうとするプロセスそのものが、本人にとっては日々の大きな喜びであるはずで、その結果として生み出される仕事の成果や報酬自体は、その喜びの副産物のようなものであるといえなくもないのではないでしょうか。
さらに、多くの読者も、紙の束である本そのものよりも、実際にそれを読むプロセスにこそ、価値を見出しているはずです。
そう考えていくと、物理的な本の山というのは、本に関わるすべての人が、本を媒介にして、生きるプロセスそのものを楽しみ、味わったあとに残された排泄物の山みたいなものだと見ることも可能なのかもしれません。
まあ、自分でも少しこじつけっぽいとは思いますが……。
ただ、印刷された本というものが、かりに作家にとって創造活動の残りかすなのだとしても、もちろんそれは、全く無価値であるという意味ではありません。
先ほど書いたように、それは多くの人が仕事を通じて喜びを味わうきっかけとなり、また、多くの読者がそれを読むことに楽しみを見出しています。
偉大な作家の紡ぎ出した言葉は、それが印刷され、コピーされたものであろうと、百年前、千年前のものであろうと輝きを放っているし、その輝きが読者の中の「何か」に引火して、その心の内で、思いもかけない新たな創造プロセスが働き出すこともあるでしょう。
別の言い方をすれば、それは多くの人の精神活動にとってのまさに「肥やし」であり、そこに価値を見出せる人にとって、本というのはやはり貴重な宝なのだと思います。
ところで、そういうことを考えていくと、インターネットというものも、まさに地球上のあらゆる種類の言葉が絡まりあった巨大なかたまりであり、人間の知的活動が生み出した地球規模の排泄物と言えるのかもしれません。
であるなら、ネットに接している人たちにも、やはり「青木まりこ現象」が生じる可能性があるということになります。
皆様は、ネットをしていて、トイレに行きたくなることはありませんか?
JUGEMテーマ:読書
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