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旅の名言 「わざわざ苦労して……」

人跡未踏の空白の五マイルに下り立ったといっても、私がやっていることといえば、延々と続く急斜面で苦行のようなヤブこぎをしているだけだった。なぜ過去に多くの探検家がこの場所を目指して挫折したのか私にはよく分かった。わざわざ苦労してこんな地の果てのような場所に来ても、楽しいことなど何ひとつないのだ。シャクナゲやマツの発するさわやかなはずの緑の香りが、これ以上ないほど不愉快だった。自然が人間にやさしいのは、遠くから離れて見た時だけに限られる。長期間その中に入り込んでみると、自然は情け容赦のない本質をさらけ出し、癒しやなごみ、一体感や快楽といった、多幸感とはほど遠いところにいることが分かる。

『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』 角幡 唯介 集英社 より
この本の紹介記事

チベットのツアンポー峡谷に魅せられ、その探検に青春を賭けた日本人の壮絶な探検記、『空白の五マイル』からの名言です。

著者の角幡唯介氏は、2002年から2003年にかけての単独行で、過去の名だたる探検家ですら行く手を阻まれたツアンポー峡谷の「空白の五マイル」を、ほとんど踏破することに成功します。

記録に残るかぎり、その地を踏みしめたのは彼が世界初ということになるわけですが、そのロマンチックな響きとは裏腹に、実際の探検は、ダニに全身を喰われながら、薄暗くじめじめとしたヤブをひたすらかき分け、滑落の危険を冒して急斜面を登り降りする作業の繰り返しでした。それに、何か重大なアクシデントが起きても、助けてくれる人間はどこにもいません。

単独行とはそういうものだと言ってしまえばそれまでかもしれませんが、不快きわまりない環境や不十分な食事に耐え、神経をすり減らして危険に対処し、しかも常に注意を怠らず、緊張感を保っていなければ、生還は期しがたいでしょう。

「わざわざ苦労してこんな地の果てのような場所に来ても、楽しいことなど何ひとつない」のです。そんな日々を休むことなく何十日も続けるのは、旅というより、まさに「苦行」そのものです。

かつて、地球上の未知の土地を探検した人々は、そうした苦行と引き換えに、栄光と名声を得ることができました。

しかし、人跡未踏の地がほとんどなくなり、探検に人々の注目が集まらなくなった今、探検家が受ける社会的な評価は、その命がけの苦しみの報酬としては、到底見合わないのが現状かもしれません。

それでも彼らは何かに駆られるように、「情け容赦のない」自然の中へと何度も踏み込んでいくのです。「楽しいことなど何ひとつない」と、骨身に沁みて分かっているにもかかわらず……。

そうした探検家の「業」のようなものについて、角幡氏は、次のように書いています。

 リスクがあるからこそ、冒険という行為の中には、生きている意味を感じさせてくれる瞬間が存在している。 (中略) その死のリスクを覚悟してわざわざ危険な行為をしている冒険者は、命がすり切れそうなその瞬間の中にこそ生きることの象徴的な意味があることを嗅ぎ取っている。冒険は生きることの全人類的な意味を説明しうる、極限的に単純化された図式なのではないだろうか。
 とはいえ究極の部分は誰も答えることはできない。冒険の瞬間に存在する何が、そうした意味をもたらしてくれるのか。なぜ命の危険を冒してツアンポー峡谷を目指したのか、その問いに対して万人に納得してもらえる答えを、私自身まだ用意することはできない。そこはまだ空白のまま残っている。しかしツアンポー峡谷における単独行が、生と死のはざまにおいて、私に生きている意味をささやきかけたことは事実だ。
 冒険は生きることの意味をささやきかける。だがささやくだけだ。答えまでは教えてくれない。


生きるか死ぬかという極限のリスクにさらされた瞬間に、他の何にも代えがたい、「生きている意味」につながる何かをかいま見られると思うからこそ、彼らは無謀とも思えるような、ギリギリの探検に自らを追い込んでいくのかもしれません。

私はまだ、そうした探検の魔力のようなものに触れたことがないし、だから旅をするといっても、いつも、ほどほどのところでお茶を濁してしまいます。しかし、そうしているかぎり、冒険家や探検家が人知れず味わう生の喜びについて、身をもって知ることはないのでしょう。

それは、不幸なことなのでしょうか、それとも、幸せなことなのでしょうか……。


JUGEMテーマ:旅行

at 18:29, 浪人, 旅の名言〜土地の印象

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100万年の壁と二つの世界

つい最近になって初めて知ったのですが、南極の厚い氷の下には、水が凍らずに液体を保ったままの「氷底湖」というのがいくつもあって、そこには、極限状態で生きる未知の生物がいるのではないかと考えられているそうです。

そして先日、ロシアの調査チームが世界で初めて、その氷底湖の水面に到達したというニュースが届きました。

【露チームが南極の氷底湖到達、未知の生命発見に期待】

[モスクワ 8日 ロイター] 南極の氷床を掘削してきたロシアの調査チームは8日、ドリルが深さ3769メートルのボストーク湖に到達したと発表した。同湖は少なくとも1400万年の間、外界から隔離された状態にあり、科学者は未知の生命発見にも期待を寄せている。

ボストーク湖は、氷底湖の中でも最も深いところにあり、大きさはロシアのバイカル湖などに匹敵。同湖の水は、約100万年前のものとされており、地球のいかなる環境とも異なっている。

仮に、この閉ざされた湖で生命を発見できれば、火星などの過酷な条件下でも生命が存在しうるかどうかを知る手掛かりにもなる。 (中略)

調査チームは、夏を待って水のサンプル採集などを行う予定。

(ロイター 2012年2月9日)


氷の下に湖があるという不思議もさることながら、極寒の地で何十年もかけ、4000メートル近い氷を掘り抜いた人間の好奇心にも並々ならぬものがあります。

ニュースによれば、実際に湖の水が手に入るのは次のシーズンまで持ち越しのようですが、いずれにしても、氷底湖をめぐる謎は、今後数年のあいだに少しずつ解き明かされていくのでしょう。

その結果、期待されていたような生物は全く存在しなかった、ということであれば、残念だけど、まあそういうものか、で終わるのでしょうが、問題は、未知の生物が見つかった場合です。

それは、100万年ともいわれる長い間、氷の壁によって隔てられていた二つの生態系が再びつながることを意味し、あちら側にしても、こちら側にしても、それが何らかのインパクトをもたらす可能性があります。

ロシアの調査チームも、ボーリング作業で湖が汚染されないよう、必要な措置をとっているようですが、逆に私たちの世界に湖水のサンプルを持ち込むにあたっても、慎重を期してほしいものだと思います。

100万年は、地球という惑星にとってはごく短い時間に過ぎませんが、隔離された環境で生物が独自の進化をとげるにはそれなりに充分な時間だと思うし、二つの異質な世界のコンタクトによって、何か予想外のことが起きる可能性が全くないとは言い切れないからです。

……と、つい余計な妄想をしてしまうのは、SFパニック映画の見すぎでしょうか。

ただ、人間の歴史において、二つの世界がつながったときには、たとえば大航海時代のように、途方もない悲劇や混乱が繰り返されてきました。

もちろん、それは恐ろしいことばかりでなく、それぞれの世界に有用なモノをもたらしてきたし、それはまた、より大きな世界を舞台にした、新しい時代の始まりを告げる出来事でもあったわけですが。

結局のところ、未知の世界とのコンタクトが何をもたらすことになろうと、私たちは、ただそれを受け止めるしかないのかもしれません。

視野をひろげ、行動範囲をひろげ、好奇心に駆られて新しい世界に飛び込んでいくのは人間の性だし、同じようなことは、生命自体についても言えることです。

まあ、南極の氷の下の水ぐらいで大騒ぎすることはないのでしょうが、これから何が起こるのか、それとも何も起こらないのか、少しだけ注意を払いながら見守りたいと思います……。


JUGEMテーマ:ニュース

at 18:58, 浪人, ニュースの旅

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