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「がんばる」という言葉への違和感

ずいぶん前になりますが、ある本を読んでいたら、「がんばる(頑張る)」という言葉は、明治維新の後、日本人が欧米の列強に肩を並べようと国を挙げて必死の努力をし、日清・日露などの大きな戦争を乗り越えていく中で、新聞等のマスメディアを通じて頻繁に使われたことで普及した、というようなことが書かれていて、なるほど、そういうことだったのかと腑に落ちたことがありました。

それが何という本だったのか、今となっては著者も書名も思い出すことができず、ここでその内容を正確に紹介できないのが申し訳ないのですが、書かれていたことが事実だとすると、私たち日本人の近代化と経済発展の歴史は、「がんばる」という言葉とともにあったと言えるかもしれません。

ちなみに、ネットで調べてみると、「がんばる」の語源には二つの説があるらしく、一つは「眼張る(がんはる)」、つまり、「目をつける」とか「見張る」という意味から転じたとする説、もう一つは、「我に張る(がにはる)」、つまり「我を張る」が元になっているとされているようです。

そのどちらが正しいのかは分かりませんが、面白いのは、いずれにしても、そこには、何か大事なものを守るために神経を張り詰めるようなイメージがあるということです。それは、現在の「頑張る」という漢字表記で、より一層強調されているように感じます。

そして、そうした言葉のもつイメージに、「がんばる」という言葉が普及してきた歴史を重ね合わせると、この言葉が意味しているものが、より明確に理解できる気がするのです。

およそ150年前に、欧米諸国の軍事力・技術力を目の当たりにした私たちの祖先は、その圧倒的な力に恐怖を覚えたはずです。民族としての独立や、自分たちの暮らしを守るために彼らが選んだ道は、わき目もふらずに社会の近代化と経済発展を推し進め、それによって、欧米諸国と同等の物質的なパワーを早急に身にまとうことでした。

たぶん、その社会的な地位や立場にかかわらず、当時の日本人の多くには、何か大切なものが失われるのではないかという強い恐れや不安、そして、最悪の事態を避けるために、一瞬たりとも気を抜かず、必死の努力を続けなければいけないという思いが共有されていたのではないかと思います。

当時の人々には、欧米諸国に追いつき追い越すという目標が、はっきりと具体的に見えていました。そこに視線の先をガッチリ固定し、以来、いくたびもの戦争や経済の浮き沈みを経て現在に至るまで、そのために必要な作業を休むことなく必死で繰り返してきました。それは、文字どおりの「頑張り」の歴史だったのだと思います。

ただ、「がんばる」という心身の状態を長年にわたって続けることには、かなりの無理があります。神経を張り詰め、体をガチガチにし、よそ見もしないで一心不乱にひとつのことに集中し続ければ、すぐに疲労困憊してしまいます。

本来、それは、ここ一番を乗り切らないと後が大変だという特別な状況下で、意志の力を振り絞り、短時間だけ発揮できる状態なのだと思うし、その場をしのいだら、すぐにリラックスし、深く心身を休めるようにしなければならないはずです。

しかも、そういう極度の緊張状態では、周囲の状況が見えなくなります。「がんばる」状態が長く続けば、その間、自分が置かれた状況を冷静に把握したり、オープンマインドで新しい見方やアイデアを受け入れたり、柔軟な対応をすることが難しくなるはずで、そのデメリットは大きいと思います。

そういう意味では、「がんばる」というのは、何らかの異常事態において、あくまで一時的に発動する緊急手段であって、ふつうの人間は、それを長く続けられるようにはできていないし、続けるべきでもないのではないでしょうか。

しかし、私たちは、明治以来、ずっと頑張り続けなければならない状況に置かれてきました。というか、あまりにも長く頑張り続け、その状態がすっかり普通になってしまったために、「がんばる」以外にどういう心身の状態があり得るのか、よく分からなくなってしまったのではないかという気がします。

考えてみれば、私たちのご先祖様が頑張り始めるきっかけとなった状況そのものは、欧米諸国に追いつき、追い越すという目標をほぼ達成した数十年前に終わっています。しかし、その後も、エネルギー危機だ、円高だ、バブル崩壊の後始末だ、グローバル化への対応だ、財政危機だ、といった具合に、国レベルの新たな危機が次々に叫ばれ、日本人全体としてそれに対処し、もっと頑張らなければならないと言われ続けています。

もちろん、要領のいい人は、周りがいくら「がんばれ」と叫ぼうが、それを適当に聞き流し、リラックスしてマイペースで生きていくことができるのでしょう。そういう人は、「空気が読めない」と、周りから白い眼で見られるかもしれませんが、実際のところ、そういうしたたかさでも身につけない限り、生まれてから死ぬまで、何かに追い立てられるように、ひたすら頑張り続けなければならなくなります。

そんなことを思うにつけ、私は「がんばる」という言葉に強い違和感を感じるようになり、何年か前からは、その言葉を可能なかぎり使わないようにしてきました。

自分は、24時間365日、つねに頑張り続けることなどできないし、そうしたくもありません。それなら、周りの人に対しても、そういう状態に追い込むような言葉を不用意に使いたくないと思ったのです。

しかし、いざ使わなくなってみて、「がんばる」という言葉が、日常生活のあらゆる側面に、思った以上に深く浸透していることに気がつきました。

私たちは、ふだん何気なく、「がんばれ」と声をかけ合います。誰かを励ましたいときにはもちろん、ちょっとしたあいさつがわりに、「がんばって」と声をかけるのは普通です。手紙やメールでも、「がんばってください」とか、「お互いにがんばりましょう」とか、ほとんど儀礼的なフレーズとして書き添えます。「がんばる」という言葉の意味を考えることなどほとんどないのに、言葉自体は、きっかけさえあれば自動的に口をついて出てくるのです。

だから、油断していると、すぐに「がんばって」と言いそうになります。あわててそれをグッと呑み込み、とっさに、何か別の言い回しでお茶を濁そうとするのですが、そんなとき、便利に使える言葉が見当たりません。

たとえば、「元気を出す」とか、「努力する」といった表現なら、言わんとする内容を何となくカバーできる気はするのですが、いざ口にしてみると、何か語呂が悪いというか、すわりが悪くて落ち着かない感じがします。

「がんばる」とは言いたくないし、かといって、身近な他の表現ではどうもしっくりこない……。

たぶん、私は、同じ努力をするにしても、「がんばる」以外の、もっと軽やかで柔軟な心身のあり方を、ひとことでうまく言い表せる言葉を欲しているのでしょう。

それは、「がんばる」のように、心身をこわばらせ、視野を狭めてしまうような状態ではなく、自分の置かれた状況を余裕をもって把握しつつ、周りからのアドバイスにも耳を傾け、必要なら適切な路線変更をするなど、もっと柔軟に、しなやかに、やるべきことに集中できるような状態です。

言い換えれば、それは、恐怖や義務感に追い立てられて無理にする努力ではなく、楽しさや喜びに促され、気がつけば自然に前に進んでいるような努力といえるかもしれません。

そして、そういう努力であれば、長く続けていても疲労困憊したり、行き詰まったりはしないのではないかと思います。

しかし、残念ながら、日常的に用いられている言葉の中には、そういう心身の状態をひとことで表現できる言葉はないような気がします。たぶん、心理学とか宗教的実践の世界には、そういう状態を表す専門用語があるのでしょうが、そういう言葉を、日常的な場面でいきなり使うのはためらわれます。

それに、考えてみると、これは単に、ひとつの言葉を別の言葉に置き換えれば済むという話ではないかもしれません。

私たちの日常生活の背後には、お互いを無意識のうちに「がんばり」に追い込んでいく構造のようなものがあります。その構造が変わらないかぎり、誰かが「がんばる」以外の言葉を使ったところで、それは全く定着しないだろうし、私たちはこれからも、「がんばる」という言葉をあいさつがわりに使い続けるでしょう。

そして、そうであるかぎり、私たちはこの先もずっと、新たに喧伝される危機から自らを守るために、神経を張り詰めて、休むことなく頑張り続けなければならないのかもしれません……。


JUGEMテーマ:日記・一般

at 19:11, 浪人, つれづれの記

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『大震災の後で人生について語るということ』

文庫版(『日本人というリスク』に改題)はこちら(Kindle版もあります)

 

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

この本は、いま日本社会を覆っている大きな不安の正体を、「人生設計のリスク」という観点から説明しようとするものです。

人生設計といっても、人によって、その意味するところはさまざまでしょうが、著者の橘玲氏は、人生の意味とか精神的な心構えといった抽象的な議論には踏み込まず、その経済的な側面にしぼって語っています。

本の前半では、戦後の日本人の人生設計を四つの神話が支配してきたこと、それに基づいた投資のポートフォリオが潜在的に大きなリスクをはらむものであったこと、そして、20年以上前のバブル崩壊以来、そうしたリスクが顕在化しつつあることが示されます。

四つの神話とは、

1.不動産神話 : 持ち家は賃貸より得だ
2.会社神話 : 大きな会社に就職して定年まで勤める
3.円神話 : 日本人なら円資産を保有するのが安心だ
4.国家神話 : 定年後は年金で暮らせばいい

といった考え方のことですが、日本人の多くがこうした思考パターンに基づいて、自らの人的資本はひとつの会社だけに、金融資本はマイホームという不動産に集中投資してきました。これは、たしかに戦後の高度成長期には最も確実な投資戦略だったかもしれませんが、現状はもはやそうではありません。

 

 リスクを回避し、安定した人生を送るために、私たちは偏差値の高い大学に入って大きな会社に就職することを目指し、住宅ローンを組んでマイホームを買い、株や外貨には手を出さずひたすら円を貯め込み、老後の生活は国に頼ることを選んできたのです。しかし皮肉なことに、こうしたリスクを避ける選択がすべて、いまではリスクを極大化することになってしまいました。
この事態は九七年の金融危機(あるいは九〇年のバブル崩壊)からはじまっていたのですが、多くの日本人は“不都合な真実”に顔をそむけ、3・11によってはじめて自らのリスクを目の前に突きつけられたのです。

そして橘氏は、97年のグローバルな経済危機以降、日本で中高年男性の自殺者が急増していることを指摘し、累計で10万人以上の死者を出すこの「見えない大災害」が起きたのは、戦後の経済成長に最適化された人生設計のリスクがあらわになったからだとしています。

彼の話はとてもシンプルで分かりやすく、私たちがいま感じている不安の正体について、ひとつの明解な解釈を与えてくれているように思います。そして、とても分かりやすいだけに、いま目の前にある問題の大きさと深刻さが見えてきて、戦慄を覚えずにはいられません。

本の後半では、以上を踏まえ、神話なきこの世界で、国家や会社のリスクから個人のリスクを少しでも切り離すための、いくつかのヒントが示されます。

橘氏は、人的資本に関しては、日本の大企業のような閉じられた「伽藍の世界」に適応しようとするよりも、自分の専門性を磨き、社外で通用するような汎用的な知識や技術を蓄積し、開かれた「バザールの世界」で通用する「評判」を獲得していくべきだとし、金融資本については、「経済的独立」とはいかないまでも、それを国家の経済的リスク(金利上昇・インフレ・円安)からできるだけ切り離すための、いくつかの具体的なアイデアを提示しています。

もっとも、幸か不幸か、私の場合は、必死で守るほどの資産など持ち合わせていないので、後半の内容を頭に入れても、それを生かせる機会はないのですが……。

ところで、この本に書かれているのは、個人の家計を支える経済的な基盤についての現状認識と、それを守るためのノウハウ、つまり、人生の経済的な側面についてだけです。

言うまでもなく、人生には他にも大切なことはいろいろあります。しかし、一方で、ある程度の経済的な裏づけがあって初めて、そうした大切なことを考える余裕も生まれてくるのだし、また、社会全体が経済的なリスクを極大化する方向に向かっているとするなら、せめて自分とその家族の生活だけでも守れるように、なんとか知恵をしぼりたいという気持ちはとてもよく分かります。

ただ、人生設計のポートフォリオをリスク分散型に組み換えるといっても、橘氏自身も、それがほとんどの日本人にとっては、たんなる「絵空事」にすぎないだろうということを認めています。

それに、そうしたリスク分散のおかげで、かりに一部の日本人が、近い将来襲ってくるかもしれない「想定外」の事態をうまくやり過ごすことができたとしても、それ以外のはるかに大勢の人間が深刻なダメージを受けるのだとしたら、自らの幸運を単純に喜ぶ気持ちにはなれないのではないでしょうか。

たしかに、この世界は残酷なのかもしれないし、そこで生きることに伴う避けようのないリスクを、各人がバラバラに引き受けるという選択肢もあるのでしょうが、社会全体として巨大なリスクに耐えうる仕組みが用意できるのなら、それに越したことはありません。

橘氏も、この本の最後の部分で、政治の側から取り組むべき点について、雇用の流動化など、いくつかの提言をしていますが、その実現の可能性については悲観的なようです。

私はやはり、各自が必死でサバイバルを模索するよりも、多くの人が知恵を出し合い、社会全体で困難を乗り切れるような方法を見出せないかと思うのですが、現実の政治を遠くから眺めているかぎりでは、それがあまりにも甘い考えだと言われても仕方がないのかもしれません……。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします



JUGEMテーマ:読書

at 18:38, 浪人, 本の旅〜人間と社会

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