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2013.02.25 Monday
「ネット断食」の試み
最近、ネット中毒が悪化していると自分でも感じるようになったので、今年の1月から、週に1回ほどのペースで、終日の「ネット断食」を試みています。
ネットを1日断ったくらいで「断食」と呼ぶのは、ちょっと大げさかもしれないし、その程度のペースでは、生活に何の変化も生まれないかもしれません。
それでも、今までは、ただ欲求に流されるまま、自分の時間の大半をネットに費やしている状態だったので、まあ、全く何もしないよりはマシだろうという気がします。
今回は、これまでの「断食」の実践を通じて気づいたこと、考えたことについて、思いつくままに書いてみようと思います。
◆ とりあえずやってみた
「ネット世界」とのつきあい方は人それぞれで、その利用目的も、内容も、費やす時間も、「依存」の度合いも違います。
当然、「ネット断食」をするといっても、いろいろなやり方があるだろうし、最終的な目標も人によりけりでしょう。
だから、いざ実際にやってみようと思っても、具体的なルールとして、メールはチェックしていいのか、クラウド上に保存してある文書の更新をするのはだめか、など、細かいことをあれこれ考え始めると、だんだん面倒くさくなってきます。
私も、以前から「断食」してみようという思いはあったものの、なかなか踏ん切りがつきませんでした。
そこで、新年を迎え、気持ちが何となくリフレッシュしている勢いで、第1回目の実行をスケジュールに入れてしまいました。細かいことはやりながら考えることにして、とりあえず、その日は朝から晩までネットに一切接続せず、端末にも手を触れないという、単純なルールだけを決めました。
ただし、私はスマホやタブレットは使っていないし、四六時中ネットにつながっていないと不安を覚えるほどの中毒でもなかったので、ちょっとした勢いだけで「断食」を始められましたが、中毒症状の重い人だと、丸一日「ネット断ち」をするのに、相当な覚悟が必要かもしれません……。
◆ ぽっかりと空いた時間
第1回目の「ネット断食」中、何よりも強く感じたのは、とにかく手持ち無沙汰なことでした。
これまでの生活パターンが、ネットを数時間利用することを前提に出来上がってしまっているので、「断食」で急にぽっかり空いた時間を他の行動で埋めようとしても、なかなか思いつきません。
というか、ちょっとした考えごとをするときも、とりあえず端末を立ち上げ、メモをとったり、それを見返したりという行動が習慣になっているので、ネットにつながっていないと、自分の考えすらうまくまとまらない気がします。
それでも、さすがに何時間もボーッとしているわけにもいかず、ふだんは手に取らないような本を選んで読んでみたり、瞑想をする時間を少し増やしたり、いつもなら急いで荒っぽく済ませてしまう作業を、余裕をもって丁寧にやってみたりしました。
そして、そうした作業に、それなりの新鮮さを覚えたのも確かです。
ただ、頭の中には、ネットへの満たされぬ欲求がずっと居座っていて、他の作業をしていても、どこかうわの空というか、いまひとつ集中できていない気がしました。
とにかく、そうやって過ごしていると、一日がけっこう長く感じられます。
以前なら、こうした時間は、本を読んだり、テレビを見たりするのに使っていたんだな、そういう意味では、昔の活字中毒が、最近はネット中毒に置き換わっていただけなのかもしれないな、と思ったりしました。
◆ どこまで「断食」すればいいのか
1回目は、そんな感じで最後までやり通し、ちょっとした達成感さえ覚えたりしたのですが、2回目、3回目となってくると、最初の新鮮さは薄れ、一方で、どうやったら「断食」の一日を苦痛なくやり過ごせるか、ペース配分を工夫してうまく時間をつぶそう、みたいな、ずるい考えが芽生えはじめました。
時間をつぶすだけなら、ネット以外にも、方法はいくらでもあります。
その日にあえて予定を入れて忙しくしたり、遊びに出かけてもいいし、本や雑誌を読んだり、テレビを見たり、音楽を聴いたり、(オフラインの)ゲームをしたり、あるいは、新しく何かの勉強を始めたっていいわけです。
今までは、とにかくネット優先で、それ以外の活動をないがしろにしてきたので、こういう機会に、他の活動への時間を割くというのは、それなりに意味のあることなのかもしれません。
でもやっぱり、個人的には、そういう方向に進んでいくことは、何か違うような気がするのです。
そもそも、「ネット断食」を考えたきっかけは、最近の自分が、消化できないほど大量の情報に溺れているのではないか、と感じるようになったからでした。
だとすると、せっかく「断食」で情報の摂取を減らしているのに、空いた時間で他の情報源に接していたら意味がないし、厳密に考えるなら、外に出て何か面白いものを目にしたり、周囲の人とコミュニケーションをとることさえ、情報の摂取と言えなくもありません。
そう考えると、情報「断食」を徹底するなら、その日は誰にも会わず、外部からの情報も極力遮断しなければならないことになりますが、さすがにそれはやりすぎのような気がするし、自分でもそんなことをやり抜く自信はありません。
ただ、せっかくの機会ではあるので、やはり「断食」で空いた時間は、他の情報源に飛びつくのではなく、できれば、瞑想したり、ひとり静かに考えたりすることに当てるべきなのだろうとは思います。
それと、実際に「ネット断食」をやってみて、ネットに関わる活動は一切禁止、みたいなルールは、あまり現実的ではないと思うようになりました。
今では、さまざまな日常の活動がネット経由で行われているので、それらすべてを長時間中断すると、仕事や人間関係の面でも支障が出てきます。
別に、ネット自体が「悪」というわけではないし、それを利用する自分の側に問題が生じているのだと考えるなら、単純にすべてを断つのではなく、ネット上で自分がいちばん多くの時間を費やしているものだけを一時的に止めたり、内容を見直してみるほうが、より効果的なのかもしれません。
もっとも、ネットを使いながら、一部の活動だけを制限するというのは、ビールをグラスに注いでから禁酒するようなものではないかという気もします。中途半端にガマンして意志力を消耗するくらいなら、いっそネットへの接続自体を止めてしまうほうが楽なのかもしれません……。
◆ 「断食」には意志も必要だが、やる価値はありそう
ひとり静かに考えごとをしたり、のんびりしたりすることにも、それなりの心地よさはありますが、やはりネットにつながって、あれこれ好きな活動に熱中する快感には及ばない気がします。
人間、情報がなくても飢えて死ぬことはありませんが、いろいろなことを知りたい、つねに新しい情報に接していたいという欲求は、やはり強烈なのでしょうか。いちど情報摂取の快楽を覚えると、そのうま味を忘れるのは難しいようです。
だからこそネット中毒にもなるわけで、当然、「ネット断ち」には強い意志が必要です。
私も、何とか1日分の「断食」をやりおおせたと思ったら、次の日は、何事もなかったように、朝からいそいそと端末に向かっていたりします。
それでも、あえてネットに触れない時間を、自分で体験することには意味があったように思います。
私たちが、主体的に行動を決めているのであれば、ネットを利用するときも、つねに、利用する/しないという「選択」をしているはずですが、これまでの私は、利用しないという選択肢を、無意識のうちに放棄し続けてきたし、そこには実質的に、選択の余地がありませんでした。
そう考えると、今回の「断食」は、自分が初めて意識的に、利用しないという選択肢を選んでみる試みであり、その結果どうなるかという体験を何度か繰り返しているうちに、ネットにつながっているときでも、これは今、自分が選んでそうしているのだという自覚が、おぼろげながらも感じられるようになってきたと思います。
今までの、ただ欲求に流されるままの状態から、少しだけそのプロセスを自覚し、自分にはいつでも選択の余地があるのだという、ささやかな主体性のようなものが生まれつつある気がするのです。
もちろん、それが弱々しい感覚であるうちは、ネット中毒を克服することなど、到底できないのでしょうが……。
◆ 「すきまの時間」を埋めすぎないこと
というわけで、何度か「ネット断食」をしてみたことで、自分なりに、いろいろと考えることがありました。
そして、習慣化、ワンパターン化した行動を変えていくには、それなりの意志が必要ではあるものの、とりあえず実行に移してみれば、さまざまな気づきが得られるということを、改めて実感しました。
最近の私は、自分の自由時間のほとんどをネットに費やしていたし、それは他の活動時間をどんどん侵食して、ちょっとした「すきまの時間」さえ、埋め尽くす勢いでした。
たしかに、ネットで好きなことをやっていれば、それなりの快感が得られるし、何もしないでボーッと過ごすより、時間を有効に使った、少なくとも何かをした、という満足感も得られます。
しかしそれは、どこまでいっても、いつもの自分にとっての、見慣れた快楽でしかないのかもしれません。
ネットがまだ普及していなかった頃は、日々の生活が、手持ち無沙汰な待ち時間など、「すきまの時間」にあふれていました。
それは、退屈でいらいらさせられる時間だったかもしれませんが、同時に、自分の心の中に思いがけないものが顔を出したり、あるいは、忙しいときには注意を払わない物事に目を向けるきっかけになるような、貴重な機会でもあったように思います。
そうした、さまざまな可能性に満ちていた「すきま」が、今では、ネットに接続することでとりあえず得られる、チマチマとした、しかしそれなりの実感をともなう快感によって、すっかり埋め尽くされようとしているのかもしれません。
何となく満たされない、モヤモヤとした思いを、とりあえずジャンクフードで満たすみたいに。
新しい考えや行動、新しい生活への芽は、自分の日常的な思惑を超えたところにこそ潜んでいるものだし、だからこそ、そうした「すきま」にも大事な意味があるはずなのに、そうした機会をすべてネットへの接続で使い尽くしてしまえば、私たちの日常は、居心地はいいけど目新しさもない、どこまでも同じパターンに塗り込められてしまうでしょう。
だとすれば、「ネット断食」で浮いたせっかくの時間は、やはり、テレビを見たり、活字を追ったり、音楽を聴いたりするような、「いつもの私」の求める娯楽ではなく、退屈さにあくびをかみ殺しながらも、あえて何もしない時間、満たされなさという「飢え」をしっかり感じとる時間として、そのまま残しておくべきなのかもしれません……。
JUGEMテーマ:インターネット
ネットを1日断ったくらいで「断食」と呼ぶのは、ちょっと大げさかもしれないし、その程度のペースでは、生活に何の変化も生まれないかもしれません。
それでも、今までは、ただ欲求に流されるまま、自分の時間の大半をネットに費やしている状態だったので、まあ、全く何もしないよりはマシだろうという気がします。
今回は、これまでの「断食」の実践を通じて気づいたこと、考えたことについて、思いつくままに書いてみようと思います。
◆ とりあえずやってみた
「ネット世界」とのつきあい方は人それぞれで、その利用目的も、内容も、費やす時間も、「依存」の度合いも違います。
当然、「ネット断食」をするといっても、いろいろなやり方があるだろうし、最終的な目標も人によりけりでしょう。
だから、いざ実際にやってみようと思っても、具体的なルールとして、メールはチェックしていいのか、クラウド上に保存してある文書の更新をするのはだめか、など、細かいことをあれこれ考え始めると、だんだん面倒くさくなってきます。
私も、以前から「断食」してみようという思いはあったものの、なかなか踏ん切りがつきませんでした。
そこで、新年を迎え、気持ちが何となくリフレッシュしている勢いで、第1回目の実行をスケジュールに入れてしまいました。細かいことはやりながら考えることにして、とりあえず、その日は朝から晩までネットに一切接続せず、端末にも手を触れないという、単純なルールだけを決めました。
ただし、私はスマホやタブレットは使っていないし、四六時中ネットにつながっていないと不安を覚えるほどの中毒でもなかったので、ちょっとした勢いだけで「断食」を始められましたが、中毒症状の重い人だと、丸一日「ネット断ち」をするのに、相当な覚悟が必要かもしれません……。
◆ ぽっかりと空いた時間
第1回目の「ネット断食」中、何よりも強く感じたのは、とにかく手持ち無沙汰なことでした。
これまでの生活パターンが、ネットを数時間利用することを前提に出来上がってしまっているので、「断食」で急にぽっかり空いた時間を他の行動で埋めようとしても、なかなか思いつきません。
というか、ちょっとした考えごとをするときも、とりあえず端末を立ち上げ、メモをとったり、それを見返したりという行動が習慣になっているので、ネットにつながっていないと、自分の考えすらうまくまとまらない気がします。
それでも、さすがに何時間もボーッとしているわけにもいかず、ふだんは手に取らないような本を選んで読んでみたり、瞑想をする時間を少し増やしたり、いつもなら急いで荒っぽく済ませてしまう作業を、余裕をもって丁寧にやってみたりしました。
そして、そうした作業に、それなりの新鮮さを覚えたのも確かです。
ただ、頭の中には、ネットへの満たされぬ欲求がずっと居座っていて、他の作業をしていても、どこかうわの空というか、いまひとつ集中できていない気がしました。
とにかく、そうやって過ごしていると、一日がけっこう長く感じられます。
以前なら、こうした時間は、本を読んだり、テレビを見たりするのに使っていたんだな、そういう意味では、昔の活字中毒が、最近はネット中毒に置き換わっていただけなのかもしれないな、と思ったりしました。
◆ どこまで「断食」すればいいのか
1回目は、そんな感じで最後までやり通し、ちょっとした達成感さえ覚えたりしたのですが、2回目、3回目となってくると、最初の新鮮さは薄れ、一方で、どうやったら「断食」の一日を苦痛なくやり過ごせるか、ペース配分を工夫してうまく時間をつぶそう、みたいな、ずるい考えが芽生えはじめました。
時間をつぶすだけなら、ネット以外にも、方法はいくらでもあります。
その日にあえて予定を入れて忙しくしたり、遊びに出かけてもいいし、本や雑誌を読んだり、テレビを見たり、音楽を聴いたり、(オフラインの)ゲームをしたり、あるいは、新しく何かの勉強を始めたっていいわけです。
今までは、とにかくネット優先で、それ以外の活動をないがしろにしてきたので、こういう機会に、他の活動への時間を割くというのは、それなりに意味のあることなのかもしれません。
でもやっぱり、個人的には、そういう方向に進んでいくことは、何か違うような気がするのです。
そもそも、「ネット断食」を考えたきっかけは、最近の自分が、消化できないほど大量の情報に溺れているのではないか、と感じるようになったからでした。
だとすると、せっかく「断食」で情報の摂取を減らしているのに、空いた時間で他の情報源に接していたら意味がないし、厳密に考えるなら、外に出て何か面白いものを目にしたり、周囲の人とコミュニケーションをとることさえ、情報の摂取と言えなくもありません。
そう考えると、情報「断食」を徹底するなら、その日は誰にも会わず、外部からの情報も極力遮断しなければならないことになりますが、さすがにそれはやりすぎのような気がするし、自分でもそんなことをやり抜く自信はありません。
ただ、せっかくの機会ではあるので、やはり「断食」で空いた時間は、他の情報源に飛びつくのではなく、できれば、瞑想したり、ひとり静かに考えたりすることに当てるべきなのだろうとは思います。
それと、実際に「ネット断食」をやってみて、ネットに関わる活動は一切禁止、みたいなルールは、あまり現実的ではないと思うようになりました。
今では、さまざまな日常の活動がネット経由で行われているので、それらすべてを長時間中断すると、仕事や人間関係の面でも支障が出てきます。
別に、ネット自体が「悪」というわけではないし、それを利用する自分の側に問題が生じているのだと考えるなら、単純にすべてを断つのではなく、ネット上で自分がいちばん多くの時間を費やしているものだけを一時的に止めたり、内容を見直してみるほうが、より効果的なのかもしれません。
もっとも、ネットを使いながら、一部の活動だけを制限するというのは、ビールをグラスに注いでから禁酒するようなものではないかという気もします。中途半端にガマンして意志力を消耗するくらいなら、いっそネットへの接続自体を止めてしまうほうが楽なのかもしれません……。
◆ 「断食」には意志も必要だが、やる価値はありそう
ひとり静かに考えごとをしたり、のんびりしたりすることにも、それなりの心地よさはありますが、やはりネットにつながって、あれこれ好きな活動に熱中する快感には及ばない気がします。
人間、情報がなくても飢えて死ぬことはありませんが、いろいろなことを知りたい、つねに新しい情報に接していたいという欲求は、やはり強烈なのでしょうか。いちど情報摂取の快楽を覚えると、そのうま味を忘れるのは難しいようです。
だからこそネット中毒にもなるわけで、当然、「ネット断ち」には強い意志が必要です。
私も、何とか1日分の「断食」をやりおおせたと思ったら、次の日は、何事もなかったように、朝からいそいそと端末に向かっていたりします。
それでも、あえてネットに触れない時間を、自分で体験することには意味があったように思います。
私たちが、主体的に行動を決めているのであれば、ネットを利用するときも、つねに、利用する/しないという「選択」をしているはずですが、これまでの私は、利用しないという選択肢を、無意識のうちに放棄し続けてきたし、そこには実質的に、選択の余地がありませんでした。
そう考えると、今回の「断食」は、自分が初めて意識的に、利用しないという選択肢を選んでみる試みであり、その結果どうなるかという体験を何度か繰り返しているうちに、ネットにつながっているときでも、これは今、自分が選んでそうしているのだという自覚が、おぼろげながらも感じられるようになってきたと思います。
今までの、ただ欲求に流されるままの状態から、少しだけそのプロセスを自覚し、自分にはいつでも選択の余地があるのだという、ささやかな主体性のようなものが生まれつつある気がするのです。
もちろん、それが弱々しい感覚であるうちは、ネット中毒を克服することなど、到底できないのでしょうが……。
◆ 「すきまの時間」を埋めすぎないこと
というわけで、何度か「ネット断食」をしてみたことで、自分なりに、いろいろと考えることがありました。
そして、習慣化、ワンパターン化した行動を変えていくには、それなりの意志が必要ではあるものの、とりあえず実行に移してみれば、さまざまな気づきが得られるということを、改めて実感しました。
最近の私は、自分の自由時間のほとんどをネットに費やしていたし、それは他の活動時間をどんどん侵食して、ちょっとした「すきまの時間」さえ、埋め尽くす勢いでした。
たしかに、ネットで好きなことをやっていれば、それなりの快感が得られるし、何もしないでボーッと過ごすより、時間を有効に使った、少なくとも何かをした、という満足感も得られます。
しかしそれは、どこまでいっても、いつもの自分にとっての、見慣れた快楽でしかないのかもしれません。
ネットがまだ普及していなかった頃は、日々の生活が、手持ち無沙汰な待ち時間など、「すきまの時間」にあふれていました。
それは、退屈でいらいらさせられる時間だったかもしれませんが、同時に、自分の心の中に思いがけないものが顔を出したり、あるいは、忙しいときには注意を払わない物事に目を向けるきっかけになるような、貴重な機会でもあったように思います。
そうした、さまざまな可能性に満ちていた「すきま」が、今では、ネットに接続することでとりあえず得られる、チマチマとした、しかしそれなりの実感をともなう快感によって、すっかり埋め尽くされようとしているのかもしれません。
何となく満たされない、モヤモヤとした思いを、とりあえずジャンクフードで満たすみたいに。
新しい考えや行動、新しい生活への芽は、自分の日常的な思惑を超えたところにこそ潜んでいるものだし、だからこそ、そうした「すきま」にも大事な意味があるはずなのに、そうした機会をすべてネットへの接続で使い尽くしてしまえば、私たちの日常は、居心地はいいけど目新しさもない、どこまでも同じパターンに塗り込められてしまうでしょう。
だとすれば、「ネット断食」で浮いたせっかくの時間は、やはり、テレビを見たり、活字を追ったり、音楽を聴いたりするような、「いつもの私」の求める娯楽ではなく、退屈さにあくびをかみ殺しながらも、あえて何もしない時間、満たされなさという「飢え」をしっかり感じとる時間として、そのまま残しておくべきなのかもしれません……。
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