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2013.09.28 Saturday
「見えにくい」世界
前回の記事で、ネットの世界は、世界中で起きる出来事や、人間が表現しうるあらゆるモノがフィルターなしにあふれている、「見えすぎる」世界だ、というようなことを書きました。
記事 「見えすぎる」世界
しかし、別の観点からすれば、ネット世界は、非常に「見えにくい」世界だとも言えます。ネット上の膨大な情報をとりまとめて、何が重要かを分かりやすく示してくれるような中心が存在しないため、全体像を把握しにくいからです。
ネット上には、どんなマニアックな興味関心にも応えてくれそうな、タコツボ的な小世界が無数にあるので、私たちはそれぞれ、楽しさや心地よさを感じる「居場所」を見つけることができます。そこでは自分好みのコンテンツをいくらでも享受できるし、その気になれば、自ら情報発信することも可能です。そして、それぞれのタコツボは奥が深く、潜り込めば潜り込むほど、世界のある一面が、より精細に見えてくる気がするのではないでしょうか。
ただ、そうした小世界で私たちが感じる「世界の真実」は、別の小世界の住人にはなかなか伝わらないし、逆に別の小世界の真実も、私たちにはなかなか理解できません。一人ひとりが持ち合わせている時間や注意力には限りがあるので、お気に入りの小さな世界に閉じこもり、そこを隅々まで探索しているだけでは、この世界全体がどうなっているか分からないまま、人生の持ち時間がどんどん失われていきます。
かといって、もっと広い視野で世界を見たいと思っても、ネット上を次々に流れるニュースを拾い読みするだけでは、断片的・表面的なことしか分からず、いま、世界でどんなことが起きていて、どんな方向に向かおうとしているのか、その全体像をつかむのは難しいのではないでしょうか。
一昔前なら、新聞・テレビなどのマスメディアが、現代社会の政治・経済や文化がどうなっていて、何が重要か、その理由を含めて分かりやすく示してくれていました。いま思えば、それは必ずしも客観的・中立的な情報ではなかったのでしょうが、他に情報源がほとんどなかったので、私たちの多くはそれにいちいち疑いを抱かず、けっこう素朴に、世の中とはそういうものだと受け止めていた気がします。
しかし、今では、マスコミの伝えることや、政府や学者といった世の中の権威による世界の解釈を、そのまま素直に受け止められるという人は、だんだん減ってきているのではないでしょうか。
ネットの普及だけがその原因ではないのでしょうが、いまや、権威があるとされている組織や人間も、多くの場合、特定の利害関係に基づいて動いていたりすることや、そうした利害が必ずしも私たちの利害とは一致していないということが、今まで以上にありありと見えるようになってしまったように思います。
かといって、それに代わって頼りになりそうなものは、ネット上にも存在しません。この混沌として変化の激しい世界を生きていくうえで、信頼できる世界像を常に示してくれるような、新しい権威の中心のようなものはないし、これからもそういうものは生まれてこないような気がします。
そうした状況を、誰でも好きなように世界を解釈していい、つまり、どう考え、どう生きるかは個人の自由に任されていると、ポジティブに受け止めることもできるでしょうが、何か頼れるものがほしいという人は、それがどこにもないという、大いなる不安を感じるのかもしれません。
でも、世界とは、もともとそういうものだったのではないでしょうか。
昔も今も、人はそれぞれ微妙に異なった世界観なり価値観をもっていて、そういう多様な個人が集まって、時には摩擦を生みながら、世の中は動いているのでしょう。
かつて、日本が急速に経済成長していた時代には、モノや情報を効率よく行き渡らせるという供給側の都合で、個々人の選択の余地は限られていました。その結果、人々の生活パターンが表面的には同じように見えたので、私たちはみんな「中流」で、みんなが同じような暮らしをし、同じような価値観をもっているという幻想が一時的に生じていたのかもしれません。
しかし、社会がより豊かになり、インターネットの普及もあって、人々が、より自分らしい生き方を追求する余地が生まれたことで、世の中は、本来の混沌とした姿を取り戻しつつあるのではないでしょうか。
私たちそれぞれは、結局のところ、自分の興味関心や価値観によって微妙に歪んだ視点からしか、世界を見ることができません。このブログの記事にしても、個人的な価値観にもとづいて、私には世界がこう見えると言っているにすぎません。
それでも、そうやってそれぞれが見いだした「世界の真実」をみんなが持ち寄り、まるでジグソーパズルのように、うまくつなぎあわせていくことができるのなら、世界は、誰か少数の権威によって描かれるような、タテマエだらけの味気ないものではなく、もっとカラフルで生き生きとした、奥行きのある姿として、少しずつ見え始めるのかもしれないし、ネットの世界は、それに大いに貢献できるのではないかという気がします。
JUGEMテーマ:インターネット
記事 「見えすぎる」世界
しかし、別の観点からすれば、ネット世界は、非常に「見えにくい」世界だとも言えます。ネット上の膨大な情報をとりまとめて、何が重要かを分かりやすく示してくれるような中心が存在しないため、全体像を把握しにくいからです。
ネット上には、どんなマニアックな興味関心にも応えてくれそうな、タコツボ的な小世界が無数にあるので、私たちはそれぞれ、楽しさや心地よさを感じる「居場所」を見つけることができます。そこでは自分好みのコンテンツをいくらでも享受できるし、その気になれば、自ら情報発信することも可能です。そして、それぞれのタコツボは奥が深く、潜り込めば潜り込むほど、世界のある一面が、より精細に見えてくる気がするのではないでしょうか。
ただ、そうした小世界で私たちが感じる「世界の真実」は、別の小世界の住人にはなかなか伝わらないし、逆に別の小世界の真実も、私たちにはなかなか理解できません。一人ひとりが持ち合わせている時間や注意力には限りがあるので、お気に入りの小さな世界に閉じこもり、そこを隅々まで探索しているだけでは、この世界全体がどうなっているか分からないまま、人生の持ち時間がどんどん失われていきます。
かといって、もっと広い視野で世界を見たいと思っても、ネット上を次々に流れるニュースを拾い読みするだけでは、断片的・表面的なことしか分からず、いま、世界でどんなことが起きていて、どんな方向に向かおうとしているのか、その全体像をつかむのは難しいのではないでしょうか。
一昔前なら、新聞・テレビなどのマスメディアが、現代社会の政治・経済や文化がどうなっていて、何が重要か、その理由を含めて分かりやすく示してくれていました。いま思えば、それは必ずしも客観的・中立的な情報ではなかったのでしょうが、他に情報源がほとんどなかったので、私たちの多くはそれにいちいち疑いを抱かず、けっこう素朴に、世の中とはそういうものだと受け止めていた気がします。
しかし、今では、マスコミの伝えることや、政府や学者といった世の中の権威による世界の解釈を、そのまま素直に受け止められるという人は、だんだん減ってきているのではないでしょうか。
ネットの普及だけがその原因ではないのでしょうが、いまや、権威があるとされている組織や人間も、多くの場合、特定の利害関係に基づいて動いていたりすることや、そうした利害が必ずしも私たちの利害とは一致していないということが、今まで以上にありありと見えるようになってしまったように思います。
かといって、それに代わって頼りになりそうなものは、ネット上にも存在しません。この混沌として変化の激しい世界を生きていくうえで、信頼できる世界像を常に示してくれるような、新しい権威の中心のようなものはないし、これからもそういうものは生まれてこないような気がします。
そうした状況を、誰でも好きなように世界を解釈していい、つまり、どう考え、どう生きるかは個人の自由に任されていると、ポジティブに受け止めることもできるでしょうが、何か頼れるものがほしいという人は、それがどこにもないという、大いなる不安を感じるのかもしれません。
でも、世界とは、もともとそういうものだったのではないでしょうか。
昔も今も、人はそれぞれ微妙に異なった世界観なり価値観をもっていて、そういう多様な個人が集まって、時には摩擦を生みながら、世の中は動いているのでしょう。
かつて、日本が急速に経済成長していた時代には、モノや情報を効率よく行き渡らせるという供給側の都合で、個々人の選択の余地は限られていました。その結果、人々の生活パターンが表面的には同じように見えたので、私たちはみんな「中流」で、みんなが同じような暮らしをし、同じような価値観をもっているという幻想が一時的に生じていたのかもしれません。
しかし、社会がより豊かになり、インターネットの普及もあって、人々が、より自分らしい生き方を追求する余地が生まれたことで、世の中は、本来の混沌とした姿を取り戻しつつあるのではないでしょうか。
私たちそれぞれは、結局のところ、自分の興味関心や価値観によって微妙に歪んだ視点からしか、世界を見ることができません。このブログの記事にしても、個人的な価値観にもとづいて、私には世界がこう見えると言っているにすぎません。
それでも、そうやってそれぞれが見いだした「世界の真実」をみんなが持ち寄り、まるでジグソーパズルのように、うまくつなぎあわせていくことができるのなら、世界は、誰か少数の権威によって描かれるような、タテマエだらけの味気ないものではなく、もっとカラフルで生き生きとした、奥行きのある姿として、少しずつ見え始めるのかもしれないし、ネットの世界は、それに大いに貢献できるのではないかという気がします。
JUGEMテーマ:インターネット
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