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2014.03.02 Sunday
「旅人の楽園」は幻想? (3/3)
「旅人の楽園」は幻想? (1/3)
「旅人の楽園」は幻想? (2/3)
(続き)
◆ 「楽園」は、旅人が幸せを感じる瞬間
「楽園」という言葉には、それが特定の場所に存在する、というニュアンスがどうしてもつきまとってしまうのですが、そのことはいったん忘れて、この言葉の意味を、もっと柔軟に考え直してみることはできないでしょうか。
例えば、どんなことであれ、旅人が幸せな気持ちを味わっている瞬間を、「楽園」的な瞬間だと考えてみてはどうでしょうか。
旅人が満足感を覚えているとき、そこに一瞬、「楽園」が生まれている、と考えるのです。
では、旅人は、どんなときに幸せな気持ちになれるのでしょうか?
もちろん、これも人によりけりだとは思うし、細かく検討していくと長くなってしまうので、あえて共通する部分を挙げるなら、それは、いつもとは違う感覚を楽しめた瞬間、ということになるのではないかと思います。
人は、旅をすることで、繰り返される日常から離れ、日頃の社会的な役割や義務といった肩の荷を降ろすことで、つかの間の自由を味わいます。同時に、見た目も言葉も習慣も違う、異質な世界に投げ出される体験は、旅人の感覚や思考を強烈に刺激することでしょう。
私たちは、旅という非日常を通じて、いつも通りの思考や行動のパターンから、一時的に解き放たれるのです。
例えば、旅先では、目の前にいる相手の社会的地位や立場、自分との利害関係といった、さまざまなしがらみを気にすることなく、自由で柔軟なコミュニケーションを楽しむことができます。
旅に出ているという解放感もあって、私たちは、ふだんなら声をかけないような相手とも話をしたり、いつもなら話さないような話題で盛り上がったり、ちょっとした相手の親切に、深く心を動かされたりします。
非日常といっても、それらの多くは、映画やドラマのように劇的な展開になるわけではないし、後々まで記憶に残るほど強烈な印象も残さないかもしれません。実際には、異国の人とカタコトの会話をしたり、一杯のお茶を一緒に飲んだり、ただ並んで座って、同じ景色を眺めるだけだったりするかもしれません。
それでも、歩んできた人生も国籍も考え方も違う、そこで出会わなければ決して接点のなかったような人間同士が、不器用ながら言葉を交わし、互いに少しだけ相手のことを分かろうとしつつ、同じ時間と空間を共有しているという感覚は、十分に非日常的だし、その瞬間、旅人は、ささやかな幸せとともに、いつもとは違う、独特の感覚を楽しんでいるのではないでしょうか。
もちろん、そうした瞬間が永遠に続くことはあり得ないし、意図して作り出そうとしてもなかなかうまくいかないでしょう。それは、ふと気づいたときにはそうなっていて、やがては失われてしまうような、微妙なものです。
しかしそれは、旅をしているかぎり、またいつか、どこかで形を変えてよみがえり、何度でも感じることができるものでもあります。
◆ 身近でささやかな物事に「楽園」を見いだす
そうした非日常的な感覚を、旅人にとっての「楽園」的感覚と呼ぶなら、例えば、エキゾチックな風景を目の当たりにしたり、文化や生活習慣のギャップを感じたり、あるいは、極限の地に足を踏み入れて、究極の非日常を味わったりと、そうした感覚を味わえる瞬間は、他にもいくらでもあり得ます。
それらは、必ずしも相手を必要としないし、ちょっとした気づきのような繊細なものまで含めるなら、旅人はそれこそ、いつでもどこでも、そうした「楽園」を感じる機会があるでしょう。
習慣化しすぎて、もはやしがらみとなった思考や行動のパターンから解放され、いつもとは違う、新鮮な「何か」を感じるとき、旅人は、そこに「楽園」の輝きを見ているのです。
逆に、自分の理想にこだわりすぎたり、そのために、目の前で起きている変化に抵抗したりすれば、それは「楽園」どころか、旅人の視野を狭め、心にしがらみを生み出すことになります。
そして、変化を受け入れ、新しい経験に対して常にオープンな気持ちでいられるなら、どこか外国や、遠くの街までわざわざ出かける必要もなく、もちろん、地球のどこかに理想の「楽園」を建設する必要などさらさらなく、ごく普通に暮らしながら、いつでも「楽園」にいると感じることもできるのではないでしょうか。
……と、書いてはみたものの、それがとても難しいことで、人間はつねに、「いつものパターン」に陥りがちであることは、私も重々承知しています。
それでも、地球のどこかに楽園を求め、他人も巻き込んで大騒ぎを繰り返すよりは、身近でささやかな物事に非日常、つまり、「旅」を感じることができるように、ふだんから感覚を研ぎ澄ませているほうが、たぶん、ストレスもずっと少なく、この世界をより一層楽しむことができるのではないかという気がします。
JUGEMテーマ:旅行
「旅人の楽園」は幻想? (2/3)
(続き)
◆ 「楽園」は、旅人が幸せを感じる瞬間
「楽園」という言葉には、それが特定の場所に存在する、というニュアンスがどうしてもつきまとってしまうのですが、そのことはいったん忘れて、この言葉の意味を、もっと柔軟に考え直してみることはできないでしょうか。
例えば、どんなことであれ、旅人が幸せな気持ちを味わっている瞬間を、「楽園」的な瞬間だと考えてみてはどうでしょうか。
旅人が満足感を覚えているとき、そこに一瞬、「楽園」が生まれている、と考えるのです。
では、旅人は、どんなときに幸せな気持ちになれるのでしょうか?
もちろん、これも人によりけりだとは思うし、細かく検討していくと長くなってしまうので、あえて共通する部分を挙げるなら、それは、いつもとは違う感覚を楽しめた瞬間、ということになるのではないかと思います。
人は、旅をすることで、繰り返される日常から離れ、日頃の社会的な役割や義務といった肩の荷を降ろすことで、つかの間の自由を味わいます。同時に、見た目も言葉も習慣も違う、異質な世界に投げ出される体験は、旅人の感覚や思考を強烈に刺激することでしょう。
私たちは、旅という非日常を通じて、いつも通りの思考や行動のパターンから、一時的に解き放たれるのです。
例えば、旅先では、目の前にいる相手の社会的地位や立場、自分との利害関係といった、さまざまなしがらみを気にすることなく、自由で柔軟なコミュニケーションを楽しむことができます。
旅に出ているという解放感もあって、私たちは、ふだんなら声をかけないような相手とも話をしたり、いつもなら話さないような話題で盛り上がったり、ちょっとした相手の親切に、深く心を動かされたりします。
非日常といっても、それらの多くは、映画やドラマのように劇的な展開になるわけではないし、後々まで記憶に残るほど強烈な印象も残さないかもしれません。実際には、異国の人とカタコトの会話をしたり、一杯のお茶を一緒に飲んだり、ただ並んで座って、同じ景色を眺めるだけだったりするかもしれません。
それでも、歩んできた人生も国籍も考え方も違う、そこで出会わなければ決して接点のなかったような人間同士が、不器用ながら言葉を交わし、互いに少しだけ相手のことを分かろうとしつつ、同じ時間と空間を共有しているという感覚は、十分に非日常的だし、その瞬間、旅人は、ささやかな幸せとともに、いつもとは違う、独特の感覚を楽しんでいるのではないでしょうか。
もちろん、そうした瞬間が永遠に続くことはあり得ないし、意図して作り出そうとしてもなかなかうまくいかないでしょう。それは、ふと気づいたときにはそうなっていて、やがては失われてしまうような、微妙なものです。
しかしそれは、旅をしているかぎり、またいつか、どこかで形を変えてよみがえり、何度でも感じることができるものでもあります。
◆ 身近でささやかな物事に「楽園」を見いだす
そうした非日常的な感覚を、旅人にとっての「楽園」的感覚と呼ぶなら、例えば、エキゾチックな風景を目の当たりにしたり、文化や生活習慣のギャップを感じたり、あるいは、極限の地に足を踏み入れて、究極の非日常を味わったりと、そうした感覚を味わえる瞬間は、他にもいくらでもあり得ます。
それらは、必ずしも相手を必要としないし、ちょっとした気づきのような繊細なものまで含めるなら、旅人はそれこそ、いつでもどこでも、そうした「楽園」を感じる機会があるでしょう。
習慣化しすぎて、もはやしがらみとなった思考や行動のパターンから解放され、いつもとは違う、新鮮な「何か」を感じるとき、旅人は、そこに「楽園」の輝きを見ているのです。
逆に、自分の理想にこだわりすぎたり、そのために、目の前で起きている変化に抵抗したりすれば、それは「楽園」どころか、旅人の視野を狭め、心にしがらみを生み出すことになります。
そして、変化を受け入れ、新しい経験に対して常にオープンな気持ちでいられるなら、どこか外国や、遠くの街までわざわざ出かける必要もなく、もちろん、地球のどこかに理想の「楽園」を建設する必要などさらさらなく、ごく普通に暮らしながら、いつでも「楽園」にいると感じることもできるのではないでしょうか。
……と、書いてはみたものの、それがとても難しいことで、人間はつねに、「いつものパターン」に陥りがちであることは、私も重々承知しています。
それでも、地球のどこかに楽園を求め、他人も巻き込んで大騒ぎを繰り返すよりは、身近でささやかな物事に非日常、つまり、「旅」を感じることができるように、ふだんから感覚を研ぎ澄ませているほうが、たぶん、ストレスもずっと少なく、この世界をより一層楽しむことができるのではないかという気がします。
JUGEMテーマ:旅行
2014.03.01 Saturday
「旅人の楽園」は幻想? (2/3)
「旅人の楽園」は幻想? (1/3)
(続き)
◆ 何を「理想」とするかは、人それぞれ
ただ、よく考えてみると、「楽園」は自由で素朴であるべきだと考えるのは、ごく一部の旅人にすぎないのかもしれません。
私はここまで、『ビーチ』で描かれた秘密のコミュニティの姿を、「旅人の楽園」のイメージとしてそのまま使ってきましたが、実際のところ、そのイメージに誰もが賛同するわけではなく、電気も水道もないビーチなんて楽園じゃない、と思う人も多いのではないでしょうか。
世界各地をあちこち旅した熟練の旅人なら、ろくな宿がないとか、食べ慣れた料理にありつけないとか、交通の便が悪いとか、娯楽施設に乏しいとか、言葉が通じないとか、そうした不便や困難は苦にならないだろうし、逆に、自分なりの工夫や適応によって、そうした困難を乗り越える楽しみを知っています。
むしろ彼らは、何もないくらいのシンプルな土地の方が、自分のサバイバル能力を存分に生かせるし、創造性を発揮する余地もあると考えるだろうし、できれば同じくらいの「経験値」をもち、似たような価値観や考え方を共有できる少数の旅人同士で、和気あいあいと過ごしたいと思うかもしれません。
しかし、旅人といっても色々です。同じバックパッカーでも、何もない不便さを楽しめる人もいれば、宿泊・食事・移動に一定の便利さや快適さを求める人もいるし、あるいは、ヒマな時間をつぶせるような娯楽施設を必要とする人もいます。
また、バックパッカー以外にも、リッチな個人旅行者もいれば、団体のツアー客もおり、何年も放浪している旅人もいれば、短い休暇で旅を楽しむ人もいます。都会の喧騒を好む旅人がいれば、何もない田舎がいいという人もいるし、観光スポットを全部チェックしないと気がすまないという人がいれば、特に何をするでもなく、現地でまったりと「沈没」生活を楽しむ人もいるでしょう。
人が旅に出る動機や、目的や、旅のスタイルはさまざまで、旅人の価値観や、モノの見方も人それぞれです。
ある旅人にとって、「堕落」や「腐敗」であると感じられる現象も、他の旅人の目には、「便利」さや「快適」さが増したと映っているかもしれないし、大勢の人間がひしめく喧騒や混沌こそ「楽園」であり、そこにエネルギーを感じ、ワクワクするという人もいるでしょう。
そうしたさまざまな価値観や嗜好の違いを考えると、ある土地が人気を集め、にぎやかな観光地と化していくことを「悪」だと考えるのは、あくまで、一つの見方にもとづいた判断にすぎない、ということになります。
むしろ、多くの人にとっては、いつもテレビ番組で取り上げられているような、便利で快適で豪華なリゾート施設のほうが、「旅人の楽園」のイメージにぴったりなのかもしれません。
◆ 私たちにできるのは、現実を受け入れることだけ
どんな人も、自分なりの「楽園」のイメージをもっており、さまざまな人間が、さまざまな理想や思惑に従って、目の前の土地に働きかけ、手を入れていくので、その土地はどんどん変化していきます。それは、いいとか悪いとか単純に言い切れるものではなく、ただ、起きるべきことが起きているとしか言いようがありません。
すべてが変化していく以上、何かひとつのイメージにこだわってみても、それは、他の人々の理想のイメージで上書きされたり、あるいは、他のイメージと混じりあって混沌としてしまい、決して永続することはないでしょう。
自分にとっての「楽園」が失われていくのは避けようのないことですが、私たちは、そうした挫折によって、心に抱える理想像がひとつの幻想にすぎないということを、痛みとともに自覚させられ、何度も苦い思いをしながら、この世界について、少しずつ学んでいくのでしょう。
だとすれば、私たちにできることは、状況を強引にコントロールしようとせず、変化のプロセスを受け入れ、ありのままの現実をしっかりと見届けることだけなのかもしれません。
この地球上のどこかに、自分にとっての永遠の「楽園」があると信じる人は、その幻想を守るために、現実から目を背け、いつまでも世界をさまよい続けることになりますが、それは必ず徒労と失望に終わり、結局は、自らを苦しめることになるのです。
それでも、どうしても自分の「楽園」にこだわりたいなら、他の人が決して目をつけないような場所を注意深く選ぶという方法もなくはありません。
例えば、景色はそれなりに美しいけれど、交通の便が悪すぎて人が寄りつかないような土地であれば、いつまでたっても人は集まってこないので、そこで自由気ままに、自分だけの王国を築くこともできるでしょう。
ただし、何かのはずみで交通の便がよくなるなど、周囲の環境が変わってしまえば、それも永遠には続かないし、かりにそういう変化がないとしても、そもそも、誰からも忘れ去られたような場所で、ロビンソン・クルーソーみたいな孤独をひたすら味わい続けるのは、むしろ、「楽園」を失うよりも、ずっと辛いことかもしれません……。
ここまで読まれた方は、それでは夢も希望もないじゃないかと思われるかもしれませんが、話には、まだ先があります。
私は、「旅人の楽園」は、やはり存在すると思っています。
もちろんそれは、この地上のどこかに、永遠の楽園があるという意味ではありません。
そうではなく、「楽園」という言葉の意味を考え直すことで、そこに別の可能性が開けると思うのです。
(続く)
「旅人の楽園」は幻想? (3/3)
JUGEMテーマ:旅行
(続き)
◆ 何を「理想」とするかは、人それぞれ
ただ、よく考えてみると、「楽園」は自由で素朴であるべきだと考えるのは、ごく一部の旅人にすぎないのかもしれません。
私はここまで、『ビーチ』で描かれた秘密のコミュニティの姿を、「旅人の楽園」のイメージとしてそのまま使ってきましたが、実際のところ、そのイメージに誰もが賛同するわけではなく、電気も水道もないビーチなんて楽園じゃない、と思う人も多いのではないでしょうか。
世界各地をあちこち旅した熟練の旅人なら、ろくな宿がないとか、食べ慣れた料理にありつけないとか、交通の便が悪いとか、娯楽施設に乏しいとか、言葉が通じないとか、そうした不便や困難は苦にならないだろうし、逆に、自分なりの工夫や適応によって、そうした困難を乗り越える楽しみを知っています。
むしろ彼らは、何もないくらいのシンプルな土地の方が、自分のサバイバル能力を存分に生かせるし、創造性を発揮する余地もあると考えるだろうし、できれば同じくらいの「経験値」をもち、似たような価値観や考え方を共有できる少数の旅人同士で、和気あいあいと過ごしたいと思うかもしれません。
しかし、旅人といっても色々です。同じバックパッカーでも、何もない不便さを楽しめる人もいれば、宿泊・食事・移動に一定の便利さや快適さを求める人もいるし、あるいは、ヒマな時間をつぶせるような娯楽施設を必要とする人もいます。
また、バックパッカー以外にも、リッチな個人旅行者もいれば、団体のツアー客もおり、何年も放浪している旅人もいれば、短い休暇で旅を楽しむ人もいます。都会の喧騒を好む旅人がいれば、何もない田舎がいいという人もいるし、観光スポットを全部チェックしないと気がすまないという人がいれば、特に何をするでもなく、現地でまったりと「沈没」生活を楽しむ人もいるでしょう。
人が旅に出る動機や、目的や、旅のスタイルはさまざまで、旅人の価値観や、モノの見方も人それぞれです。
ある旅人にとって、「堕落」や「腐敗」であると感じられる現象も、他の旅人の目には、「便利」さや「快適」さが増したと映っているかもしれないし、大勢の人間がひしめく喧騒や混沌こそ「楽園」であり、そこにエネルギーを感じ、ワクワクするという人もいるでしょう。
そうしたさまざまな価値観や嗜好の違いを考えると、ある土地が人気を集め、にぎやかな観光地と化していくことを「悪」だと考えるのは、あくまで、一つの見方にもとづいた判断にすぎない、ということになります。
むしろ、多くの人にとっては、いつもテレビ番組で取り上げられているような、便利で快適で豪華なリゾート施設のほうが、「旅人の楽園」のイメージにぴったりなのかもしれません。
◆ 私たちにできるのは、現実を受け入れることだけ
どんな人も、自分なりの「楽園」のイメージをもっており、さまざまな人間が、さまざまな理想や思惑に従って、目の前の土地に働きかけ、手を入れていくので、その土地はどんどん変化していきます。それは、いいとか悪いとか単純に言い切れるものではなく、ただ、起きるべきことが起きているとしか言いようがありません。
すべてが変化していく以上、何かひとつのイメージにこだわってみても、それは、他の人々の理想のイメージで上書きされたり、あるいは、他のイメージと混じりあって混沌としてしまい、決して永続することはないでしょう。
自分にとっての「楽園」が失われていくのは避けようのないことですが、私たちは、そうした挫折によって、心に抱える理想像がひとつの幻想にすぎないということを、痛みとともに自覚させられ、何度も苦い思いをしながら、この世界について、少しずつ学んでいくのでしょう。
だとすれば、私たちにできることは、状況を強引にコントロールしようとせず、変化のプロセスを受け入れ、ありのままの現実をしっかりと見届けることだけなのかもしれません。
この地球上のどこかに、自分にとっての永遠の「楽園」があると信じる人は、その幻想を守るために、現実から目を背け、いつまでも世界をさまよい続けることになりますが、それは必ず徒労と失望に終わり、結局は、自らを苦しめることになるのです。
それでも、どうしても自分の「楽園」にこだわりたいなら、他の人が決して目をつけないような場所を注意深く選ぶという方法もなくはありません。
例えば、景色はそれなりに美しいけれど、交通の便が悪すぎて人が寄りつかないような土地であれば、いつまでたっても人は集まってこないので、そこで自由気ままに、自分だけの王国を築くこともできるでしょう。
ただし、何かのはずみで交通の便がよくなるなど、周囲の環境が変わってしまえば、それも永遠には続かないし、かりにそういう変化がないとしても、そもそも、誰からも忘れ去られたような場所で、ロビンソン・クルーソーみたいな孤独をひたすら味わい続けるのは、むしろ、「楽園」を失うよりも、ずっと辛いことかもしれません……。
ここまで読まれた方は、それでは夢も希望もないじゃないかと思われるかもしれませんが、話には、まだ先があります。
私は、「旅人の楽園」は、やはり存在すると思っています。
もちろんそれは、この地上のどこかに、永遠の楽園があるという意味ではありません。
そうではなく、「楽園」という言葉の意味を考え直すことで、そこに別の可能性が開けると思うのです。
(続く)
「旅人の楽園」は幻想? (3/3)
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