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2014.07.30 Wednesday
「何もしない」という非日常
先日、ネットで面白い記事を読みました。
【貧乏人ですら、なにもしないことは贅沢になってしまった】 貧BPの人生オワタ\(^o^)/旅
貧BPさんは、物価の安い国に長期滞在する、いわゆる「外こもり」と呼ばれるタイプの旅を実践し、旅に関する情報や、自らの人生観などについて、ブログで発信されています。
上の記事では、コラムニストの小田嶋隆氏が、ネットの普及によって、日本人は「なにもしない」時間や、純粋な「退屈」を失ってしまったという内容をツイートしたのを受け、最近は、海外でも簡単かつ安価にネットに接続できるようになったため、バックパッカーもつねに情報チェックに追われるようになり、旅先であえて「何もしない」でいることに、大変な決断力と勇気が必要になったと書いています。
私も、記事を読みながら、ネットが普及する以前の、いろいろと不便で、退屈さにあふれていたころの旅のことを、懐かしく思い出しました。
旅の名言 「ヒマでヒマでしょうがなくて……」
また、貧BPさんが書いているように、長距離バスで移動する時間などは、今でも、「何もしない時間」を存分に味わえる、得がたい機会だと思います。
旅の名言 「ひとりバスに乗り……」
旅の名言 「窓の外の風景を……」
それはともかく、新鮮で刺激的な体験を求め、わざわざ異国の地まで足を運んだはずなのに、旅先でもスマホなどの情報端末を手放せないという旅人は、けっこう多いのではないかと思います。
それを、現地での情報収集とか、現地からの情報発信に役立てるならともかく、中には、いつもの仲間とメッセージをやりとりしたり、ゲームをしたり、ふだん見ているサイトをチェックするのにほとんどの時間を費やしているという人もいるかもしれません。
つねにネットに接続できる素晴らしいツールを手に入れたことで、旅人は便利で快適な旅を楽しめるようになったし、昔のように退屈を持て余すこともなくなりましたが、その反面、せっかく旅に出ていても、いつもの自分の思考と行動のパターンから逃れることが難しくなりました。
情報端末は、使用目的や利用者の生活スタイル、興味関心などに合わせて細かくカスタマイズすることができます。つまり、そこには、その人のふだんの思考・行動の特性が色濃く反映されています。
端末を使い込み、カスタマイズを重ねれば重ねるほど、利用者はますます快適にそれを使えるようになっていくわけですが、快適であればあるほど、それを手放すことが難しくなるだろうし、いつしか、端末を手にすること自体が、いつもの自分らしさを感じられる大切な行為として、日常生活に深く根づいていくのではないでしょうか。
そして、旅先でそれを使えば、いつでもどこでも、旅人はふだん通りの日常の感覚を、強く呼び覚まされることになるでしょう。
しかし一方で、異国の街にいるのに、日常の感覚から抜け出せず、いつもの自分の関心事ばかりに心が向けられたままでは、旅をしていても、新鮮な驚きや楽しさを感じることができなくなってしまうかもしれません。
それは、非日常を体験するはずの旅が、どんどん日常に近づいていくことを意味します。というより、旅が日常性に侵食されてしまっている、というべきなのかもしれません。
もちろん、だからといって、昔のような、不便さや退屈さやトラブルに満ちた旅の方が素晴らしいというわけではないし、そういう時代に戻るべきでもないでしょう。
不便で退屈な旅を続けたからといって、どこかで新鮮な驚きに満ちた体験が必ず得られるという保証などないし、トラブルに遭うことは、たしかに非日常的な体験には違いないでしょうが、そのほとんどは、旅人が望んでいるタイプの非日常ではありません。
ただ、ネットが普及する以前は、多くの場所で、旅行者のためのインフラは貧弱で、情報も不足しており、旅人がふだんの生活のような安心感や快適さを求めても得られませんでした。彼らは、「何もしない」ことや「退屈」をあえて意図し、それを楽しんでいたわけではなく、単に「何もできなかった」だけなのですが、旅人が周囲の状況をコントロールできなかったからこそ、結果的に、彼らにとって意外で、自分を大きく変えてしまうような、新鮮で面白い物事が起こり得る余地というか、隙間のようなものがあったのではないかと思います。
しかし、整備されたインフラやあふれる情報を駆使し、生活環境をコントロールできるのが当たり前になり、つねにほどほどに欲求が満たされた日常という、生暖かい心地よさに慣れすぎた人間にとっては、逆にそうした、コントロールされていない隙間や空白が、ただ不安を呼び覚ますだけの、恐ろしいものに見えてしまったりします。
そういう状況で、いつもの快適さをあえて打ち破り、自分にとって未知の世界に直面しようとするには、貧BPさんが書いているように、「大変な決断力と勇気」が必要なのでしょう。
別の言い方をすれば、自分の意思でほどほどの快適さを維持できるような環境がいったん出来てしまうと、そこから抜け出すのはとても難しくなる、ということなのだと思います。
「何もしない」、あるいは、「何もできない」という状況は、今やほとんどの人にとって非日常的なことなのですが、それは、みんなが手に入れたいと望みながら、なかなか手に入らない贅沢品というより、むしろ、多くの人は、それをわざわざ手に入れたいとは思わないのではないでしょうか。その意味では、そうした非日常は、安楽な日常という繭の外にあえて出ようとする決断力と勇気をもったごくわずかな人間だけが求める、マニア向けの品になりつつあるのでしょう。
だとすると、今の私たちにとっては、実際に異国へ旅をすることよりも、快適な日常を維持するために続けているさまざまな行為をいったん止めて、何もしない、からっぽの時間に直面することの方が、ずっと非日常的で、インパクトのある体験をもたらしてくれるのではないでしょうか。
自分を大きく揺さぶるような体験を求めているなら、今や、ただ旅に出るだけでは不十分で、あえて情報端末などを(一時的にでも)手放して、目の前のナマの現実と、ナマの自分自身に向き合う機会を、勇気をもって作り出す必要があるのかもしれません。むしろ、旅に出ることよりも、その方が重要なのではないかという気がします。
そして、それなら、あえて遠くまで旅に出なくても、ネットとの接続を一時的に断ってみたり、日常の行動パターンから意識的に外れてみるだけでも、そこには新鮮な驚きが待っているかもしれないし、旅に出ること以上の大きな意味があるのかもしれません。
まあ、自由な時間の大半をネットに費やしている私がこういうことを書いても、全く説得力がありませんが……。
【貧乏人ですら、なにもしないことは贅沢になってしまった】 貧BPの人生オワタ\(^o^)/旅
貧BPさんは、物価の安い国に長期滞在する、いわゆる「外こもり」と呼ばれるタイプの旅を実践し、旅に関する情報や、自らの人生観などについて、ブログで発信されています。
上の記事では、コラムニストの小田嶋隆氏が、ネットの普及によって、日本人は「なにもしない」時間や、純粋な「退屈」を失ってしまったという内容をツイートしたのを受け、最近は、海外でも簡単かつ安価にネットに接続できるようになったため、バックパッカーもつねに情報チェックに追われるようになり、旅先であえて「何もしない」でいることに、大変な決断力と勇気が必要になったと書いています。
私も、記事を読みながら、ネットが普及する以前の、いろいろと不便で、退屈さにあふれていたころの旅のことを、懐かしく思い出しました。
旅の名言 「ヒマでヒマでしょうがなくて……」
また、貧BPさんが書いているように、長距離バスで移動する時間などは、今でも、「何もしない時間」を存分に味わえる、得がたい機会だと思います。
旅の名言 「ひとりバスに乗り……」
旅の名言 「窓の外の風景を……」
それはともかく、新鮮で刺激的な体験を求め、わざわざ異国の地まで足を運んだはずなのに、旅先でもスマホなどの情報端末を手放せないという旅人は、けっこう多いのではないかと思います。
それを、現地での情報収集とか、現地からの情報発信に役立てるならともかく、中には、いつもの仲間とメッセージをやりとりしたり、ゲームをしたり、ふだん見ているサイトをチェックするのにほとんどの時間を費やしているという人もいるかもしれません。
つねにネットに接続できる素晴らしいツールを手に入れたことで、旅人は便利で快適な旅を楽しめるようになったし、昔のように退屈を持て余すこともなくなりましたが、その反面、せっかく旅に出ていても、いつもの自分の思考と行動のパターンから逃れることが難しくなりました。
情報端末は、使用目的や利用者の生活スタイル、興味関心などに合わせて細かくカスタマイズすることができます。つまり、そこには、その人のふだんの思考・行動の特性が色濃く反映されています。
端末を使い込み、カスタマイズを重ねれば重ねるほど、利用者はますます快適にそれを使えるようになっていくわけですが、快適であればあるほど、それを手放すことが難しくなるだろうし、いつしか、端末を手にすること自体が、いつもの自分らしさを感じられる大切な行為として、日常生活に深く根づいていくのではないでしょうか。
そして、旅先でそれを使えば、いつでもどこでも、旅人はふだん通りの日常の感覚を、強く呼び覚まされることになるでしょう。
しかし一方で、異国の街にいるのに、日常の感覚から抜け出せず、いつもの自分の関心事ばかりに心が向けられたままでは、旅をしていても、新鮮な驚きや楽しさを感じることができなくなってしまうかもしれません。
それは、非日常を体験するはずの旅が、どんどん日常に近づいていくことを意味します。というより、旅が日常性に侵食されてしまっている、というべきなのかもしれません。
もちろん、だからといって、昔のような、不便さや退屈さやトラブルに満ちた旅の方が素晴らしいというわけではないし、そういう時代に戻るべきでもないでしょう。
不便で退屈な旅を続けたからといって、どこかで新鮮な驚きに満ちた体験が必ず得られるという保証などないし、トラブルに遭うことは、たしかに非日常的な体験には違いないでしょうが、そのほとんどは、旅人が望んでいるタイプの非日常ではありません。
ただ、ネットが普及する以前は、多くの場所で、旅行者のためのインフラは貧弱で、情報も不足しており、旅人がふだんの生活のような安心感や快適さを求めても得られませんでした。彼らは、「何もしない」ことや「退屈」をあえて意図し、それを楽しんでいたわけではなく、単に「何もできなかった」だけなのですが、旅人が周囲の状況をコントロールできなかったからこそ、結果的に、彼らにとって意外で、自分を大きく変えてしまうような、新鮮で面白い物事が起こり得る余地というか、隙間のようなものがあったのではないかと思います。
しかし、整備されたインフラやあふれる情報を駆使し、生活環境をコントロールできるのが当たり前になり、つねにほどほどに欲求が満たされた日常という、生暖かい心地よさに慣れすぎた人間にとっては、逆にそうした、コントロールされていない隙間や空白が、ただ不安を呼び覚ますだけの、恐ろしいものに見えてしまったりします。
そういう状況で、いつもの快適さをあえて打ち破り、自分にとって未知の世界に直面しようとするには、貧BPさんが書いているように、「大変な決断力と勇気」が必要なのでしょう。
別の言い方をすれば、自分の意思でほどほどの快適さを維持できるような環境がいったん出来てしまうと、そこから抜け出すのはとても難しくなる、ということなのだと思います。
「何もしない」、あるいは、「何もできない」という状況は、今やほとんどの人にとって非日常的なことなのですが、それは、みんなが手に入れたいと望みながら、なかなか手に入らない贅沢品というより、むしろ、多くの人は、それをわざわざ手に入れたいとは思わないのではないでしょうか。その意味では、そうした非日常は、安楽な日常という繭の外にあえて出ようとする決断力と勇気をもったごくわずかな人間だけが求める、マニア向けの品になりつつあるのでしょう。
だとすると、今の私たちにとっては、実際に異国へ旅をすることよりも、快適な日常を維持するために続けているさまざまな行為をいったん止めて、何もしない、からっぽの時間に直面することの方が、ずっと非日常的で、インパクトのある体験をもたらしてくれるのではないでしょうか。
自分を大きく揺さぶるような体験を求めているなら、今や、ただ旅に出るだけでは不十分で、あえて情報端末などを(一時的にでも)手放して、目の前のナマの現実と、ナマの自分自身に向き合う機会を、勇気をもって作り出す必要があるのかもしれません。むしろ、旅に出ることよりも、その方が重要なのではないかという気がします。
そして、それなら、あえて遠くまで旅に出なくても、ネットとの接続を一時的に断ってみたり、日常の行動パターンから意識的に外れてみるだけでも、そこには新鮮な驚きが待っているかもしれないし、旅に出ること以上の大きな意味があるのかもしれません。
まあ、自由な時間の大半をネットに費やしている私がこういうことを書いても、全く説得力がありませんが……。
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