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2014.09.29 Monday
恥ずかしい記憶とともに生きる
夜、なかなか寝つけないようなとき、つい余計な考えごとを始めてしまい、そのうち何の脈絡もなく、昔の失敗や恥ずかしい出来事が、記憶の奥底から浮かび上がってくることがあります。
そんなときは、ただ黙ってそれをやり過ごせればいいのでしょうが、なかなかそうはいかず、記憶の細部にどんどん巻き込まれて、あのとき何であんなことをしたんだろうとか、どうしてあんなことを言ったんだろうと、頭のなかのモヤモヤをひたすら巨大化させて、思わず叫び出したくなることも少なくありません。
ただ、私の場合は、そうして夜中によみがえる恥ずかしい記憶の多くは、人生の重大事件というほどでもない、ささいな出来事がほとんどです。例えば、はずみで言ってしまった余計な一言とか、後で考えたら相手に失礼だった行為とか、あるいは逆に、タイミングを逸して何もしないまま、結果的に非礼になってしまったこととか……。
まあ、当時はささいな出来事だと思ったからこそ、たいして後悔もせず、スルーしてそのまま忘れていたわけですが、それから何年、何十年と経ち、その間、いろいろな経験をしてきた後で、そうしたエピソードをふと思い出したとき、あのときはどうして平気でいられたのだろうかと、昔の自分の鈍感さが信じられず、かといって今となっては取り返しもつかず、ただただ恥ずかしさを噛みしめることになるのです。
旅の失敗にしても同じで、当時は何も感じなかった旅先での何気ない行動が、のちに、その国の文化や慣習をいろいろ知ってから改めて思い出すと、けっこう冷や汗ものだったりします。
最近、そういう体験が増えたのは、つまりは、歳をとったということなのでしょう。昔読んだ本を、何年もしてから再読すると、若いときには分からなかった微妙な意味が分かったり、深い感動を覚えたりするものだとよく言われますが、それと同じ仕組みなのだと思います。
でも、そうやって過去の自分に恥ずかしさを覚えるのは、別の見方をすれば、今の自分が、若い頃とは違う視点や価値観で物事を見られるようになった、さらに手前勝手なことを言えば、自分が過去を反省できる程度には成長した、ということなのかもしれません。
まあ、今さらいくら悩んだりジタバタしてみても過去は変えられないので、自分はあのときよりはマシになったとでも考えて、強引に納得するしかないわけですが……。
それにしても、私たちの世代や、もっと年長の人たちが、かなり恵まれていたと思うのは、そうした恥ずかしい思い出が、たいていの場合、自分や関係者の記憶の中だけにとどまっているということです。
同窓会などで、そういう「黒歴史」が蒸し返されるのはよくある話ですが、しょせんはその場に集まった内輪での笑い話にすぎません。それにほとんどの記憶は、あえて口に出される機会もないまま、年を経るごとに薄れていき、やがては忘却の彼方へと消えていってくれます。
しかし、ネットの普及によって、過去の発言や行動が、細かなことまですべて記録として残るようになると、話は全然違ってきます。
今、ネット上で自分の醜態をさらされたり、炎上している人たちは、かなり恥ずかしい思いをしているはずですが、より重大な問題は、歳をとると、当人がそれをもっと恥ずかしく感じるようになるということなのです。そして、たとえそうなっても、ネット上に刻まれた記憶は、いつまでも消えてくれないのです。
誰もが、人間的に成長すればするほど、若い頃の失態をより恥ずかしく思い返すだろうし、世間的に偉くなったり有名になれば、ネットに残る過去の言動を、面白半分にほじくり返される機会が増えるでしょう。そして一般人も、程度の差こそあれ、その被害を免れることはできません。
今後しばらくのあいだ、ネット上ではそうやって、痛々しい暴露合戦が繰り返されることになるのだろうと思います。そして、みんながボロボロに傷つき、自分の過去のことで心をすり減らすのにうんざりしたところで、お互いに過去をつつき合うのはやめようという、一種の紳士協定が生まれてくるかもしれません。
他人に一方的に石を投げられるほど立派な人間など、どこにもいないのだし、延々と石をぶつけ合うよりも、何とかして、それをやめる方がずっといいわけですから……。
あるいは、紳士協定など成立せず、みんなでひたすら石を投げ合い、そのうち、心のサバイバルのために、みんなが「鈍感力」を身につけて、どんなに恥ずかしい過去を突きつけられても平気、ということになるかもしれません。もっとも、そんな世界では、繊細な感受性は失われ、みんなが人間的に退化することになりそうですが……。
それとも、過去の自分への攻撃に耐えられなくなったら、そのつど初めからやり直せるように、改名などの手続きが認められやすくなったり、あらかじめ攻撃を想定して、半分匿名の、使い捨て可能な「人格」が、ウェブ上で多用されるようになるかもしれません。
ほかにも、ネット利用者の自主性には任せておけないということで、当局による規制が行われたり、ネット上でサービスを提供する企業が、「安心・安全」なネットをめざして、サービスの自由度を制限していく可能性もあるでしょう。
たぶん、実際には、そうしたいろいろな可能性を足して割ったようなところで、事態は落ち着くことになるのでしょうが、個人的には、たとえば5年とか10年とか、ある程度以上昔のできごとは、もう「時効」ということで、みんなの心の平安のためにも、あえて互いに蒸し返さないことが、近い将来のマナーになってほしいと思います。
もっとも、そうしたマナーや紳士協定がいくら徹底され、他人がそっとしておいてくれたとしても、歳をとった自分が、過去の恥ずかしい記憶に悶絶するのは止められませんが……。
JUGEMテーマ:日記・一般
そんなときは、ただ黙ってそれをやり過ごせればいいのでしょうが、なかなかそうはいかず、記憶の細部にどんどん巻き込まれて、あのとき何であんなことをしたんだろうとか、どうしてあんなことを言ったんだろうと、頭のなかのモヤモヤをひたすら巨大化させて、思わず叫び出したくなることも少なくありません。
ただ、私の場合は、そうして夜中によみがえる恥ずかしい記憶の多くは、人生の重大事件というほどでもない、ささいな出来事がほとんどです。例えば、はずみで言ってしまった余計な一言とか、後で考えたら相手に失礼だった行為とか、あるいは逆に、タイミングを逸して何もしないまま、結果的に非礼になってしまったこととか……。
まあ、当時はささいな出来事だと思ったからこそ、たいして後悔もせず、スルーしてそのまま忘れていたわけですが、それから何年、何十年と経ち、その間、いろいろな経験をしてきた後で、そうしたエピソードをふと思い出したとき、あのときはどうして平気でいられたのだろうかと、昔の自分の鈍感さが信じられず、かといって今となっては取り返しもつかず、ただただ恥ずかしさを噛みしめることになるのです。
旅の失敗にしても同じで、当時は何も感じなかった旅先での何気ない行動が、のちに、その国の文化や慣習をいろいろ知ってから改めて思い出すと、けっこう冷や汗ものだったりします。
最近、そういう体験が増えたのは、つまりは、歳をとったということなのでしょう。昔読んだ本を、何年もしてから再読すると、若いときには分からなかった微妙な意味が分かったり、深い感動を覚えたりするものだとよく言われますが、それと同じ仕組みなのだと思います。
でも、そうやって過去の自分に恥ずかしさを覚えるのは、別の見方をすれば、今の自分が、若い頃とは違う視点や価値観で物事を見られるようになった、さらに手前勝手なことを言えば、自分が過去を反省できる程度には成長した、ということなのかもしれません。
まあ、今さらいくら悩んだりジタバタしてみても過去は変えられないので、自分はあのときよりはマシになったとでも考えて、強引に納得するしかないわけですが……。
それにしても、私たちの世代や、もっと年長の人たちが、かなり恵まれていたと思うのは、そうした恥ずかしい思い出が、たいていの場合、自分や関係者の記憶の中だけにとどまっているということです。
同窓会などで、そういう「黒歴史」が蒸し返されるのはよくある話ですが、しょせんはその場に集まった内輪での笑い話にすぎません。それにほとんどの記憶は、あえて口に出される機会もないまま、年を経るごとに薄れていき、やがては忘却の彼方へと消えていってくれます。
しかし、ネットの普及によって、過去の発言や行動が、細かなことまですべて記録として残るようになると、話は全然違ってきます。
今、ネット上で自分の醜態をさらされたり、炎上している人たちは、かなり恥ずかしい思いをしているはずですが、より重大な問題は、歳をとると、当人がそれをもっと恥ずかしく感じるようになるということなのです。そして、たとえそうなっても、ネット上に刻まれた記憶は、いつまでも消えてくれないのです。
誰もが、人間的に成長すればするほど、若い頃の失態をより恥ずかしく思い返すだろうし、世間的に偉くなったり有名になれば、ネットに残る過去の言動を、面白半分にほじくり返される機会が増えるでしょう。そして一般人も、程度の差こそあれ、その被害を免れることはできません。
今後しばらくのあいだ、ネット上ではそうやって、痛々しい暴露合戦が繰り返されることになるのだろうと思います。そして、みんながボロボロに傷つき、自分の過去のことで心をすり減らすのにうんざりしたところで、お互いに過去をつつき合うのはやめようという、一種の紳士協定が生まれてくるかもしれません。
他人に一方的に石を投げられるほど立派な人間など、どこにもいないのだし、延々と石をぶつけ合うよりも、何とかして、それをやめる方がずっといいわけですから……。
あるいは、紳士協定など成立せず、みんなでひたすら石を投げ合い、そのうち、心のサバイバルのために、みんなが「鈍感力」を身につけて、どんなに恥ずかしい過去を突きつけられても平気、ということになるかもしれません。もっとも、そんな世界では、繊細な感受性は失われ、みんなが人間的に退化することになりそうですが……。
それとも、過去の自分への攻撃に耐えられなくなったら、そのつど初めからやり直せるように、改名などの手続きが認められやすくなったり、あらかじめ攻撃を想定して、半分匿名の、使い捨て可能な「人格」が、ウェブ上で多用されるようになるかもしれません。
ほかにも、ネット利用者の自主性には任せておけないということで、当局による規制が行われたり、ネット上でサービスを提供する企業が、「安心・安全」なネットをめざして、サービスの自由度を制限していく可能性もあるでしょう。
たぶん、実際には、そうしたいろいろな可能性を足して割ったようなところで、事態は落ち着くことになるのでしょうが、個人的には、たとえば5年とか10年とか、ある程度以上昔のできごとは、もう「時効」ということで、みんなの心の平安のためにも、あえて互いに蒸し返さないことが、近い将来のマナーになってほしいと思います。
もっとも、そうしたマナーや紳士協定がいくら徹底され、他人がそっとしておいてくれたとしても、歳をとった自分が、過去の恥ずかしい記憶に悶絶するのは止められませんが……。
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