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2015.03.30 Monday
機械が垂らす「クモの糸」
前回の記事にも書きましたが、最近、自動運転車や、人間とコミュニケーションするロボットなど、テクノロジー進化の加速ぶりを示すような話題が、次から次へと飛び込んでくるようになりました。
また、インターネットの世界も日々豊かさを増していて、ニュースや娯楽コンテンツの充実はもちろん、コミュニケーションやショッピングもますます便利になり、いろんなことをオンラインで学べるようになりました。さらに、映像や文章で何かを表現したい人や、新しいビジネスを始めたい人のために、使いやすくて効果的なツールが数多く提供されています。
こうしたテクノロジー進化の背景には、高度な技術で機械化・自動化されたサービスをグローバルに展開し、膨大なユーザーに、無料または安価で提供するという、共通の方向性があります。
そうした商品やサービスは、利益を上げるビジネスとして、才能ある多くの人々を巻き込み、激しい競争を通じて磨かれることで、さらに多くの人々を魅惑し、私たちの日常生活に急速に浸透することによって、世界を大きく変えていくでしょう。
もっとも、機械化・自動化がとめどなく進んでいけば、いわゆる先進国の中間層を経済的に支えていた仕事がごっそりとなくなるかもしれず、それがいま、多くの人を不安にさせているのは事実です。
しかし一方で、テクノロジーとネットの進化は、グローバル企業がこれまでほとんど対象とみなしていなかった世界の底辺層の人々を、潜在的な顧客として、あるいは働き手として、グローバルなビジネスの世界に巻き込んでいくことになるでしょう。
それは、資本主義が世界の隅々まで浸透していくということであり、世界中の人間が限られた仕事を必死で奪い合う、熾烈な「大競争時代」の幕開けなのかもしれませんが、少なくとも底辺層の人々から見れば、それは、人生をよりよく変えていくチャンスを手に入れることでもあるのです。
これまで、豊かな人々の一部は、世界の悲惨や貧困に心を痛め、底辺の人々を助けようと、さまざまな慈善活動を続けてきたし、一定の成果もあげてきましたが、それは彼らが自発的に差し出せる余裕の範囲内に限られていて、決して十分なものではなかったと思います。
しかし、いま、次々に開発され、実用化されて、世界中を覆いつくそうとしている「機械の手」は、直接的には人間の労力や判断を介在しないからこそ、皮肉なことに、すべての貧しい人々に差し伸べられる可能性をもっているように思えます。それは、感情のない機械やプログラムであるからこそ、なまなましい差別や偏見、腐敗や不正とはとりあえず無縁で、しかも、具体的な成果を上げていくスピードもケタ違いです。
もちろん、機械化・自動化されているとはいえ、もともとそれらをデザインし、プログラムするのは人間なので、その仕組みの中に、何らかの偏った価値判断が組み込まれてしまう可能性はあります。しかし、そうした偏りは、世界中の人々からの指摘・批判を受けてすぐに修正されることが多いし、生身の人間の仕事のように、一度改善されたはずのものが、いつの間にかグダグダになってしまうこともありません。
たしかに、現時点では、「機械の手」に非人間的な印象を受ける人は多いと思います。それに、それらがつねに膨大な人間を相手にしている以上、個々のユーザーに対して、かゆいところに手が届くような、ていねいな対応もできません。それは、誠実で熟練した人間が心をこめて行うサービスには到底及ばないでしょう。
ただ、そうした誠実で理想的な働き手は、残念ながら、この地上ではそれほど多くありません。だからこそ、そうした人々が提供してくれるサービスは稀少・高価で、一部のリッチな人にしか届かないものでした。そう考えると、多少至らないところがあろうと、いくらでも量産がきく「機械の手」が世界にもたらしてくれるメリットは非常に大きいと思います。
こういう考えは、あるいは、あまりにも楽観的すぎるのかもしれません。機械やプログラムに覆いつくされた世界というのは、たいていのSF作品ではディストピアとして描かれるものだし、実際、機械化・自動化の方向性を間違えて、そうなってしまうリスクはつねにあります。
それに、機械がどれだけ進化しても、それが人間の心の領域にまで踏み込んで、例えば、傷ついた心を癒したり、さらには、この世界に生きることに伴うさまざまな苦しみから人間の「魂」を救うことまでは、さすがに難しいと思うし、万が一、それが可能になったとしても、それはそれで、大いに抵抗を感じる人は多いはずです。
それでも、現在のインターネットが多くの問題を抱えながら、一方で、そこに託されたよりよい世界への夢が人々に希望を与えているように、いま世界を覆いつつある「機械の手」も、自らの努力で人生を変えたいという前向きな意志を持つ人々にとっては、つねに自分のそばにあって、いつでもつかむことのできる、天上界からの「クモの糸」のような存在になり得るのではないでしょうか。
それは、糸をつかんだ先の結果までは保証してくれませんが、少なくとも、人生を前向きに進んでいくためのチャンスは与えてくれるでしょう。
……ただ、よく考えてみれば、そもそも、自分の意志で「クモの糸」をつかむような人なら、「機械の手」があろうがなかろうが、どこかで何かのきっかけをつかんで、それなりにうまくやっていけるのかもしれません。
そして、そういう強い意志をもった人間というのは、残念ながらそれほど多くはなく、それ以外の圧倒的多数の人間は、私自身も含めて、もっと成り行きまかせで、周りに合わせて受け身で生きているのが現実なのだと思います。
「クモの糸」がたくさんぶら下がっていて、これからさらに増えていくとしても、それが、「上」を目指す気概のある、ほんの少数の人間しか救い出せないのだとすれば、それは結局のところ、私たちみんなにバラ色の未来を保証してくれるものにはならない、ということなのかもしれません。
それでも、「機械の手」が世界を覆いつくし、富の生産の自動化が進めば、その富はやがて、一部の成功者が独占するにはあまりにも巨大なものになってしまうでしょう。そうなると、社会の機能不全を起こさないためにも、そのありあまる富をどのように分配するかが、新しい問題になっていくような気がします。
現在、ほとんどの人間にとって、富とは、金銭的な価値を生み出す仕事と引き換えに得られるものであって、そうした仕事につくことこそ、社会人であることの大前提となっていますが、今後、人間の仕事と富とのバランスが崩れる中で、そうした前提を維持しようとすれば、やがて、 減っていく仕事をみんなが奪い合うサバイバル社会になるか、あるいは、国や大きな組織が、服従や忠誠と引き換えに仕事を「配給」するような世界になってしまうかもしれません。
これから世の中がどういう方向に進んでいくのか、私には全く予想がつきませんが、個人的には、高度なテクノロジーがもたらす圧倒的な豊かさを、地球上のすべての人間が享受できるような社会、つまり、成功者がリッチな暮らしをするのは当然としても、それ以外の人々も、日常生活の維持に悩まされることなく、それぞれが身近でささやかな楽しみを見出しながら、のんびりまったりと生きることが許されるような社会になればいいな、と思います。
もちろん、そのためには、私たち自身の価値観が大きく変わらなければならないし、そんな夢のようなことが、かりに実現するとしても、それにはまだまだ長い時間がかかるのかもしれません。それに、機械が生み出す富がどれだけ巨大なものになろうと、それらが、人類のあらゆる種類の欲求を都合よく満たしてくれたり、すべての問題を自動的に解決してくれるわけでもないでしょう。
むしろ、「機械の手」がもたらす豊かさが、あらゆる人間から、衣食住の確保という日常的な悩みを取り去ってくれたとき、私たちは改めて、今ここに生きているという不思議に目覚め、それと同時に、それぞれが、この世界でどのように人生を全うすればよいかという、ある意味では、より人間らしい悩みに直面することになるのではないでしょうか。
もしかするとそれは、生活苦よりもずっと深い悩みをもたらすのかもしれませんが、未来の人間にとっては、それこそが、各人が果たすべき、大事な仕事になるのかもしれません……。
また、インターネットの世界も日々豊かさを増していて、ニュースや娯楽コンテンツの充実はもちろん、コミュニケーションやショッピングもますます便利になり、いろんなことをオンラインで学べるようになりました。さらに、映像や文章で何かを表現したい人や、新しいビジネスを始めたい人のために、使いやすくて効果的なツールが数多く提供されています。
こうしたテクノロジー進化の背景には、高度な技術で機械化・自動化されたサービスをグローバルに展開し、膨大なユーザーに、無料または安価で提供するという、共通の方向性があります。
そうした商品やサービスは、利益を上げるビジネスとして、才能ある多くの人々を巻き込み、激しい競争を通じて磨かれることで、さらに多くの人々を魅惑し、私たちの日常生活に急速に浸透することによって、世界を大きく変えていくでしょう。
もっとも、機械化・自動化がとめどなく進んでいけば、いわゆる先進国の中間層を経済的に支えていた仕事がごっそりとなくなるかもしれず、それがいま、多くの人を不安にさせているのは事実です。
しかし一方で、テクノロジーとネットの進化は、グローバル企業がこれまでほとんど対象とみなしていなかった世界の底辺層の人々を、潜在的な顧客として、あるいは働き手として、グローバルなビジネスの世界に巻き込んでいくことになるでしょう。
それは、資本主義が世界の隅々まで浸透していくということであり、世界中の人間が限られた仕事を必死で奪い合う、熾烈な「大競争時代」の幕開けなのかもしれませんが、少なくとも底辺層の人々から見れば、それは、人生をよりよく変えていくチャンスを手に入れることでもあるのです。
これまで、豊かな人々の一部は、世界の悲惨や貧困に心を痛め、底辺の人々を助けようと、さまざまな慈善活動を続けてきたし、一定の成果もあげてきましたが、それは彼らが自発的に差し出せる余裕の範囲内に限られていて、決して十分なものではなかったと思います。
しかし、いま、次々に開発され、実用化されて、世界中を覆いつくそうとしている「機械の手」は、直接的には人間の労力や判断を介在しないからこそ、皮肉なことに、すべての貧しい人々に差し伸べられる可能性をもっているように思えます。それは、感情のない機械やプログラムであるからこそ、なまなましい差別や偏見、腐敗や不正とはとりあえず無縁で、しかも、具体的な成果を上げていくスピードもケタ違いです。
もちろん、機械化・自動化されているとはいえ、もともとそれらをデザインし、プログラムするのは人間なので、その仕組みの中に、何らかの偏った価値判断が組み込まれてしまう可能性はあります。しかし、そうした偏りは、世界中の人々からの指摘・批判を受けてすぐに修正されることが多いし、生身の人間の仕事のように、一度改善されたはずのものが、いつの間にかグダグダになってしまうこともありません。
たしかに、現時点では、「機械の手」に非人間的な印象を受ける人は多いと思います。それに、それらがつねに膨大な人間を相手にしている以上、個々のユーザーに対して、かゆいところに手が届くような、ていねいな対応もできません。それは、誠実で熟練した人間が心をこめて行うサービスには到底及ばないでしょう。
ただ、そうした誠実で理想的な働き手は、残念ながら、この地上ではそれほど多くありません。だからこそ、そうした人々が提供してくれるサービスは稀少・高価で、一部のリッチな人にしか届かないものでした。そう考えると、多少至らないところがあろうと、いくらでも量産がきく「機械の手」が世界にもたらしてくれるメリットは非常に大きいと思います。
こういう考えは、あるいは、あまりにも楽観的すぎるのかもしれません。機械やプログラムに覆いつくされた世界というのは、たいていのSF作品ではディストピアとして描かれるものだし、実際、機械化・自動化の方向性を間違えて、そうなってしまうリスクはつねにあります。
それに、機械がどれだけ進化しても、それが人間の心の領域にまで踏み込んで、例えば、傷ついた心を癒したり、さらには、この世界に生きることに伴うさまざまな苦しみから人間の「魂」を救うことまでは、さすがに難しいと思うし、万が一、それが可能になったとしても、それはそれで、大いに抵抗を感じる人は多いはずです。
それでも、現在のインターネットが多くの問題を抱えながら、一方で、そこに託されたよりよい世界への夢が人々に希望を与えているように、いま世界を覆いつつある「機械の手」も、自らの努力で人生を変えたいという前向きな意志を持つ人々にとっては、つねに自分のそばにあって、いつでもつかむことのできる、天上界からの「クモの糸」のような存在になり得るのではないでしょうか。
それは、糸をつかんだ先の結果までは保証してくれませんが、少なくとも、人生を前向きに進んでいくためのチャンスは与えてくれるでしょう。
……ただ、よく考えてみれば、そもそも、自分の意志で「クモの糸」をつかむような人なら、「機械の手」があろうがなかろうが、どこかで何かのきっかけをつかんで、それなりにうまくやっていけるのかもしれません。
そして、そういう強い意志をもった人間というのは、残念ながらそれほど多くはなく、それ以外の圧倒的多数の人間は、私自身も含めて、もっと成り行きまかせで、周りに合わせて受け身で生きているのが現実なのだと思います。
「クモの糸」がたくさんぶら下がっていて、これからさらに増えていくとしても、それが、「上」を目指す気概のある、ほんの少数の人間しか救い出せないのだとすれば、それは結局のところ、私たちみんなにバラ色の未来を保証してくれるものにはならない、ということなのかもしれません。
それでも、「機械の手」が世界を覆いつくし、富の生産の自動化が進めば、その富はやがて、一部の成功者が独占するにはあまりにも巨大なものになってしまうでしょう。そうなると、社会の機能不全を起こさないためにも、そのありあまる富をどのように分配するかが、新しい問題になっていくような気がします。
現在、ほとんどの人間にとって、富とは、金銭的な価値を生み出す仕事と引き換えに得られるものであって、そうした仕事につくことこそ、社会人であることの大前提となっていますが、今後、人間の仕事と富とのバランスが崩れる中で、そうした前提を維持しようとすれば、やがて、 減っていく仕事をみんなが奪い合うサバイバル社会になるか、あるいは、国や大きな組織が、服従や忠誠と引き換えに仕事を「配給」するような世界になってしまうかもしれません。
これから世の中がどういう方向に進んでいくのか、私には全く予想がつきませんが、個人的には、高度なテクノロジーがもたらす圧倒的な豊かさを、地球上のすべての人間が享受できるような社会、つまり、成功者がリッチな暮らしをするのは当然としても、それ以外の人々も、日常生活の維持に悩まされることなく、それぞれが身近でささやかな楽しみを見出しながら、のんびりまったりと生きることが許されるような社会になればいいな、と思います。
もちろん、そのためには、私たち自身の価値観が大きく変わらなければならないし、そんな夢のようなことが、かりに実現するとしても、それにはまだまだ長い時間がかかるのかもしれません。それに、機械が生み出す富がどれだけ巨大なものになろうと、それらが、人類のあらゆる種類の欲求を都合よく満たしてくれたり、すべての問題を自動的に解決してくれるわけでもないでしょう。
むしろ、「機械の手」がもたらす豊かさが、あらゆる人間から、衣食住の確保という日常的な悩みを取り去ってくれたとき、私たちは改めて、今ここに生きているという不思議に目覚め、それと同時に、それぞれが、この世界でどのように人生を全うすればよいかという、ある意味では、より人間らしい悩みに直面することになるのではないでしょうか。
もしかするとそれは、生活苦よりもずっと深い悩みをもたらすのかもしれませんが、未来の人間にとっては、それこそが、各人が果たすべき、大事な仕事になるのかもしれません……。
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