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2015.10.28 Wednesday
可視化される心
もう何か月も前にネットで読んだ一つの記事が、ずっと心の片隅に引っかかっています。
人間の感情を、声や表情から正確に計測するテクノロジーが、驚くべき水準まで進化しつつある、という記事です。
感情計測テクノロジーが開く新ビジネスの可能性 ニューズウィーク日本版
記事では、そうした技術のビジネスへの応用として、広告の効果測定とか、カスタマーセンターの対応改善など、いくつかの可能性を挙げていましたが、私は感情計測技術の出現が、そんなレベルをはるかに超えて、社会全体に破壊的なインパクトをもたらすのではないかという気がします。
もちろん、今のところ、それらの技術は発展途上で、人間の感情を正確に把握できるわけではないし、それにそもそも、感情というものを、客観的なデータとして測定できるのかという問題もあります。
測定をするためには、その前提として、さまざまな文化や個人の違いに左右されず、誰にでも普遍的にあてはまるような、感情の測定基準が存在しなければならないはずですが、現時点でそのようなものが確立されているとは思えません。
それに、これまで古今の文学者が身を削るようにして表現してきた、人間の感情の奥深さや多様さ、あるいは、宗教が関わるような神秘的な領域については、そういう規格化された感情の基準には到底収まり切らないと感じる人が多いのではないでしょうか。
ただ、感情の測定に関わるエンジニアの人々がいま目指しているのは、もっと身近で世俗的な問題の解決であって、人間の心の働きの根本的なメカニズムを解明したいとか、多様な感情の世界をすべて探求しつくそうとまでは考えていないのかもしれません。
人間は、つねに繊細で崇高な感情を抱いているわけではなく、ふだんは生活上のこまごまとした欲求に振り回され、実に俗物的に生きています。
欲しいものが手に入れば単純に喜んだり安心したりするし、手に入らなければ怒ったり悲しんだりします。そして、大人になれば生活のパターンが固定化して、日常の安楽さにどっぷりと浸かり、いつも通りの行動を、ほとんど無意識に繰り返すだけになっていきます。私たちの多くは、たぶん、人生の9割かそれ以上を、そういう「自動運転モード」で生きているのではないでしょうか。
そうした日常レベルの欲求・感情・行動のパターンは、かなり分かりやすいし、どの人も似通っているので、その基本的なパターンを把握してしまえば、多くの人間の内面を、かなりのところまで読み取ったり、推測したりすることが可能になるでしょう。そして、実用的な技術としては、そこまでで十分なのかもしれません。
現時点でも、人々がSNSなどに書き込んだ情報や、ネット上に散らばるさまざまな個人情報をつなぎ合わせて解析することで、特定の人物の性格や行動パターンを、ある程度まで推測することが可能になっているようです。
自分より自分のことをFacebookが知るようになる未来 TechCrunch Japan
今後、感情測定の技術が確立し、目の前にいる人間が、特定のモノや人物やその言葉にどう反応しているか、顔の表情や声から正確に感情を読み取れるようになれば、それとネット上の個人情報をつき合わせることで、その人がどんな人物で、どんな欲求に動かされていて、いま何を感じているか、つまりはその人の「ホンネ」や「本心」に近いものが、かなりの確実性をもって推測できるようになるかもしれません。
そうした技術を、例えば、高度な人工知能で動く「執事ロボット」みたいなものに組み込めば、ユーザーの考えや気持ちをつねに読み取って、適切にサポートしてくれるロボットを生み出すことができるでしょう。
しかし、相手の内面をリアルタイムで正確に把握することは、その人間の「弱み」を握ることでもあります。その力を、ご主人様に忠実なロボットが使うだけならいいのですが、実際のところ、個人なり企業なりが、そうした力を自らの利益のために使いたいという誘惑に耐えるのは、とても難しいことなのではないでしょうか。
むしろ、そうした技術の完成度が高ければ高いほど、誰もがその力を手にしたいと考えるだろうし、そうなれば感情計測装置はまたたく間に世界中に広がり、その技術レベルもさらに高度になっていくと思います。
もしも、私たちのほとんどがそうした装置を身につけて他人と接するようになれば、互いの感情やホンネが相手に筒抜けになる、強制的なテレパシー状態が成立してしまいます。そしてそれは個人の関係だけでなく、同じことが集団や組織でも起こり、その場全体の「空気」や、その成分となる個々のメンバーの感情が、リアルタイムで可視化されることになるでしょう。
そうして現れるのは、ごまかしや取り繕いというものが入る余地のない、みんなの欲求や感情が透明化された世界です。
人によっては、それは恐ろしい世界としか思えないでしょう。そこでは、自分が相手からどう見られているのか、逆に、自分が相手をどう見ているか、本当のところが伝わってしまうのですから。
しかも、さらけ出される欲求や感情の多くは、互いの内面の深さや気高さを示したり、ドラマのように劇的であることはなく、むしろ、そのほとんどは脈絡もなくグダグダで、人間としての「小者っぷり」を如実に示すものばかりになってしまうのではないでしょうか。残念ながら、それは現在のネット世界のありさまを見ていれば、十分に想像できることです。
他人の心の中を見通す力によって、どんなに素晴らしいことが起きるかと期待して装置を身につける人は、街中でも、職場でも、家の中でも、朝から晩まで、会う人会う人が、いかにしょうもないことを考え、いかにみみっちいことで心をかき乱しているか、そして、自分もまたその一人に過ぎないことを、「客観的」なデータとして突きつけられて、心の底からげんなりしてしまうかもしれません。
ただ、人の心を読み取れる人というのは、実際には、昔から大勢いただろうし、そういう人には、昔も今も、世の中のそのような現実が、かなり正確に見えているのだろうと思います。
そもそも、相手の心を読む力自体、社会的な動物である人間の誰もが、生まれつき身につけているもので、人によって、それをどのくらい活用できるかという違いがあるだけです。
もっとも、そうした能力は、いつも無意識のうちに発揮されているので、どうやって相手の感情を読み取っているのか、自分でもうまく説明できない人がほとんどでしょう。だからこそ、それは気のせいだとか、誤解だとか言われれば、反論のしようもないだろうし、実際、相手の本当の感情がどうなのか、客観的に確認する方法などないので、ほとんどの人は、自分の「読み」が正しいのか、間違っているのか、確信を持てずにいるのではないでしょうか。
しかも、私たちが生きているこの社会では、利害関係でつながった多くの人間同士がストレスなく意思疎通するために、むしろ、自分の本当の感情を隠したり、相手の気持ちに気づかないふりをすることさえ必要になってきます。そういう状況では、他者の感情を読み取る力は有利になるどころか、むしろ、余計なストレスを抱え込むだけだったりします。
考えようによっては、そうやって社会が複雑になり、タテマエがはびこり、いろいろなことがややこしく、分かりにくくなったために、人間が互いに感情を読み取る力が衰え、それが少し行き過ぎた今、私たちは機械の力を借りて、心を読む能力を取り戻そうとしているのかもしれません。
もしも近い将来に、感情測定のテクノロジーが急速に普及することになれば、その是非はともかく、その技術が与えてくれる力によって、感情を可視化する能力は、誰にでも平等に分配されることになるでしょう。
そこでは、心を読む能力の個人差とか、互いのホンネを隠し合う大人の事情やら、しがらみやらが、いきなりすべて吹き飛んで、何もかもが透明化された社会が出現してしまうのではないでしょうか。
今、デジタルネイティブと呼ばれる、物心ついたときにはすでにインターネットが身近に存在していた若い世代の中には、自分の生活や内面を積極的にさらけ出そうとする人たちがいます。
ただ、彼らは、年長世代にくらべればずっと開けっぴろげではあっても、やはり、自分が他人に見せたい部分「だけ」を透明化しようとする傾向はあると思います。
しかし、感情測定技術や、それと結びつくさまざまなテクノロジーがもたらす未来の社会では、きっと、透明化はもっと強制的で、もっと広範囲のものになるでしょう。それは人間のホンネだけにとどまらず、個人や組織のあらゆる行為にまで波及するかもしれないし、その動きにいったんはずみがついてしまえば、もはや誰にも止められなくなってしまうのかもしれません。
そして、それに伴って、これまでの社会において、互いのホンネを隠すことで成り立ってきたさまざまな不自然な慣習や制度や組織も、すべて成り立たなくなってしまうのではないかと思います。
それは、世の中から「ウソ」をなくすという意味ではとてもいいことなのかもしれませんが、現状の社会の仕組みのかなりの部分が、そうした「ウソ」によってうまく支えられてきたのも事実で、それらの一切が崩れ、世の中が一変してしまうとしたら、少なくとも古い世代の人間にとっては、大変なストレスになるのではないでしょうか。
そう考えると、互いの本心が可視化された「真実」の世界を、私たちはそこまで分かった上で望むのでしょうか? それとも、望む望まないにかかわらず、なし崩しにそうなってしまうのでしょうか?
でもまあ、今はまだ、すべてが不確かな状況で、実現するかどうかも分からないテクノロジーを前提に、未来のことをあれこれ考えてみても仕方ないのかもしれません。
現代の私たちが、今さらインターネットのない世界には戻れないように、未来の世の中がどうなるにせよ、それはその時代を生きる当事者が、適応したり対応したりする以外にはないわけで、つまりは、なるようにしかならない、ということなのでしょう。
もっとも、透明化が極限まで進んだ社会では、わざわざ自分を立派に見せたり取り繕ったりする努力は無意味になるどころか、むしろ非常に滑稽になるわけで、その結果、みんなが開き直って、かえって自然体で気楽に生きられるようになるのかもしれません……。
JUGEMテーマ:日記・一般
人間の感情を、声や表情から正確に計測するテクノロジーが、驚くべき水準まで進化しつつある、という記事です。
感情計測テクノロジーが開く新ビジネスの可能性 ニューズウィーク日本版
記事では、そうした技術のビジネスへの応用として、広告の効果測定とか、カスタマーセンターの対応改善など、いくつかの可能性を挙げていましたが、私は感情計測技術の出現が、そんなレベルをはるかに超えて、社会全体に破壊的なインパクトをもたらすのではないかという気がします。
もちろん、今のところ、それらの技術は発展途上で、人間の感情を正確に把握できるわけではないし、それにそもそも、感情というものを、客観的なデータとして測定できるのかという問題もあります。
測定をするためには、その前提として、さまざまな文化や個人の違いに左右されず、誰にでも普遍的にあてはまるような、感情の測定基準が存在しなければならないはずですが、現時点でそのようなものが確立されているとは思えません。
それに、これまで古今の文学者が身を削るようにして表現してきた、人間の感情の奥深さや多様さ、あるいは、宗教が関わるような神秘的な領域については、そういう規格化された感情の基準には到底収まり切らないと感じる人が多いのではないでしょうか。
ただ、感情の測定に関わるエンジニアの人々がいま目指しているのは、もっと身近で世俗的な問題の解決であって、人間の心の働きの根本的なメカニズムを解明したいとか、多様な感情の世界をすべて探求しつくそうとまでは考えていないのかもしれません。
人間は、つねに繊細で崇高な感情を抱いているわけではなく、ふだんは生活上のこまごまとした欲求に振り回され、実に俗物的に生きています。
欲しいものが手に入れば単純に喜んだり安心したりするし、手に入らなければ怒ったり悲しんだりします。そして、大人になれば生活のパターンが固定化して、日常の安楽さにどっぷりと浸かり、いつも通りの行動を、ほとんど無意識に繰り返すだけになっていきます。私たちの多くは、たぶん、人生の9割かそれ以上を、そういう「自動運転モード」で生きているのではないでしょうか。
そうした日常レベルの欲求・感情・行動のパターンは、かなり分かりやすいし、どの人も似通っているので、その基本的なパターンを把握してしまえば、多くの人間の内面を、かなりのところまで読み取ったり、推測したりすることが可能になるでしょう。そして、実用的な技術としては、そこまでで十分なのかもしれません。
現時点でも、人々がSNSなどに書き込んだ情報や、ネット上に散らばるさまざまな個人情報をつなぎ合わせて解析することで、特定の人物の性格や行動パターンを、ある程度まで推測することが可能になっているようです。
自分より自分のことをFacebookが知るようになる未来 TechCrunch Japan
今後、感情測定の技術が確立し、目の前にいる人間が、特定のモノや人物やその言葉にどう反応しているか、顔の表情や声から正確に感情を読み取れるようになれば、それとネット上の個人情報をつき合わせることで、その人がどんな人物で、どんな欲求に動かされていて、いま何を感じているか、つまりはその人の「ホンネ」や「本心」に近いものが、かなりの確実性をもって推測できるようになるかもしれません。
そうした技術を、例えば、高度な人工知能で動く「執事ロボット」みたいなものに組み込めば、ユーザーの考えや気持ちをつねに読み取って、適切にサポートしてくれるロボットを生み出すことができるでしょう。
しかし、相手の内面をリアルタイムで正確に把握することは、その人間の「弱み」を握ることでもあります。その力を、ご主人様に忠実なロボットが使うだけならいいのですが、実際のところ、個人なり企業なりが、そうした力を自らの利益のために使いたいという誘惑に耐えるのは、とても難しいことなのではないでしょうか。
むしろ、そうした技術の完成度が高ければ高いほど、誰もがその力を手にしたいと考えるだろうし、そうなれば感情計測装置はまたたく間に世界中に広がり、その技術レベルもさらに高度になっていくと思います。
もしも、私たちのほとんどがそうした装置を身につけて他人と接するようになれば、互いの感情やホンネが相手に筒抜けになる、強制的なテレパシー状態が成立してしまいます。そしてそれは個人の関係だけでなく、同じことが集団や組織でも起こり、その場全体の「空気」や、その成分となる個々のメンバーの感情が、リアルタイムで可視化されることになるでしょう。
そうして現れるのは、ごまかしや取り繕いというものが入る余地のない、みんなの欲求や感情が透明化された世界です。
人によっては、それは恐ろしい世界としか思えないでしょう。そこでは、自分が相手からどう見られているのか、逆に、自分が相手をどう見ているか、本当のところが伝わってしまうのですから。
しかも、さらけ出される欲求や感情の多くは、互いの内面の深さや気高さを示したり、ドラマのように劇的であることはなく、むしろ、そのほとんどは脈絡もなくグダグダで、人間としての「小者っぷり」を如実に示すものばかりになってしまうのではないでしょうか。残念ながら、それは現在のネット世界のありさまを見ていれば、十分に想像できることです。
他人の心の中を見通す力によって、どんなに素晴らしいことが起きるかと期待して装置を身につける人は、街中でも、職場でも、家の中でも、朝から晩まで、会う人会う人が、いかにしょうもないことを考え、いかにみみっちいことで心をかき乱しているか、そして、自分もまたその一人に過ぎないことを、「客観的」なデータとして突きつけられて、心の底からげんなりしてしまうかもしれません。
ただ、人の心を読み取れる人というのは、実際には、昔から大勢いただろうし、そういう人には、昔も今も、世の中のそのような現実が、かなり正確に見えているのだろうと思います。
そもそも、相手の心を読む力自体、社会的な動物である人間の誰もが、生まれつき身につけているもので、人によって、それをどのくらい活用できるかという違いがあるだけです。
もっとも、そうした能力は、いつも無意識のうちに発揮されているので、どうやって相手の感情を読み取っているのか、自分でもうまく説明できない人がほとんどでしょう。だからこそ、それは気のせいだとか、誤解だとか言われれば、反論のしようもないだろうし、実際、相手の本当の感情がどうなのか、客観的に確認する方法などないので、ほとんどの人は、自分の「読み」が正しいのか、間違っているのか、確信を持てずにいるのではないでしょうか。
しかも、私たちが生きているこの社会では、利害関係でつながった多くの人間同士がストレスなく意思疎通するために、むしろ、自分の本当の感情を隠したり、相手の気持ちに気づかないふりをすることさえ必要になってきます。そういう状況では、他者の感情を読み取る力は有利になるどころか、むしろ、余計なストレスを抱え込むだけだったりします。
考えようによっては、そうやって社会が複雑になり、タテマエがはびこり、いろいろなことがややこしく、分かりにくくなったために、人間が互いに感情を読み取る力が衰え、それが少し行き過ぎた今、私たちは機械の力を借りて、心を読む能力を取り戻そうとしているのかもしれません。
もしも近い将来に、感情測定のテクノロジーが急速に普及することになれば、その是非はともかく、その技術が与えてくれる力によって、感情を可視化する能力は、誰にでも平等に分配されることになるでしょう。
そこでは、心を読む能力の個人差とか、互いのホンネを隠し合う大人の事情やら、しがらみやらが、いきなりすべて吹き飛んで、何もかもが透明化された社会が出現してしまうのではないでしょうか。
今、デジタルネイティブと呼ばれる、物心ついたときにはすでにインターネットが身近に存在していた若い世代の中には、自分の生活や内面を積極的にさらけ出そうとする人たちがいます。
ただ、彼らは、年長世代にくらべればずっと開けっぴろげではあっても、やはり、自分が他人に見せたい部分「だけ」を透明化しようとする傾向はあると思います。
しかし、感情測定技術や、それと結びつくさまざまなテクノロジーがもたらす未来の社会では、きっと、透明化はもっと強制的で、もっと広範囲のものになるでしょう。それは人間のホンネだけにとどまらず、個人や組織のあらゆる行為にまで波及するかもしれないし、その動きにいったんはずみがついてしまえば、もはや誰にも止められなくなってしまうのかもしれません。
そして、それに伴って、これまでの社会において、互いのホンネを隠すことで成り立ってきたさまざまな不自然な慣習や制度や組織も、すべて成り立たなくなってしまうのではないかと思います。
それは、世の中から「ウソ」をなくすという意味ではとてもいいことなのかもしれませんが、現状の社会の仕組みのかなりの部分が、そうした「ウソ」によってうまく支えられてきたのも事実で、それらの一切が崩れ、世の中が一変してしまうとしたら、少なくとも古い世代の人間にとっては、大変なストレスになるのではないでしょうか。
そう考えると、互いの本心が可視化された「真実」の世界を、私たちはそこまで分かった上で望むのでしょうか? それとも、望む望まないにかかわらず、なし崩しにそうなってしまうのでしょうか?
でもまあ、今はまだ、すべてが不確かな状況で、実現するかどうかも分からないテクノロジーを前提に、未来のことをあれこれ考えてみても仕方ないのかもしれません。
現代の私たちが、今さらインターネットのない世界には戻れないように、未来の世の中がどうなるにせよ、それはその時代を生きる当事者が、適応したり対応したりする以外にはないわけで、つまりは、なるようにしかならない、ということなのでしょう。
もっとも、透明化が極限まで進んだ社会では、わざわざ自分を立派に見せたり取り繕ったりする努力は無意味になるどころか、むしろ非常に滑稽になるわけで、その結果、みんなが開き直って、かえって自然体で気楽に生きられるようになるのかもしれません……。
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