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「機械の目」で見る社会

先日、ネットで面白い記事を目にしました。

 

Googleストリートビューと機械学習の組み合わせが「選挙でどの政党が勝つか」を予測する  WIRED

 

Googleストリートビューに映し出された街の風景や、衛星写真の画像、あるいはTwitterのつぶやきなどの大量のデータを解析し、対象となる地域に暮らす人々の社会的・経済的な状況を推測する試みが進んでいるという内容です。

 

そういえば、以前にこんなニュースもありました。

 

世界初、ビッグデータと衛星画像でGDP推計 ニューズウィーク日本版

 

衛星写真に映し出された夜の明るさから、各国の経済活動のレベルを推測するというものです。

 

これらに共通するのは、すでに存在している膨大なデータに着目し、それらを機械で解析することによって、そこに人間でも理解可能な、意味のあるパターンを見出そうとしていることです。

 

はるか昔、人間の社会が数十人、数百人単位で成り立っていたころはともかく、社会がもっと巨大で複雑になると、それを誰か一人の人間が直接自分の目で見て把握することは不可能になり、社会のリーダー層は、人々の暮らし向きはどうか、何か問題は起こっていないか、自分自身の限られた知識や経験から想像したり、専門家の報告に頼ったりするしかなくなりました。

 

そうした状況では、リーダー層が現実を見誤ったり、あえて目を背けたりしたために、悲惨な結果を招いたことも多かったでしょう。しかし、私たち人類は、苦い失敗を繰り返す中で、社会の全体像をできるだけ正確に把握するためのさまざまな統計的手法を編み出し、数多くの人々が膨大な手間と時間を費やして、情報を一つ一つ積み上げる努力を続けてきました。

 

ただ、そのためにかけられるコストには限度があるし、豊かな社会でなければ十分な統計を整備することもできません。また、人間の行う作業である以上、そこには誤りや不正の余地もあります。それに、最近ではプライバシーの問題もあって、人々が統計調査に協力的ではなくなりつつあるようです。

 

今、世界中で進んでいるテクノロジーの進化は、そうした手作業の集積のような統計とは別に、すでにネット上などに存在したり、安価に手に入れることのできる膨大なデータを流用し、機械の手で解析することで、私たちの社会の実情について、これまでとは別の視点からの、かなり正確な姿を描き出すことを可能にしつつあります。そして、そうした解析のプロセスは、いったん確立してしまえば、後はほとんど人手を介さないので、時間も費用も劇的に削減できるし、不正の余地もありません。

 

もちろん、それによって伝統的な統計手法がすぐに廃れてしまうようなことはなく、むしろ、従来の統計と新しい「機械の目」は、互いの長所を生かし、補い合うような形になっていくのだろうと思います。

 

「機械の目」は、今後しばらくの間は、開発した企業や個人の利益追求のために使われることになるのでしょうが、やがてそれらの技術が普及して当たり前の存在になれば、誰もがその恩恵を受けられるようになり、私たちは、自分たちの社会の現状を、ほぼリアルタイムで、詳しく正確に知ることができるようになるでしょう。

 

というか、将来的にはたぶん、私たちがいま想像しているレベルをはるかに超えて、社会全体や各個人の実態が、それこそ丸裸になるくらいまで可視化されていくのではないかという気がします。

記事 可視化される心

 

それは、たしかに恐ろしい状況かもしれないし、実際、大勢の人がディストピアの到来を懸念しています。ただ、「機械の目」がもたらす情報の大部分は、昔みたいに、ごく一部のリーダー層が独占する形にはならないと思うし、むしろ逆に、国によっては、人々に偽りの統計を見せてごまかすようなことが難しくなり、社会のありのままの姿をみんなが認識できるようになる可能性も高いのではないでしょうか。

 

非常に楽観的な見方をするなら、古代の王様が高い山に登って人々の暮らしぶりを一望したように、将来は、人間的な利害関係から自由な機械の公正な目が、人間に代わって「国見」をしてくれる時代がやってくるのかもしれません。

 

ただ、問題があるとすれば、そうやって得られた膨大な情報を、専門家だけではなく、私たちのような普通の人間が理解できるような形にどうやってまとめるのか、ということです。

 

統計というのは、もともと人間の感覚では直接とらえることのできない巨大なものや、複雑なものを、なんとか人間の頭で理解できる形で示そうとするものですが、それでも、私たちの日常のレベルを超えた物事というのは、なかなかうまく頭に入ってきません。人間社会の多様で複雑なあり方を、どれだけ正確に示すことができたとしても、それがほとんどの人に理解されなければ、結局、それは宝の持ち腐れになってしまいます。

 

それに、社会の実情がどれだけ分かりやすくまとめられたとしても、あえてそれを知りたいと思う人間が、果たしてどれくらいいるのだろうか、という問題もあります。

 

そもそも、正確な統計データ自体は現在でも存在するわけですが、そうした資料を調べ、それなりの手間暇をかけて社会の現状を知ろうとする人は、決して多いとはいえないでしょう。また、ジャーナリストや研究者のように、自分の足で海外や国内を回り、さまざまな人々の声に耳を傾けることによって、普通の人よりも、世の中の全体像がずっと正確に見えている人もいるはずですが、社会全体から見れば、彼らは圧倒的な少数派です。

 

私たちのほとんどは、ふだんは身の周りのごく狭い世界しか見ていないものだし、付き合う人たちの価値観もだいたい似通っていて、その外側に存在する、広大で多様な世界のことは漠然としか想像できないし、それらをあえて知ることに、何か意味があるとはなかなか思えないものです。

 

というか、今、世界の国々で起きている出来事などを見ていると、かなり多くの人々は、人間社会の本当の姿を知ることなど望んではおらず、むしろ、世界はこうあってほしいという幻想を、ずっと見続けていたいだけなのではないか、という気もしてきます。

 

私自身も、偉そうなことを言える立場ではなく、これまでさまざまな幻想に振り回されてきたし、今もなお、何かとんでもない思い込みでゆがんだ目でこの世界を見ていながら、自分では、そのことに全く気づいていなかったりするのかもしれません。

 

そう考えると、「機械の目」が人間社会をどれだけ正確に描き出せるようになったとしても、それを受け止める側の私たち自身が日常的な意識の壁を乗り越えて、この世界をより大きな視野で眺めようという気にならなければ、そして、現実に触れることによって自分の思い込みが打ち砕かれ、これまで築き上げてきた世界観が揺らぐことまで受け入れるのでなければ、結局、それらの情報は、これまでと同様、あまり生かされないままで終わってしまうのかもしれません……。

 

 

記事 「見えすぎる」世界

記事 「見えにくい」世界

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

at 19:05, 浪人, つれづれの記

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