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日本人のフリ

何度か長い旅をしたせいか、日本に帰って普通に暮らしていても、たまにふと、自分が外国人旅行者みたいな感覚で日本の生活を見ているのに気づくことがあります。

 

そして、そんなときは、以前ならそのままスルーしていたようなことが、とても不思議に思えたり、強い違和感を覚えたりします。

 

例えば、「テレビでよく見る謝罪会見では、どうしていつも3人のオッサンが並んで頭を下げるんだろう?」とか、「街を走っているクルマは、何でみんなピカピカの新車ばかりに見えるんだろう?」とか、「どうして日本のお坊さんは結婚して子供がいたりするんだろう?」とか、「みんなサービス残業をしたくないはずなのに、どうしてやめられないんだろう?」などなど……。

 

旅に出る前は、学校生活にしても、就職活動や会社での仕事にしても、人間関係のあり方や日々の過ごし方にしても、その中にどっぷり浸かって生きていたので、何もかもが当たり前すぎて、それが他の文化圏とはどう違っているのか、あるいは外国人からはどう見えているかなんて、ほとんど考えたことがありませんでした。

 

しかし、旅を通じて異文化をそれなりに体験した今は、日本独特の慣習や制度が日々の暮らしを作り上げていることをしみじみと実感するようになりました。そして、日常生活でちょっとした違和感を覚えるたびに、他の国の、日本とは異なる慣習や制度のことがつい頭をよぎってしまうのです。

 

似たようなことは、海外の留学先や赴任先から戻ってきた人も多かれ少なかれ感じているようで、「逆カルチャーショック」で検索すれば、具体的な体験談をいくらでも読むことができます。
ウィキペディア 「異文化コミュニケーション」
記事 旅の名言「放浪の旅で待ち受けている……」

 

ただ、多くの場合、帰国した直後はいろいろな驚きを感じたり、笑える失敗を重ねたりするものの、日本の生活に再びなじんでいくにつれて、違和感は徐々に消えていくようです。

 

だからたぶん、帰国してからずっと違和感の消えない私の場合は、かなりの重症なのだと思いますが、そうした違和感が生じる原因の多くが自分にありそうだという自覚はあるので、日々の生活で変だと思うことはあっても、それに対していちいち「変だ!」と声を上げることはありません。

 

それに、声を上げることに意味があるとも思えません。ここは日本で、絶対的な多数派である日本人がそれを当たり前だと思っている分には何の問題もないわけだし、それをあえて変えさせようとするなら余計なお世話です。実際、つまらない摩擦を起こしてお互いに消耗するだけでしょう。

 

結局、なんか変だなあ、不思議だなあと思いながらも、今まで通りに、黙って日本独自の風習に従い続けることになります。そして、そうしている自分が、まるで日本人のフリをした外国人で、その正体がバレないように、必死で日本人のモノマネをしているような気がしてくることがあります。

 

そういえば、海外の旅行先でも、余計なトラブルを避けるために、つねに周りを見て、郷に従い、現地の「普通」に合わせようと心がけていました。それにそもそも、身近な人々を観察してその言動に合わせるのは、人間なら誰もが子供のころからずっと無意識のうちにやっていることです。

 

でも、よく考えてみれば、どうして自分は、変だと思いながら日本人のフリをし続けているのでしょう? 

 

それは、これまでずっと続けてきた無意識の行動がやめられないだけ、という面もあるわけですが、だからといって、これからもずっとそれを続けなければならない理由にはなりません。かりに日本人のフリをするのをやめたら、あるいは日本人のマネをしていることが他の日本人にバレたとしたら、それで何か不都合でもあるのでしょうか?

 

そのことについて、あれこれ考えていくうちに、私の心の奥底に、同じ日本人から仲間外れにされることへの恐怖心があるのかもしれない、と思い至りました。そして、日々のマスメディアの報道や、身近な人々とのやりとりから感じる、強い同調圧力のようなものが、その恐怖感の原因になっている気がします。

 

もし、日本の社会にそのような同調圧力が存在するのだとしたら、それは、日本人の中に、お互いのモノの考え方や行動をシンクロさせなければならない強烈な理由があるからでしょう。その理由が何なのかは私もよく分かりませんが、とにかく同調を乱すということは、私たち日本人が無意識のうちに守ろうとしている、はっきりと言葉では説明できないが、何かとても大事なものを壊すということであり、当然、その「罪」に対して厳しい制裁を受けるのではないかと恐れているのだと思います。

 

しかし、そうした圧力をヒシヒシと感じながら、それに黙って従うフリをすればするほど、逆に、自分が「よそ者」であるという意識が強まっていくような気がします。そしてそれは当然、仲間外れになるのではないかという不安な気持ちをますますかきたてるのです。

 

だからといって、昔のように、何も考えず、日本人としてその風習にどっぷりと浸かった状態に戻ることもできないわけで、結局、うまい解決の方法もなく、自分がどこにも属していないような、宙ぶらりんで不安な状態におかれたままになってしまうのです。

 

そして、話をさらにややこしくするのは、かりに今後も日本人のフリをし続けるのだとして、そのモデルとなる日本人とは、いったい誰なのか、という問題です。

 

典型的な日本人のマネをしようと決意したとしても、日本人特有のモノの考え方とか行動パターンを理想的に体現した、究極の日本人なる者はどこにも存在しません。世界中で流布しているジョークの中には、ステレオタイプな日本人がよく登場しますが、それはあくまで、日本のことをよく知らない外国人が勝手に思い込んでいるイメージに過ぎないし、かといって、私たち自身が思い浮かべる日本人のイメージにしたところで、漠然としているだけでなく、誰がそれをイメージするかによって中身はバラバラです。日本のどの地域に住んでいるか、世代はどうか、あるいはどんな仕事についているかや社会的な地位によって、日本人という言葉からイメージするものはかなり異なるのではないでしょうか。

 

だとすれば、今、私がやっている日本人のフリにしたって、それはあくまで私がイメージした日本人の姿を、大雑把に演じているにすぎないということになります。だから、どれだけ自分がそれをうまく演じてみせたところで、他の日本人から見れば必ず何らかの違和感を覚えるはずです。

 

どうせいいかげんなモノマネしかできないのなら、そして、どう演じたとしても必ず誰かに違和感を与えることになるのなら、もういっそのこと、「日本人とは何か」みたいな、終わりのない問題と格闘するのはあきらめて、自分がいいと思ったモノの見方なり、行動パターンなり、ライフスタイルなりを自由に選び取り、日本人としてではなく、ただのひとりの人間として生きていくしかないのかもしれません。

 

もちろん、それはそれで大変なことです。きっといろいろな摩擦を引き起こすだろうし、とりあえず周囲に同調することで得られる安心感みたいなものもありません。

 

でも、「日本人」という幻を追いかけて途方に暮れたり、無理に「日本人らしきもの」を演じて消耗することになるなら、自分は自分だと開き直ってしまった方が、結局は楽なのかもしれないという気がします。

 

もっとも、思いっきり開き直って我が道を行き、日本人のイメージを心から振り払ったつもりになったところで、それを外国人から見れば、やっぱりごく普通の日本人にしか見えない、というオチになりそうですが……。

 


記事 インド病


 

JUGEMテーマ:日記・一般

at 18:56, 浪人, つれづれの記

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