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日常が旅に変わるとき

悲しいことに、昔も今も、テロや紛争のニュースが世界で絶えることはないし、そこに日本人が巻き込まれることもゼロではありません。

 

ただ、そうした悲惨な事件に注目するだけでなく、世界全体で起きていることを統計データなどを通して見てみると、海外への旅は少しずつ安全で快適なものになっているようです。
記事 危険なイメージと実際の危険

 

もちろん、荷物の紛失や盗難、交通機関の遅延、手続きミスなど、大小さまざまなトラブルに巻き込まれ、旅で不愉快な思いをすることはまだまだあります。

 

それでも、多くの日本人にとって、海外旅行はもはや特別な体験ではなくなったし、最近では、まるで日常生活の延長のような、ごく気楽な気持ちで出国する人も増えつつあるのではないでしょうか。

 

しかし、本人がどう感じているかはともかく、実際の旅が、やはり非日常の出来事であることに変わりはありません。

 

まず何よりも、自分がいる場所が、ふだんとは全く違います。気候や街並みや、社会ルールなどの環境も違います。まわりは見知らぬ人間ばかりで人間関係が違うし、現地では時間の流れ方が違うし、当然、頭の中を流れる思考もいつもとは全く違ってきます。

 

それは、たとえ表面的には、ありがちな観光名所を訪ね、ありがちな名物料理を食べ、ありがちなおみやげを物色するような、ごく平凡な旅だったとしても、そこで起きていることは、やはり日常とは全く異なる出来事なのです。

 

だからそれは、記憶にほとんど残らないような、どれだけ印象の薄い旅であっても、確実に何らかのインパクトを本人の心身に及ぼしているはずです。

 

ただ、そのインパクトが本人の記憶にすら残らないなら、わざわざカネや時間をかけたり、しんどい思いをしてまで旅に出る意味がないではないか、と思う人もいるはずで、それはたしかにその通りだと思います。

 

結局のところ、非日常的な体験が本人にはっきりと自覚でき、かつ、それがポジティブな経験だった場合にだけ、旅人はそれを面白いと感じ、またいつか旅に出ようと思うのでしょう。

 

それはともかく、どんな旅も非日常である、という点を突き詰めていくと、逆に、非日常感のある体験ができさえすれば、それは旅と同じようなインパクトを本人にもたらすし、その作用をうまく活用すれば、わざわざ遠くに行ったり、カネをかけてめずらしいものを見たりしなくても、まるでいい旅をしたかのような精神的な満足感を味わえるということになります。

 

それに、そうした非日常体験への入り口は、平凡な日常の中にもけっこう潜んでいるのではないでしょうか。少なくとも理屈の上では、日常生活の範囲からはみ出した物事は、すべて非日常ということになるはずなので。

 

とはいえ、いくら非日常であっても、すでに何度か経験しておなじみのこととか、まだ経験していなくても、頭の中の知識だけで簡単に想像がつきそうなことは、あまり劇的な体験はもたらさないだろうし、あるいは、全く興味のない分野のことは、何が起きてもどうでもいいだろうから、本人がそれを経験する意味もないでしょう。

 

だとすると、本人にそれなりのインパクトをもたらす非日常体験というのは、かなり限られた興味の範囲内の、しかも意外性のある出来事に絞られてしまうということになります。

 

まあ、それは当然といえば当然の話で、平凡な日常の中で、自分を揺るがすような体験をするのがそう簡単ではないからこそ、人はエンターテインメントで退屈をしのごうとしたり、ここではないどこか遠くに行けば、何かが見つかると信じて旅に出たりするのかもしれません。

 

それでも、あえて日常の範囲内で、自分にそれなりのインパクトを与えるようなことを体験したいのなら、これまでの人生で自分が築き上げてきた価値観からかけ離れたり、正反対になるようなことを、わざとやってみるという手があります。

 

例えば、今までに買って後悔し、もう絶対に着ないつもりだったのに、何となく捨てられずにいた服だけをあえて着て外出してみるとか、雰囲気が自分の趣味に全く合わず、いままで一度も入ったことのない近所の飲食店に足を踏み入れてみるとか……。

 

どれも、たいしたことのない行為なのですが、いざやってみようとすれば、心の中の抵抗を乗り越えるために相当のエネルギーが必要になるのではないでしょうか。こんなことを書いておいて何ですが、私自身もあえてやってみようとは思いません。

 

ただ、心の中の抵抗が大きければ大きいほど、もしもそれを実現すれば、ものすごい非日常感を感じるのは間違いないと思います。

 

もちろん、非日常感を味わいたいからといって、自分や他人に害を及ぼすようなことはやるべきではないし、楽しくないと分かり切っていることを、無理やり実行するのも気が進まないでしょうが、一方で、私たちがふだんの生活において、安全運転を心がけるあまり、必要以上に選択肢を限定したり、視野を狭めてしまっているのも否定できないのではないでしょうか。

 

そういう生活をずっと続けることでいつの間にか失われてしまった、子供のように柔軟な感受性を少しだけ取り戻し、日常に活気を取り戻すためにも、慣れ切ったぬるま湯の生活にあえて揺さぶりをかけてみる価値はあると思います。

 

そのためには、自分自身にはめてしまった思考と行動の枠を、一時的にでも取り外してみる必要があります。

 

ふだんなら、「バカバカしい」の一言で却下するようなアイデアが頭に浮かんでも、そのアイデアがふくらんでいくのをあえて自分に許し、そういうことを何度かやってみるうちに、心がちょっとワクワクするもの、何か新鮮で楽しいことが起きそうな期待で心が浮き立つものが見つかったら、たまにはそれを実行してみるのはどうでしょうか。

 

例えば、先ほどの例よりも、もう少し現実的な思いつきを挙げるなら、もしも自分が、会社からいつもまっすぐ家に帰るタイプの人間なら、仕事の帰りに、今まで一度も降りたことのない駅で下車して、地図を見ずに、何か面白そうなものがないか、周辺をしばらくウロウロ歩いてみるというのはどうでしょう。

 

あるいは、休日の食料や日用品の買い出しで、常に時間に追われ、脇目もふらずにいつもの品を一通り買い込んで終わり、みたいな感じになっているなら、たまには一時間くらいの余分な時間を何とか捻出して、行きつけのスーパーの中をぶらぶらと歩いて、いつもなら足早に通り過ぎるコーナーの商品をゆっくり眺めてみたり、生まれて一度も食べたことのないものを買ってみる、というのもいいかもしれません。

 

それに、自分でいろいろと頑張ってみるまでもなく、ふだんなら自分の趣味に合わず、適当な理由をつけて断ってしまうような、友人・知人からの誘いに、何回かに一回くらいはそのまま乗っかってみる、という手もあると思います。

 

そうした行為は、日常的な自分の行動パターンには反しているので、行動に移すのに多少の躊躇はあるだろうし、その割には、非日常体験としてのインパクトはそれほど大きくないかもしれませんが、カネも時間もそれほど費やすわけではないし、本人がその気にさえなれば、事前の準備なしに、すぐ実行できるのではないでしょうか。

 

こうした、いつもとはちょっと違う行動は、摩擦なく、効率よく回っている日常生活を少し乱すことになるだろうし、何だか自分がバカになったように感じることすらあるでしょう。しかし、そういう違和感こそ、それらが日常を揺さぶり、刺激と変化をもたらしている証拠だと解釈できるかもしれません。

 

もしかすると、高いカネを払ってゴージャスな旅行に出かけるよりも、近所の変な店に生まれて初めて入ってみることのほうが、ずっと勇気のいる「冒険」だったりするし、実際にそういうささやかな挑戦をしてみると、自分の日常生活を作り上げているものの多くが、単なる惰性と、根拠のない思い込みに過ぎなかったりすることに気づくこともあるのではないでしょうか。そして、ときには、自分が思いもしなかったような新しい可能性が、そこから開けていくこともあるかもしれません。

 

そうやって、自分にとっての非日常、つまり、自分にとっての未知の世界が、日常生活のどのあたりに潜んでいるかをつねに頭の片隅で意識しつつ、そういう非日常を無理なく体験し、それを楽しむ工夫ができるようになれば、その人はたとえ遠くに出かけたりしなくても、旅を楽しんでいると言えるのかもしれません。

 

 

記事 日常の非日常化と非日常の日常化

 

 

JUGEMテーマ:旅行

at 20:01, 浪人, 地上の旅〜旅全般

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