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仮想積ん読

◆ もう、個人で本を囲い込む必要はなくなった

 

ずっと昔から、一部の読書家のあいだには、読みたい本を次から次へと買ってきては家にため込んでしまう、「積ん読」という悪しき(?)習慣がありました。
ウィキペディア 「積読」

 

これは、電子書籍がそれなりに普及した現在でも、まだしぶとく残っているどころか、むしろその概念は、「Tsundoku」として、SNSなどを通じて世界中に広まりつつあるようです。

 

私もかつては、読む時間もないのにせっせと本を買い込んでいたことがありましたが、あるとき、積ん読とほぼ同じことが、本を買わずにタダでできると気づいてからは、物理的に本をため込むことはほとんどなくなりました。

 

といっても、それは、裏ワザ的なテクニックでも何でもなくて、「あっ、この本読みたい!」と思った瞬間にそのまま本を買ってしまうのではなく、メモ用のアプリなどにその本のタイトルを書き込み、「読みたい本リスト」にして、しばらく様子を見る、というだけの話です。

 

昔なら、そういうリストを作ることは、あくまでも本探しのスタートラインにすぎず、むしろ、実際に書店や古書店に足しげく通っては、必要な本を見つけて購入し、とりあえず手元に確保するというプロセスの方が、ずっと骨の折れる作業でした。

 

そうやって本を買い求めていくとき、何がなんでも手に入れたい、とか、今すぐ読み始めたい、という本なら迷う余地はないのですが、中には、今すぐ読みたいほどではないが、関心のあるテーマなので、後で必要になりそう、みたいな微妙な本もあります。そんなとき、必要になった時点でまた買いにくればいいや、みたいに軽く考えてスルーすると、二度とその本には出合えず後悔する、というのがお決まりのパターンでした。

 

以前は、そういう苦い経験を繰り返すうちに、多少財布に負担をかけてでも、気になる本は念のため確保しておく、という習慣が身についてしまった人も多いのではないでしょうか。積ん読という奇妙な習慣には、紙の本の流通上の制約から生じる、本との出合いの難しさみたいなものも、大いに影響していたと思います。

 

しかし、今では、電子書籍化されている本なら、いつでも気が向いたときに即座に手に入るし、電子化されていなくても、絶版や品切れでなければ、Amazon などのネット書店経由で簡単に購入できます。そして、たとえ新刊書店から姿を消してしまっても、ネットで古書を探したり、各地の図書館の蔵書を確認してみることもできます。

 

つまり昔は、最初に「読みたい本リスト」を作ってから、実際にその本を読み始めるまでの間にいくつもの高いハードルがあって、それらを乗り越えなければ欲しい本にたどり着けなかったし、ある意味では、それもまた読書の楽しみの一部でもあったのですが、今ではそれらの作業がものすごく効率化され、欲しい本が手に入る可能性もかなり高くなりました。

 

だから、かつてのように、積ん読という形で読みたい本をせっせと集めなくても、とりあえず本のタイトルをリストアップだけしておいて、ときどきそれを見返し、やがて、読みたい気持ちがさらに高まって、読む時間も確保できそうだと思ったら、そこで初めて本を注文すれば、ふつうは数日もしないうちに、ほぼ確実に手元に本が届くのです。

 

別の言い方をすれば、ネット経由で本を探すのが非常に簡単になり、まるで、私たちが読みたい本を日本中の書店や図書館にあらかじめ分散して預けてあるような、「仮想積ん読」状態がいつの間にか実現してしまっているので、それらの本をわざわざ個人で囲い込まなくても、実際に読み始めようとする時点で外から取り寄せればいいのです。

 

 

◆ 仮想積ん読のメリットとデメリット

 

もちろん、本当に自分のすぐ近くの、手を伸ばせば届く距離に本を確保してあるのと、他人が管理している、どこか遠い施設に収められた本を引っ張り出してくることとの間には、それなりの違いがあります。

 

ある本を読みたい、という気持ちが高まった瞬間に、待たされることなく即座に手に取って読み始めたり、本の中身がちょっと気になったときに、パラパラとページをめくってみたりできるかどうかというのは、人によっては非常に大きな差だと感じられるのかもしれません。

 

しかし、「積ん読」という言葉が示しているように、人によっては、せっかく購入した本の多くが、ただ積み上げられ、ホコリをかぶった状態で放置され、最後まで誰にも読まれないままで終わります。

 

私たちは「この本を読みたい!」という気持ちが盛り上がったときに本を買うのですが、そうした熱意がいつも長続きするわけではなく、いつの間にか関心が失われてしまうことはけっこうあります。しかし、そうやって気持ちが先細りになって手をつけなくなる本に対しても、私たちは先払いでカネを払っているのです。

 

その点、本を物理的にため込まず、無料の仮想積ん読というやり方を活用することには、その不便を補って余りある、大きなメリットがあるのではないでしょうか。

 

ただし、この仮想積ん読には、非常に大きなデメリットもあります。

 

「読みたい本リスト」にどんどん書き足すだけ、という、お手軽で、タダで、しかも場所を全くとらない便利な積ん読は、すぐに歯止めを失って、際限がなくなってしまいがちなのです。

 

何かのきっかけで面白そうな本を知るたびに、それは気楽にリストに追加されていくのですが、当然、実際に本を読むペースよりも、リストの増加ペースの方がはるかに速いので、積ん読リストは、またたく間に増殖していきます。

 

そして、読みたい本のタイトルが、数十、数百、数千と増えていくと、本人の頭の中で、それはいつしか、自分の読みたい本だけが並べられた、理想の書店や図書館のイメージとなっていきます。それは、ある意味では、とても素晴らしい光景でしょう。本棚を埋め尽くす膨大な本は、自分の好みのものばかりなので、どれを選んでも、楽しい時間や、読後の深い満足を与えてくれそうです。

 

しかし、現実には、それらを読む時間が決定的に足りないのです。

 

私たちは、永遠に生きることはできません。それに、どんなに長く生きていられるとしても、読みたい本が増えるペースが速すぎれば、頭のなかの仮想の図書館は、ひたすら膨張していきます。

 

やがてそれは、手つかずの夏休みの宿題のように、あるいは、いまだに返済していない借金のように、心の中の無視できない重荷となり、心に影を落とし始めます。それはまるで、成仏できない幽霊みたいに、頭にとりついて離れなくなります。

 

仮想積ん読の場合は、気楽でカネがかからないし、場所もとらないから、周囲の人々に迷惑をかけることはほとんどないでしょうが、読みたくても読めない本の山に本人がさいなまれるという点では、紙の本の積ん読とあまり変わらないのかもしれないし、紙の本と違って限度というものがないので、むしろ、はるかにやっかいなのかもしれません。

 

それに、Amazon などのネット書店は、多くの読書家が、昔ながらの紙の本の積ん読から、仮想積ん読や、それに似たやり方に移行しつつあるのは十分に承知しているはずで、それによって本の売り上げが減るのを防ぎ、人々の財布のヒモをゆるめるために、死に物狂いの努力を続けているはずです。

 

例えば、ネット書店が期間限定の大幅な割引セールをひんぱんに仕掛けてくれば、私たちは、特に用事がなくても、書店のサイトをウロウロするようになるでしょう。そして、割引価格が十分に魅力的なものであれば、読む直前に本を定価で買うよりも、どうせいつか読むことになるのだから、割引セールのうちに確保しておこうと考えるようになるかもしれません。

 

今後、書店側のそうした価格操作などがどんどん洗練されていけば、私たちは昔と同じように本への飢餓感を煽られて、読む時間もないのに、本をごっそりと買い込むようになるのかもしれません。

 

 

 

◆ それは、本当に読みたい本なのか?

 

ネット書店などの営業努力によって、私たちはこれからも、読みきれないほどの本を買わされて、昔みたいな積ん読を続けることになるのでしょうか。それとも、みんなが仮想積ん読をするようになると、今度は、頭の中の膨大な本の山に圧迫感を感じる羽目になるのでしょうか。

 

もちろん、未来のことは私には分かりません。

 

ただ、自分にとって、読みたい本とは何かということを、もう少し突き詰めて考えてみると、自分が本当に心の底から読みたい本というのは、結局のところ、今現在すでに読み始めているか、読み終わっているかのどちらかしかないのではないか、という気がします。

 

時間がなくて読めない、とか、まだそれを読む機が熟していない、というのは、自分をごまかす言い訳で、読むのを少しでも先延ばしにできる本というのは、実は、それほど読みたい本ではないのかもしれません。

 

だとすれば、あまり認めたくないことですが、「読みたい本リスト」に書き込まれてから何か月も何年もそのままになっているのは、そのどれもが、ヒマがあったら読んでもいい、と思う程度の本にすぎず、そういう本がいくら山になったところで、それらにさいなまれる必要など初めからなかった、ということになるのではないでしょうか。

 

ただし、それをハッキリ認めてしまうと、私たちは同時に、これまで自分を支えてきた、将来の漠然とした楽しみというか、生きがいのようなものも、ごっそりと失うことになります。

 

あんな本を読みたい、こんな本も読みたいと、いつかやってくるであろう至福の時間を夢見ながらリストに書き込んでいた行為には、ヒマつぶし程度の意味しかなかったことになるわけで、その身も蓋もない現実に直面するのは、人によっては、実に恐ろしいことであるのかもしれません。

 

ただ、もちろんそれは、自分が今すぐに読み始めずにはいられないような特別な本以外には、存在する価値がない、ということではありません。

 

何もかもを投げ出して、とにかく今すぐかじりつきたくなるほどの本に出合えるのは、そんなに頻繁には起こらない、幸せなことですが、それ以外にも、読む前には特に期待していなかったのに、読み進めるうちにいつの間にかのめり込んでいたり、読み終わってから時間が経って、じわじわとその良さに気がつくタイプの本もあるでしょう。

 

それに、自分にとってのそうしたすごい本に出合うためには、自分が今、何を求めているのかを自覚したり、本の価値を見極める力を養う必要がありますが、そのためには、結局のところ、ゆっくりと時間をかけて、いい本から悪い本まで、雑多な本を読み通していくしかありません。

 

だとすれば、やるべきことは、きっと、あまり肩に力を入れずに、それなりに自分が読みたいと思う本を、淡々と読み続けていくことなのでしょう。

 

ただ、その一方で、こんな本を読みたい、あんな本も読みたいと、「読みたい本リスト」をいたずらに増殖させていくことは、今現在の自分の時間を必要以上に費やし、未来の自分の自由な時間まで予定で埋め尽くそうとする、余計なおせっかいなのかもしれません。

 

昔のように、家の中に本をため込んでしまうことなく、そして、行き過ぎた仮想積ん読によって、未来の計画にうつつを抜かすこともなく、今やるべきことに焦点を合わせ、感覚を研ぎ澄ませていけば、膨大な本のリストをわざわざ用意しなくても、自分が読むべき本には、ふさわしいタイミングでちゃんと出合えるのではないでしょうか。

 

もっともそれは、こうやって言葉で書くほど簡単なことではないかもしれませんが……。

 

 

記事 選択肢の広大な海と読書(1/2)
記事 本の選択とタイミング

 

 

JUGEMテーマ:読書

at 20:27, 浪人, 本の旅〜本と読書

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旅行者への拒絶反応?

先日、ベネチアで、旅行者をめぐるちょっとした「事件」がありました。

 

観光名所の橋のたもとで、携帯用のコンロを使ってコーヒーを淹れていた二人組のバックパッカーが、条例に反したという理由で通報され、日本円で11万円にものぼる罰金を徴収された上、市外に追い出されたというものです。

 

ベネチアの新「迷惑防止条例」に要注意、外でコーヒーを淹れたら市外追放? ニューズウィーク日本版
 

この出来事がニュースとして世界中に報じられたということは、記者の人たちも、道端でお湯を沸かした程度の行為への罰として、これは重すぎなのではないか、少なくとも、読者の多くはそう感じるだろうし、そのことで大いに議論を呼ぶはずだと考えたのではないでしょうか。

 

私も、個人的には、バックパッカーたちにかなり同情的です。全く知らない他人のことではあるし、ニュースだけでは詳しい現場の状況が分からないので、あまり一方的に肩入れするのはまずいのでしょうが、それでも、当局の処分は行きすぎのような気がします。

 

ただ、街の側にも言い分は大いにあるでしょう。ベネチアや京都みたいに、世界中から観光客が押し寄せる超有名観光地は、現在、いわゆる「オーバーツーリズム」のネガティブな影響を受け続けていて、住民たちも多大な迷惑を被っています。
ウィキペディア 「観光公害」

 

現地は観光業で大いに儲けているのだから、そのくらいは我慢すべきだ、という意見もあるでしょうが、実際に観光産業の恩恵を直接受けているのは、ごく一部の関係者に限られるのではないでしょうか。もちろん、多くの旅行者がカネを落としていくので、現地の雇用などにもプラスの効果は出ているはずですが、結局、家賃や生活費も高騰するので、その効果は帳消しになってしまうし、街の混雑や旅行者のマナー違反など、観光公害によるさまざまな被害は、観光業の恩恵にあずからない住人にも同じように降りかかってきます。

 

それに、旅行者一人一人から受けるストレスが、どれほどささいなものであっても、それが毎日、朝から晩まで何回、何十回と繰り返され、そんな日々が延々と続いていくならば、いくら寛容な心を持っている人でも、心がささくれ立っていくでしょう。

 

今回の件にしても、観光名所でコーヒーを淹れた程度のことで、短気な住民が怒り狂った、というよりも、これまで住民側は旅行者の行為にひたすら我慢を重ねてきて、それが限界に達し、ついに先日、条例という形でかなり厳しいルールを定めたのに、それでもまだ挑発するかのようにルール違反をする者が現れたので、住民は、まるでケンカを売られた気分になって思わず通報し、当局も見過ごすことができなかった、という感じなのかもしれません。

 

そして、バックパッカーの側もまた、ベネチアの条例や、現地のピリピリとしたムードについて、あまりにも無知だったのでしょう。

 

もしかすると、道端でコーヒーを淹れる行為が、何らかのルール違反になることは薄々知っていて、これくらいなら大丈夫、と思ったのかもしれませんが、もしそうだとしても、住民や当局から、どれほど厳しい反発を受けるかを全く読めていなかったわけで、その甘すぎる見通しは、やはり、異国を旅する人間としてかなり不注意だったと言わざるを得ないのかもしれません。

 

それでも私は、二人のバックパッカーに同情してしまいます。

 

今回の彼らの不幸は、彼ら自身の落ち度によるところもあるとはいえ、もしかするとそれ以上に、世界中の人々が超有名観光地に殺到するという、地球規模の大きな人間の流れと、その動きが必然的にもたらす強烈な反作用の連鎖みたいなものに、彼らが否応なく巻き込まれてしまった、という側面があり、それに関しては、彼らもまた、時代の大きなうねりの犠牲者だと考えられるからです。

 

ベネチアは、今では観光客があまりにも多すぎる状態なのですが、世界中からやってくる観光客の流れを直接コントロールすることは誰にもできないので、その人間の大波をかぶり続ける住民としては、せめて自分たちにできる範囲での対症療法的な処置をとらざるを得なくなっています。しかし、対症療法なので劇的な改善効果は見込めず、それでも何かをせずにはいられない住民側としては、その処置をどんどんエスカレートさせていくしかありません。

 

その結果、住人たちがかなり厳しいルールを旅行者に突きつける、まるで超売り手市場のような状態になっているのでしょう。というか、実際には、超売り手市場よりもさらにバランスの崩れた状況になっていて、もはや、旅行者への拒絶反応さえ出始めているのかもしれません。

 

今回、処罰を受けたバックパッカーの側からすれば、本来なら、いちおうは客人であるはずの自分たちが、想像もしていなかったような激しい敵意を向けられ、住人と当局に言いがかりをつけられた挙句、大金をむしりとられて放り出された、みたいに感じられたのではないでしょうか。

 

それでも、ベネチアへの観光客は、今後も減るどころか、むしろしばらくは増えていくでしょう。だから、オーバーツーリズムがもたらすネガティブな流れも、きっと、当分の間は止めることができないと思います。

 

そうなると、住民からの要望に基づいて定められるルールは、ますます過激なものになり、当局としても、ルール違反をますます厳格に取り締まるようになるのではないでしょうか。住民の多数派が我慢の限界に達して、常にピリピリしている状況では、誰かが寛容の精神を説いたところで、「何言ってんだコイツ……」みたいな反応になるだけでしょう。

 

このように、一度大きな流れができてしまうと、人々の感情も、日常の行動パターンも、街のルールや行政のシステムも、その流れを前提としたものに組み替えられ、固定化されていくので、現場の当事者は、流れに抵抗することがますます難しくなっていきます。そしてやがて、流れに深く巻き込まれ、かなり偏った判断や行動をしていることにすら気づけなくなってしまいます。

 

もともと、オーバーツーリズムがもたらしている、かなり異常でストレスの多い状態が日常になっているので、住人側としては、その異常さを解消するために、かなり過激な対処を求めざるを得ない気分になっているだろうし、それが、生々しい現場の状況を知らず、世界のどこかで冷静にニュースを見ているだけの第三者の目にどう映るかまでは、さすがに構っていられないのではないでしょうか。

 

いちおう誤解のないようにつけ加えておくと、私は別に、ベネチアの住人の方々に対して、悪意とか嫌悪感をもっているわけではありません。

 

彼らは、観光公害で暮らしが悪影響を受けている中で、自分たちの平穏な生活を守るため、できる範囲のことを精一杯やっているだけだし、現在、旅行者に対してかなりネガティブな感情をもっているとしても、それは住人の生まれ持った性質とはほとんど関係なく、単純に、これまで彼らが体験してきた辛い出来事の数々を反映しているだけだと思うからです。

 

私たちを含めて、すべての人間には、個人的に努力することで前向きに変えていける部分と、生まれついた国や地域や時代状況などに大きく影響を受け、運命的にどうしようもなく動かされていく部分とがあり、後者に関しては、個人的な責任を簡単に追及できるようなものではないと思います。

 

それはともかく、これから先、何十年も経って、世界中の人々の価値観や行動パターンが大きく変わっていけば、やがて、ベネチアを訪れる観光客の数が、目に見えて減っていくような時代がやって来るかもしれません。

 

しかしそのときになっても、もしかすると、今、次々に定められている厳しいルールは、そのままになっているのではないかという気がします。ルールというものは、一度決まってしまうと、日本の中学校の意味不明な校則みたいに、長年の伝統として残り続けてしまいがちだからです。

 

だとすると、未来のベネチアの住民たちも、その「伝統的」なルールに基づいて、旅人を厳しく取り締まり続けることになるのかもしれません。

 

もちろん、ネット上では、ベネチアはなぜかよそ者には非常に厳しい街だ、という評価が固まり、多くの旅人が敬遠するようになるでしょうが、それでもごく少数の勇気ある旅人が現地を訪れてみては、やはり邪険な扱いを受けたりして、いつしか、ほとんど人が寄りつかない、伝説的な街になっていくのかもしれません。しかしそれによって、結果的に、ベネチアは昔の静けさを取り戻し、歴史的な街並みも美しいままに残される、という可能性もあります。

 

まあ、こういう未来の話は、すべて、私の単なる妄想に過ぎませんが……。

 

 

JUGEMテーマ:ニュース

at 19:46, 浪人, ニュースの旅

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