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スマホか、旅の思い出か

先日、ネットでちょっと面白い記事を読みました。

 

旅先でもずっとスマホを覗き込んでいると、 旅の経験から「エンゲージメント」と「非日常性」が失われ、せっかくの思い出が記憶に残らなくなってしまう、という内容です。

 

旅先でもスマホでメール処理…結果、「美しい記憶」が失われる理由 WIRED

 

上の記事には、その裏づけとなる具体的なデータが示されているわけではないし、私も記事のネタ元までさかのぼってきちんと確認したわけではないのですが、旅先でスマホを使うことによって、目の前で起きていることに集中できなくなったり、日常と同じ行為を旅に持ち込むことで非日常性が薄れてしまうという説明は、たしかにその通りだという気がします。

 

ただ、もし旅行者が、旅先でも仕事のメールを見ずにはいられなかったり、SNSで友人たちとの他愛ないやり取りを延々と続けてしまうのだとしたら、本人の心の中では、旅の目新しい体験よりも、スマホを通して得られるいつもの経験の方が、ずっと重要だと判断しているということです。

 

つまり、本人は、旅に出てリフレッシュしたいとか、いつもと違う経験をしたいとか、心の表面ではいろいろなことを考えているのかもしれませんが、それとは裏腹に、心の底ではいつもの日常を手放すつもりなど全くない、ということなのだと思います。

 

上の記事は、旅行中はスマホを控えめにしましょう、みたいな常識的なアドバイスで締めくくられていますが、みんながそれに従って自分の欲求を完璧にコントロールできるなら、そもそもスマホ中毒みたいな問題も起きていないでしょう。

 

問題は、ふだんの生活で肌身離さずスマホを持ち歩き、つねに画面を覗き込んでいるような人なら、まず間違いなく、旅先でもスマホを見ずにはいられないだろうということで、そうである限り、どんなにエキゾチックな異郷に行ったとしても、その人の心の中に、いつもと違う世界が入り込む余地はないということです。

 

逆に、その人が一大決心をして、たとえば丸一日、スマホを見るのをガマンしてみるなら、きっと大変な苦しさを伴うとは思いますが、それは、大金をはたいて海外旅行をしたりするよりも、ずっと非日常的な経験となり、後々まで記憶に残るような、印象的な一日をもたらしてくれるかもしれません。

 

まあ、こんなことを偉そうに書いている私自身も、ネットにつながらない日なんてないのですが……。

 

 

記事 「何もしない」という非日常
記事 日常の非日常化と非日常の日常化

記事 「ネット断食」の試み

 

 

JUGEMテーマ:旅行

at 18:58, 浪人, 地上の旅〜旅全般

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インドでぼられない心得!?

もう2か月ほど前になりますが、ネット上で、作家の橘玲氏のインド旅行記を読みました。

 

北インドの観光エリアとして有名な「黄金のトライアングル」で、しつこい客引きにつきまとわれたり、きちんとした身なりの通行人に平気でウソをつかれたりして、結局は土産物屋に連れ込まれてしまうという話です。

 

インドで出会った2人の紳士と「信用の根本的な枯渇」体験について 橘玲の世界投資見聞録
他人を信用しない国インドで”ぼったくられない”ための考察 橘玲の世界投資見聞録

 

インドの観光地では、いまだに同じことが延々と繰り返されているんだなと思ったのですが、面白かったのは2番目の記事の後半でした。

 

橘氏は、自らの経験をもとに、買い物などでぼられたり、騙されたりしない心得を書いています。それは、目の前のインド人たちは信用できないという前提ですべての説明を疑ってかかり、しつこく迫られるようなら、彼らに面と向かって、「悪いけど、君のことは信用できないよ」と告げ、にっこり笑って席を立てばいい、というもので、相手はぎょっとした顔をするかもしれないが、誰も信用できないインドでは、それで相手が気分を害したりはしないのだそうです。

 

私もインドでは、したたかな客引きや商売人にずいぶん閉口させられましたが、さすがにそこまで言ったことはありません。それに、橘氏がやってみて効果があったからといって、ほかの日本人がそれをそのままマネしても、果たしてうまくいくのかは分かりません。

 

というより、特に旅慣れているわけでもない、ごく一般的な日本人が、生身の人間を前にして、それほどの強い「ノー」を言い放つことができるのだろうか、という気がします。

 

相手が信用できないと通告することは、私たちの暮らす日本社会では、強烈な拒絶を意味するからです。

 

別に日本に限ったことではありませんが、先進国と呼ばれる国々では、社会的・経済的なコミュニケーションを活発にし、取り引きにおける余計なリスクやコストを最小化するために、長い歳月を費やして、お互いを信用する方がメリットが大きくなるような社会システムを作り上げてきました。

 

そこでは基本的に、ある程度の条件を満たした人間は誰でも仲間だとみなして信用することで、すべてのプロセスがスムーズに進むようになっています。そして、そうした仲間のネットワークが国全体、さらには国際的な取引関係にまで広がっていくことで、互いに繁栄できる仕組みになっています。

 

日本の場合は、島国であることや、日本語人口が圧倒的に多いことなど、好条件もあいまって、他の国以上にそうしたシステムがうまく回っているように思います。

 

日本語を話せて、できればちゃんとした会社の従業員などの肩書があり、きちんとした服装をしていて、話の内容に筋が通っている、みたいな簡単な「テスト」にパスすれば、相手をそのまま信用してかまわないし、それで問題はほとんど起きないのではないでしょうか。実際、テストの内容は時代を追うにしたがってどんどん簡略化されてきたし、今や、日常生活においては、自分が相手をテストしていることさえ、ほとんど意識しなくて済むほどです。

 

ただ、そういう環境が当たり前になってしまったために、海外で日本と違う環境に直面すると、きちんと「信用テスト」をせずに仲間と認定してしまったり、テストにパスしない人間をどう扱えばいいか分からず、はっきりと「ノー」が言えないために、さまざまなトラブルに巻き込まれる日本人も大勢いるようです。

 

とはいえ、日本では、信用できないと相手に告げるということは、絶対的な多数派である、信頼できる人間同士のネットワークから放逐することを意味するし、それはつまり、村八分の宣告みたいなものです。日本人としては、友人にひどい裏切りを受けたので絶交するみたいな、よほどのケースでなければ、そんな経験をすることもないでしょう。

 

そして、私たちは、信頼を失うというのがどういうことか、学校や会社といった組織での体験や、マスコミの報道などを通じて、その恐ろしさを心に深く刻み込まれているし、自分だけはそんなことにならないように、仲間のネットワークから放逐されないように、強い同調圧力に耐えながら、必死で「いい人」を演じ続けています。

 

目の前の相手に、おまえは信用できないと言い放つことがどれだけ深刻なことかを知っているからこそ、私たちは、そうすることに相当な覚悟を必要とするのではないでしょうか。

 

でも、インドに行くと、橘氏が書いているように、いつどこで誰からどのようにだまされるかわからないという、「信用の根本的な枯渇」体験が次々に押し寄せてきます。そこは、お互いに信頼し合おうという考え方の通用しない、極端な言い方をすれば、隙を見せた者が容赦なくつけ込まれる弱肉強食の世界です。

 

そういう社会が暮らしやすいかどうかは別にして、いったんそういう世界に足を踏み入れたら、日本で身につけた相互信頼の美しい作法はいったん忘れて、現地でうまくサバイバルできるやり方に、素早く切り替えなければなりません。

 

そのために、最初のうちは、勇気を振り絞って、相手にきっぱりと「ノー」を言い渡すことも必要になってきます。

 

ただ、誤解のないように補足しておくと、北インドの観光地で、日本人旅行者がカルチャーショックを受けるのは確かですが、インドの客引きや商売人のやり口には一定のパターンがあるので、ガイドブックや旅仲間のアドバイスを頭に入れた上で何度か対応すれば、彼らのやり方に少しずつ慣れ、そのうちに、彼らをうまくあしらうコツも身についていきます。

 

やがて、余裕が出てきて、インド人の商売の仕方をじっくり観察できるくらいにまでなれば、それはそれで、日本ではなかなか体験できない、一種のエンターテインメントとして楽しむことさえできるようになるかもしれません。

 

それと、先ほど、隙を見せたら容赦なくつけ込まれると書きましたが、そのレベルには上から下までものすごい幅があります。

 

インドにも、本当に危険な裏の世界があるのだろうし、そういう世界に下手に入り込むと、それこそ命に関わることにもなりかねないと思いますが、北インドの観光地で旅行者からぼったくろうとしている人々のほとんどは、ごく普通の庶民であって、商売を抜きにすれば、それなりにいい奴だったりすることもあります。旅人を騙すやり口にしても、完璧とまではいえず、けっこうすぐにボロが出たりするところに、何ともいえない人間味が感じられたりもします。

 

それに、隙を見せられないのは、別にインドに限った話ではありません。現代の日本にも、お互いを信用できない弱肉強食の世界は存在するし、そういう世界の騙しのテクニックの巧妙さは、北インドの普通の商売人の比ではないかもしれません。

 

インドの場合、騙される、ぼられるといっても、ほとんどの場合、金額的にはたかが知れています。もちろん、旅先では注意するに越したことはありませんが、あまり深刻に考えすぎず、たとえぼられたとしても、面白い体験をしたとか、騙されることへの免疫がついたと考えるくらいの気持ちでいた方が、旅を楽しめるのではないでしょうか。

 

そして、たとえインドの商売人たちにイライラさせられることがあっても、彼らもまた、この地球の上に生まれ、与えられた条件の中で何とか知恵を絞って生き抜こうとしている、私たちと同じ人間だということへのリスペクトは忘れないようにしたいと思います。

 


山田和 著 『21世紀のインド人 ― カーストvs世界経済』 の紹介記事
記事 カトマンズの宝石店で
記事 旅の名言「人を疑うことで……」
記事 旅の名言「騙されることは……」

 

 

JUGEMテーマ:旅行

at 19:10, 浪人, 地上の旅〜インド・南アジア

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日本人のフリ

何度か長い旅をしたせいか、日本に帰って普通に暮らしていても、たまにふと、自分が外国人旅行者みたいな感覚で日本の生活を見ているのに気づくことがあります。

 

そして、そんなときは、以前ならそのままスルーしていたようなことが、とても不思議に思えたり、強い違和感を覚えたりします。

 

例えば、「テレビでよく見る謝罪会見では、どうしていつも3人のオッサンが並んで頭を下げるんだろう?」とか、「街を走っているクルマは、何でみんなピカピカの新車ばかりに見えるんだろう?」とか、「どうして日本のお坊さんは結婚して子供がいたりするんだろう?」とか、「みんなサービス残業をしたくないはずなのに、どうしてやめられないんだろう?」などなど……。

 

旅に出る前は、学校生活にしても、就職活動や会社での仕事にしても、人間関係のあり方や日々の過ごし方にしても、その中にどっぷり浸かって生きていたので、何もかもが当たり前すぎて、それが他の文化圏とはどう違っているのか、あるいは外国人からはどう見えているかなんて、ほとんど考えたことがありませんでした。

 

しかし、旅を通じて異文化をそれなりに体験した今は、日本独特の慣習や制度が日々の暮らしを作り上げていることをしみじみと実感するようになりました。そして、日常生活でちょっとした違和感を覚えるたびに、他の国の、日本とは異なる慣習や制度のことがつい頭をよぎってしまうのです。

 

似たようなことは、海外の留学先や赴任先から戻ってきた人も多かれ少なかれ感じているようで、「逆カルチャーショック」で検索すれば、具体的な体験談をいくらでも読むことができます。
ウィキペディア 「異文化コミュニケーション」
記事 旅の名言「放浪の旅で待ち受けている……」

 

ただ、多くの場合、帰国した直後はいろいろな驚きを感じたり、笑える失敗を重ねたりするものの、日本の生活に再びなじんでいくにつれて、違和感は徐々に消えていくようです。

 

だからたぶん、帰国してからずっと違和感の消えない私の場合は、かなりの重症なのだと思いますが、そうした違和感が生じる原因の多くが自分にありそうだという自覚はあるので、日々の生活で変だと思うことはあっても、それに対していちいち「変だ!」と声を上げることはありません。

 

それに、声を上げることに意味があるとも思えません。ここは日本で、絶対的な多数派である日本人がそれを当たり前だと思っている分には何の問題もないわけだし、それをあえて変えさせようとするなら余計なお世話です。実際、つまらない摩擦を起こしてお互いに消耗するだけでしょう。

 

結局、なんか変だなあ、不思議だなあと思いながらも、今まで通りに、黙って日本独自の風習に従い続けることになります。そして、そうしている自分が、まるで日本人のフリをした外国人で、その正体がバレないように、必死で日本人のモノマネをしているような気がしてくることがあります。

 

そういえば、海外の旅行先でも、余計なトラブルを避けるために、つねに周りを見て、郷に従い、現地の「普通」に合わせようと心がけていました。それにそもそも、身近な人々を観察してその言動に合わせるのは、人間なら誰もが子供のころからずっと無意識のうちにやっていることです。

 

でも、よく考えてみれば、どうして自分は、変だと思いながら日本人のフリをし続けているのでしょう? 

 

それは、これまでずっと続けてきた無意識の行動がやめられないだけ、という面もあるわけですが、だからといって、これからもずっとそれを続けなければならない理由にはなりません。かりに日本人のフリをするのをやめたら、あるいは日本人のマネをしていることが他の日本人にバレたとしたら、それで何か不都合でもあるのでしょうか?

 

そのことについて、あれこれ考えていくうちに、私の心の奥底に、同じ日本人から仲間外れにされることへの恐怖心があるのかもしれない、と思い至りました。そして、日々のマスメディアの報道や、身近な人々とのやりとりから感じる、強い同調圧力のようなものが、その恐怖感の原因になっている気がします。

 

もし、日本の社会にそのような同調圧力が存在するのだとしたら、それは、日本人の中に、お互いのモノの考え方や行動をシンクロさせなければならない強烈な理由があるからでしょう。その理由が何なのかは私もよく分かりませんが、とにかく同調を乱すということは、私たち日本人が無意識のうちに守ろうとしている、はっきりと言葉では説明できないが、何かとても大事なものを壊すということであり、当然、その「罪」に対して厳しい制裁を受けるのではないかと恐れているのだと思います。

 

しかし、そうした圧力をヒシヒシと感じながら、それに黙って従うフリをすればするほど、逆に、自分が「よそ者」であるという意識が強まっていくような気がします。そしてそれは当然、仲間外れになるのではないかという不安な気持ちをますますかきたてるのです。

 

だからといって、昔のように、何も考えず、日本人としてその風習にどっぷりと浸かった状態に戻ることもできないわけで、結局、うまい解決の方法もなく、自分がどこにも属していないような、宙ぶらりんで不安な状態におかれたままになってしまうのです。

 

そして、話をさらにややこしくするのは、かりに今後も日本人のフリをし続けるのだとして、そのモデルとなる日本人とは、いったい誰なのか、という問題です。

 

典型的な日本人のマネをしようと決意したとしても、日本人特有のモノの考え方とか行動パターンを理想的に体現した、究極の日本人なる者はどこにも存在しません。世界中で流布しているジョークの中には、ステレオタイプな日本人がよく登場しますが、それはあくまで、日本のことをよく知らない外国人が勝手に思い込んでいるイメージに過ぎないし、かといって、私たち自身が思い浮かべる日本人のイメージにしたところで、漠然としているだけでなく、誰がそれをイメージするかによって中身はバラバラです。日本のどの地域に住んでいるか、世代はどうか、あるいはどんな仕事についているかや社会的な地位によって、日本人という言葉からイメージするものはかなり異なるのではないでしょうか。

 

だとすれば、今、私がやっている日本人のフリにしたって、それはあくまで私がイメージした日本人の姿を、大雑把に演じているにすぎないということになります。だから、どれだけ自分がそれをうまく演じてみせたところで、他の日本人から見れば必ず何らかの違和感を覚えるはずです。

 

どうせいいかげんなモノマネしかできないのなら、そして、どう演じたとしても必ず誰かに違和感を与えることになるのなら、もういっそのこと、「日本人とは何か」みたいな、終わりのない問題と格闘するのはあきらめて、自分がいいと思ったモノの見方なり、行動パターンなり、ライフスタイルなりを自由に選び取り、日本人としてではなく、ただのひとりの人間として生きていくしかないのかもしれません。

 

もちろん、それはそれで大変なことです。きっといろいろな摩擦を引き起こすだろうし、とりあえず周囲に同調することで得られる安心感みたいなものもありません。

 

でも、「日本人」という幻を追いかけて途方に暮れたり、無理に「日本人らしきもの」を演じて消耗することになるなら、自分は自分だと開き直ってしまった方が、結局は楽なのかもしれないという気がします。

 

もっとも、思いっきり開き直って我が道を行き、日本人のイメージを心から振り払ったつもりになったところで、それを外国人から見れば、やっぱりごく普通の日本人にしか見えない、というオチになりそうですが……。

 


記事 インド病


 

JUGEMテーマ:日記・一般

at 18:56, 浪人, つれづれの記

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