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何もない部屋がもたらす解放感

先日、ネットで興味深い記事を見かけました。

 

韓国に、監獄を模した瞑想施設があって、仕事のストレスを抱えた人々がやってくるという内容です。


ストレス過多の韓国人が逃げ込む「心の監獄」 ニューズウィーク日本版
 

独房のような部屋にあえて自分を閉じ込め、スマホも手放すことによって、積もりに積もったストレスから解放されるというのは、なかなかの荒療治に見えますが、そのアイデア自体は、とても分かりやすいと思います。

 

しかし、一週間で4700ドルという料金が気になります。狭い部屋で質素な食事をとるだけなのに、それではちょっと高すぎるのではないでしょうか。

 

もしかして、刑務所そっくりという話題性で客を集めることを狙った怪しげなビジネスなのかと思い、ネタ元と思われる記事などを調べてみたら、4700ドルという数字は間違いで、実際には5万円程度のようです。それでも高いと言えば高いのですが、それほど不自然な金額ではありません。

 

ただ、ストレスから解放されるためにシンプルな環境に身を置く、というのが狙いなら、施設をあえて監獄みたいにする必要はないかもしれません。いざとなればいつでも中からカギを開けられる仕組みのようなので、見た目はともかく、実質的には普通の宿泊施設と変わらないし、利用者たちが、自分の意思で部屋から出ないで過ごしていられるのなら、別にどんな建物でもかまわないということになります。

 

それに、参加者が厳しいルールを守り、長期間瞑想して過ごすということなら、そうした施設は世界中にたくさんあります。

 

私はネパールやインドで、ヴィパッサナー瞑想をするための10日間のコースに参加したことがありますが、期間中は基本的に、読み書きも娯楽も会話も禁じられ、ひたすら瞑想に集中するというルールになっていました。ルールは厳しいのですが、みな、自分の意思で参加しているので、主催者側からうるさく言われなくても、ルールはかなりきちんと守られていたと思います。ちなみに、同様の施設は日本や韓国にもあり、そこでは参加者が好きな金額を寄付するという方式になっています。
ウィキペディア 「ヴィパッサナー瞑想」

 

また、特に瞑想にはこだわらず、とにかくストレスから解放されたいというのなら、それこそ数えきれないほどの選択肢があります。

 

例えば、同じ数万円をかけるなら、スマホや本は持たずに、格安航空券で東南アジアの田舎とかビーチリゾートにでも行って、一週間なり十日なり、好きなだけボーっとするのもいいかもしれません。その際、あえて格安の宿を選ぶようにすれば、部屋にテレビもなければ、館内にも娯楽施設などなく、独房みたいな狭い部屋でずっと過ごすことができます。

 

さすがにそれでは息が詰まるということであれば、テレビのついた部屋で、言葉の分からない異国のテレビ番組をぼんやり見ながら過ごしてもいいし、何もない近所の田舎道を散歩してもいいし、ビーチリゾートなら、一日中海を眺めていてもいいと思います。

 

いずれにしても、仕事はもちろん、住み慣れた場所からもしばらく離れ、スマホなどの便利なアイテムも一時的に手放し、日常の思考と行動のパターンを呼び起こすようなものがほとんど存在しない、ごくごくシンプルな環境で過ごすだけで、わざわざ瞑想などしなくても、かなりのストレスから解放されるはずです。

 

そして、安ホテルのほとんど何もない部屋が、大いにその役に立ってくれるでしょう。

 

職場の居心地がいいかどうかは人によりけりでしょうが、自分の家については、それなりに快適で居心地がいいと感じる人がほとんどだと思います。しかし、部屋の中は、これまでの生活の中で自分が溜め込んできたさまざまなモノでゴチャゴチャしており、それらを目にするたびに、いつもの思考や行動のパターンが自動的に繰り返されてしまいます。

 

旅先の殺風景な部屋は、そういう、パターン化した思考や行動に陥るきっかけを与えないので、生活がリセットされ、すべてが白紙に戻ったような新鮮な感覚と解放感をもたらしてくれると思います。

 

ただ、自分で旅を計画し、実行するような人なら、そもそも、重いストレスに押しつぶされ、日常生活から逃げ出すことになる前に、いろいろな改善策を思いついて、それなりに手を打ったりできるような気もします。逆に、ストレスで限界寸前の人には、旅を自分でアレンジするような余力は残っていないかもしれません。

 

それに、何もない場所に行って、何もしなくていい時間を過ごすというのは、それまで仕事に追われまくっていたような人にとっては、実はものすごくハードルが高いことなのかもしれません。そういう人は、何もしないでいようとしても、リラックスするどころか、そわそわと落ち着かなくなったり、不安に襲われたりして、さらにストレスを抱え込んでしまいそうな気もします。

 

それならば、冒頭の監獄風施設のように、何をどうすればいいか、全てをお膳立てしてくれ、指示してくれる場所の方が、ずっと魅力的かもしれないし、とにかくそういう場所に駆け込んで、すべてをゆだねたくなってしまうのかもしれません。まあ、多少はコストも高くなるでしょうが、自分でいちいち段取りを考えなくてもいいので、瞑想に集中できて、それなりに効果も上がる可能性はあります。

 

もっとも、どこに行ってどんな方法でストレス解消をしても、残念ながら、ほとんどの場合、その効果は一時的なものでしかありません。

 

家の外で何日か過ごし、スマホをチェックしたい誘惑にも何とか打ち勝って、ようやくスッキリした気分になれたとしても、私たちの心と体には、これまでの思考と行動のパターンがべっとりと染みついてしまっているので、元の家と職場に戻ったとたん、すべてが元の木阿弥になってしまうでしょう。

 

それでも、そんな虚しい挑戦を何度も繰り返しているうちに、ほんの少しでも日常生活に変化が起きるなら、それは大成功と言っていいのかもしれないし、そうした変化に気がつくことが、ふだんの生活パターンを、さらに快適なものに変えていくきっかけになるかもしれません。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

at 20:07, 浪人, つれづれの記

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裏起毛ワールド

毎年、冬になると、服の安売りチェーンやスーパーの洋服売り場に、「裏起毛」という独特の用語があふれるようになります。

 

「ウラキモウ」という読み方が「裏鬼門」に似ているせいなのか、私はその言葉を見るたびに、そこはかとない不気味さを感じてしまうのですが、一方で、裏に毛が立っている、という言葉の意味からは、ちょっと生々しく、それでいて、どこかコミカルなイメージも浮かんできます。

 

そんな奇妙な言葉が、まるで何かの呪文みたいに売り場を埋め尽くしている様子を目にしていると、私たち人間の、暖かさへの執念がむき出しになっているみたいで、滑稽なようでもあり、切なくもあるような、何だか複雑な笑いがこみ上げてくることがあります。

 

もちろん私も、暖かさへの執着を抱える人間の一人です。歳をとるにつれて、襟や袖などの隙間や、薄い生地を通して侵入してくる冷気に敏感になってきました。というか、体が熱を生み出す力が衰えてきたのか、寒い場所にいると、その冷たさに負けて、全身がじわじわ凍えていくような感じがします。特に、節約のために暖房を消した部屋の中で長時間パソコンにかじりついていたりすると、体が芯まで冷え切ってしまいます。

 

そうなる前に、体を動かす家事をするとか、もっと運動をしてみるとか、やるべきことはいろいろあるのでしょうが、長年にわたって染みついた生活パターンはなかなか変えられません。結局、いちばん安易な防寒対策ということで、ここ数年、「裏起毛ワールド」に足を踏み入れつつあります。

 

裏起毛の服は、内側がフワフワ、モコモコしていて、着た瞬間から暖かさを感じます。厚手のものになると、まるで毛布を体に巻きつけているようです。暖かい場所にいたり、体を常に動かすような場合は、むしろ暑苦しくなってしまいますが、寒い部屋でずっと座りっぱなしみたいな生活パターンなら、かなり快適です。

 

といっても、これは別に、怠け者のためのアイテムというわけではありません。寒さが厳しくて、とにかく厚手の防寒着が必要な土地などいくらでもあるし、足腰にトラブルがあって歩いたり動き回ったりすることができず、体が温まらないとか、仕事のために、寒い場所で一日中じっとしている必要があるなど、日頃から裏起毛の服を愛用している人には、さまざまな事情があるのでしょう。

 

また、気候や体調や生活パターンとは関係なく、暖房費を徹底的に節約するためというニーズもあると思います。実際、最近の防寒テクノロジーの進歩はすごいので、寒さの厳しい土地でなければ、さまざまな防寒グッズを使いこなすことで、一日中、ほぼ暖房なしで過ごすことができるのではないでしょうか。

 

その点、化繊の裏起毛というのは、人間が何万年もの間、試行錯誤を繰り返しながら生み出してきた、安価で手入れのしやすい、最新版の毛皮のようなものなのかもしれません。

 

それに、裏起毛の服は、まわりが寒いときに暖かな服に身を包み、ぬくぬくするからこそ感じる幸せみたいなものも味わわせてくれます。

 

世界には、暑くもなく、寒くもない、常春と呼ばれるような理想的な温かさが一年中続く土地がありますが、そういうところで長年暮らしていると、かえってそのありがたみをなかなか感じられないのではないでしょうか。

 

逆に、日本のように季節のハッキリとした土地では、蒸し暑さの中で涼しい風を感じたり、寒い夜に温かい湯に漬かるようなとき、ふとした幸せを感じたりします。身を切るような寒さの中でこそ、私たちは裏起毛のありがたさをしみじみと実感できるし、その温もりを通じてじわじわと感じる幸せは、ささやかなようでいて、実はけっこう大きなものなのかもしれません。

 

私は、もう若くはないし、今さら冬の寒さに正面から立ち向かおうとも思いません。これからは、中高年の先輩方にならって、裏起毛ワールドにさらに深く分け入り、さまざまな素材の着心地を試しつつ、ぬくぬくとした幸せに身をゆだねたいと思います。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

at 20:24, 浪人, つれづれの記

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日本人のフリ

何度か長い旅をしたせいか、日本に帰って普通に暮らしていても、たまにふと、自分が外国人旅行者みたいな感覚で日本の生活を見ているのに気づくことがあります。

 

そして、そんなときは、以前ならそのままスルーしていたようなことが、とても不思議に思えたり、強い違和感を覚えたりします。

 

例えば、「テレビでよく見る謝罪会見では、どうしていつも3人のオッサンが並んで頭を下げるんだろう?」とか、「街を走っているクルマは、何でみんなピカピカの新車ばかりに見えるんだろう?」とか、「どうして日本のお坊さんは結婚して子供がいたりするんだろう?」とか、「みんなサービス残業をしたくないはずなのに、どうしてやめられないんだろう?」などなど……。

 

旅に出る前は、学校生活にしても、就職活動や会社での仕事にしても、人間関係のあり方や日々の過ごし方にしても、その中にどっぷり浸かって生きていたので、何もかもが当たり前すぎて、それが他の文化圏とはどう違っているのか、あるいは外国人からはどう見えているかなんて、ほとんど考えたことがありませんでした。

 

しかし、旅を通じて異文化をそれなりに体験した今は、日本独特の慣習や制度が日々の暮らしを作り上げていることをしみじみと実感するようになりました。そして、日常生活でちょっとした違和感を覚えるたびに、他の国の、日本とは異なる慣習や制度のことがつい頭をよぎってしまうのです。

 

似たようなことは、海外の留学先や赴任先から戻ってきた人も多かれ少なかれ感じているようで、「逆カルチャーショック」で検索すれば、具体的な体験談をいくらでも読むことができます。
ウィキペディア 「異文化コミュニケーション」
記事 旅の名言「放浪の旅で待ち受けている……」

 

ただ、多くの場合、帰国した直後はいろいろな驚きを感じたり、笑える失敗を重ねたりするものの、日本の生活に再びなじんでいくにつれて、違和感は徐々に消えていくようです。

 

だからたぶん、帰国してからずっと違和感の消えない私の場合は、かなりの重症なのだと思いますが、そうした違和感が生じる原因の多くが自分にありそうだという自覚はあるので、日々の生活で変だと思うことはあっても、それに対していちいち「変だ!」と声を上げることはありません。

 

それに、声を上げることに意味があるとも思えません。ここは日本で、絶対的な多数派である日本人がそれを当たり前だと思っている分には何の問題もないわけだし、それをあえて変えさせようとするなら余計なお世話です。実際、つまらない摩擦を起こしてお互いに消耗するだけでしょう。

 

結局、なんか変だなあ、不思議だなあと思いながらも、今まで通りに、黙って日本独自の風習に従い続けることになります。そして、そうしている自分が、まるで日本人のフリをした外国人で、その正体がバレないように、必死で日本人のモノマネをしているような気がしてくることがあります。

 

そういえば、海外の旅行先でも、余計なトラブルを避けるために、つねに周りを見て、郷に従い、現地の「普通」に合わせようと心がけていました。それにそもそも、身近な人々を観察してその言動に合わせるのは、人間なら誰もが子供のころからずっと無意識のうちにやっていることです。

 

でも、よく考えてみれば、どうして自分は、変だと思いながら日本人のフリをし続けているのでしょう? 

 

それは、これまでずっと続けてきた無意識の行動がやめられないだけ、という面もあるわけですが、だからといって、これからもずっとそれを続けなければならない理由にはなりません。かりに日本人のフリをするのをやめたら、あるいは日本人のマネをしていることが他の日本人にバレたとしたら、それで何か不都合でもあるのでしょうか?

 

そのことについて、あれこれ考えていくうちに、私の心の奥底に、同じ日本人から仲間外れにされることへの恐怖心があるのかもしれない、と思い至りました。そして、日々のマスメディアの報道や、身近な人々とのやりとりから感じる、強い同調圧力のようなものが、その恐怖感の原因になっている気がします。

 

もし、日本の社会にそのような同調圧力が存在するのだとしたら、それは、日本人の中に、お互いのモノの考え方や行動をシンクロさせなければならない強烈な理由があるからでしょう。その理由が何なのかは私もよく分かりませんが、とにかく同調を乱すということは、私たち日本人が無意識のうちに守ろうとしている、はっきりと言葉では説明できないが、何かとても大事なものを壊すということであり、当然、その「罪」に対して厳しい制裁を受けるのではないかと恐れているのだと思います。

 

しかし、そうした圧力をヒシヒシと感じながら、それに黙って従うフリをすればするほど、逆に、自分が「よそ者」であるという意識が強まっていくような気がします。そしてそれは当然、仲間外れになるのではないかという不安な気持ちをますますかきたてるのです。

 

だからといって、昔のように、何も考えず、日本人としてその風習にどっぷりと浸かった状態に戻ることもできないわけで、結局、うまい解決の方法もなく、自分がどこにも属していないような、宙ぶらりんで不安な状態におかれたままになってしまうのです。

 

そして、話をさらにややこしくするのは、かりに今後も日本人のフリをし続けるのだとして、そのモデルとなる日本人とは、いったい誰なのか、という問題です。

 

典型的な日本人のマネをしようと決意したとしても、日本人特有のモノの考え方とか行動パターンを理想的に体現した、究極の日本人なる者はどこにも存在しません。世界中で流布しているジョークの中には、ステレオタイプな日本人がよく登場しますが、それはあくまで、日本のことをよく知らない外国人が勝手に思い込んでいるイメージに過ぎないし、かといって、私たち自身が思い浮かべる日本人のイメージにしたところで、漠然としているだけでなく、誰がそれをイメージするかによって中身はバラバラです。日本のどの地域に住んでいるか、世代はどうか、あるいはどんな仕事についているかや社会的な地位によって、日本人という言葉からイメージするものはかなり異なるのではないでしょうか。

 

だとすれば、今、私がやっている日本人のフリにしたって、それはあくまで私がイメージした日本人の姿を、大雑把に演じているにすぎないということになります。だから、どれだけ自分がそれをうまく演じてみせたところで、他の日本人から見れば必ず何らかの違和感を覚えるはずです。

 

どうせいいかげんなモノマネしかできないのなら、そして、どう演じたとしても必ず誰かに違和感を与えることになるのなら、もういっそのこと、「日本人とは何か」みたいな、終わりのない問題と格闘するのはあきらめて、自分がいいと思ったモノの見方なり、行動パターンなり、ライフスタイルなりを自由に選び取り、日本人としてではなく、ただのひとりの人間として生きていくしかないのかもしれません。

 

もちろん、それはそれで大変なことです。きっといろいろな摩擦を引き起こすだろうし、とりあえず周囲に同調することで得られる安心感みたいなものもありません。

 

でも、「日本人」という幻を追いかけて途方に暮れたり、無理に「日本人らしきもの」を演じて消耗することになるなら、自分は自分だと開き直ってしまった方が、結局は楽なのかもしれないという気がします。

 

もっとも、思いっきり開き直って我が道を行き、日本人のイメージを心から振り払ったつもりになったところで、それを外国人から見れば、やっぱりごく普通の日本人にしか見えない、というオチになりそうですが……。

 


記事 インド病


 

JUGEMテーマ:日記・一般

at 18:56, 浪人, つれづれの記

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