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古酒促成

先日、ネット上でちょっと面白い記事を目にしました。

 

ダイヤモンドの採掘や流通を手がける大手企業が、天然品と合成品を見分ける機器の開発・販売にも力を入れているという内容です。


デビアス、合成ダイヤの「識別機器」開発に注力  ロイター

 

記事によれば、現時点での合成ダイヤの生産量は、天然モノに比べればまだわずかのようですが、いずれ技術の進歩によって、品質も生産量も向上していくのは間違いないでしょう。また、識別のための機器が販売されているということは、天然と合成の違いが、すでに人間の目では区別できなくなっているということでもあります。
ウィキペディア 「合成ダイヤモンド」

 

ただ、天然ダイヤにしても、合成ダイヤにしても、もともとは炭素でできた同じ物質なのだし、人間の目にも区別できないのだとしたら、それらを区別し続けることにどれだけの意味があるのだろうかとも思います。

 

天然モノの市場を守ろうとする宝石業界の戦略はともかく、ふつうの人間にとっては、見た目の美しさが同じなら、値段の安い合成ダイヤで十分なのではないかという気がするのですが、これは、宝石というものに縁も思い入れもない人間だからこそ言える暴論なのかもしれません……。

 

そんなことを考えているうちに、ずっと前にネットで読んだ、似たような話を思い出しました。

 

ウィスキーの原酒に化学的な処理を行い、何年も熟成させたのと同じ味を短時間で生み出す技術の話です。


20年ものの古酒の味を、たった6日間でつくる男  WIRED

 

それがどのくらい完成された技術なのか、実際に作られた酒を飲んだわけではないので何ともいえないのですが、記事に書かれていることが本当なら、業界に与えるインパクトはとても大きいと思います。

 

熟成させた酒と同じ味が安価に再現できるのなら、個人的には非常にすばらしいことだと思うのですが、ダイヤモンドと違って、酒には多少の思い入れがある私としては、同時に、多少のモヤモヤを感じるのも事実です。

 

高価なウィスキーを口にするとき、私たちはその味だけでなく、その酒が樽の中で過ごしてきた長い年月を思い浮かべ、それを自分の人生と重ね合わせたりして、ロマンチックな思いやら感傷やらに浸ったりもするわけですが、数日で化学処理された酒には、そういう思いが入り込む余地がありません。

 

とはいえ、こうしたテクノロジーが、近い将来、業界内に広がっていくのは避けようのないことだろうし、上のダイヤモンドの話と同様、短時間で「熟成」されるウィスキーは、物質的には実際の古酒とほぼ同じものなので、そうした促成ウィスキーをニセモノとして全否定してしまうのも適切ではないように思います。

 

ただ、問題があるとすれば、今後、技術がさらに進歩すれば、本当の古酒と古酒っぽい酒の違いを、人間の舌では区別できなくなるだろうし、やがては、機械を使った判別さえ難しくなってしまうかもしれないということです。

 

味の違いが区別できず、しかも価格には圧倒的な差があるなら、多くの人は、安価な促成酒で十分満足してしまうだろうし、古酒っぽい酒が大量に出回ることで、熟成した感じの味がありふれたものになれば、古酒のもつ高級なイメージも失われ、その価値は急激に低下していくのではないでしょうか。

 

そうなると、あえて昔どおりの製造法で、多大な時間とコストをかけて古酒を作り続ける意味がなくなってしまうかもしれません。しかし、その一方で、おいしいウィスキーを飲むということが、もっとずっとカジュアルな楽しみになり、より多くの人に普及していく可能性もあります。

 

もしかすると、あの古酒独特の味というのは、それが本当においしいからというよりも、今はめったに飲めないからこそもてはやされている面もあるのではないかという気がします。将来、そうした希少性によるプラス効果がなくなれば、何年熟成されたかよりも、本当に舌が喜ぶのはどんな味なのかが興味の対象になっていくだろうし、あるいは、これまでにない化学変化を人為的に起こすことによって、全く新しい味のパターンが発見され、その新奇さや意外性が楽しまれるようになるのかもしれません。

 

そして、同じようなことは、その他のさまざまなモノやサービスの世界にも当てはまるのではないでしょうか。

 

これまでずっと、希少であるがゆえに高い価値をもっていたモノが、新しいテクノロジーによって、安価に簡単に生み出されるようになり、やがて当たり前の存在になってしまうと、人々がそれらをありがたがる意味は失われ、人々の関心の焦点は別のところへと移り変わっていきます。

 

それは、希少なモノを独占することに喜びを見出せた時代が、すでに終わりつつあるということなのかもしれません。

 

モノが豊かでありふれた環境では、私たちそれぞれが、自分にとって本当に欲しいモノは何かを問い続けざるを得なくなるし、そうした探求のプロセスを通じて、各人が特別な思い入れを感じたり、深い満足感を覚えるような、ユニークで創造的なモノやサービスを求める時代がやって来つつあるような気がします。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

at 18:47, 浪人, つれづれの記

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政治的な暴力の果てに

戦後の平和な日本で生まれ育ったせいなのか、近ごろの世界各地のテロ事件や、内戦やクーデターのニュースを知るたびに、不安で心がざわつき、しばらく他のことが手につかなくなります。

 

そして、被害に遭った人々の無念や、家族や友人たちがこれからどんな思いを抱えて生きなければならないかを考えると、やり切れない思いがします。

 

最近では、いつかどこかで自分が被害者になるかもしれないという考えも、簡単に頭から振り払うことができなくなりました。そういう恐怖心を抱かせることが、暴力で世界を変えようとする者たちの狙いだと分かっていても、そして、テロ事件などに巻き込まれるのは、交通事故に遭ったりする確率よりもずっと低いことを頭では理解していても、心にまとわりつくネガティブな感情を、理性で完全に封じ込めることはできません。

 

それにしても、政治的な暴力に手を染める人間は、多くの人々を殺し、傷つけることによって、そして、それ以上の人々に恐怖や反感を植えつけることによって、結局のところ、何がしたいのだろうかと思います。

 

そこには、彼らなりの政治的目的や「理想」があるのでしょう。あるいは、彼らは、個人として、組織として、さまざまな理由から絶望的な状況にまで追い詰められて、手段を選ばず、暴力で活路を切り開かざるを得なかったのかもしれません。逆に、そういう理屈でもつけなければ、彼らは自らの行為について、良心の呵責に耐えられないのではないかと思います。

 

しかし、彼らはそうした暴力の果てに、何らかの理想的な社会が実現できると、本気で信じているのでしょうか?

 

かりに、彼らの暴力が他の人々を力で圧倒し、その結果、彼らの「理想」が現実になったとしても、その新しい社会を担っていくのは、これまでと同じ、私たちのようなただの人間です。

 

彼らが、現在の世界に絶望し、あるいは強烈な不満を感じて、自らの怒りを行動に移しているのだとしても、そんな絶望的な世界を生み出したのと同じ人間が、ある日突然、彼らの「指導」のもとで、新しい理想社会を運営できるようになるのでしょうか?

 

暴力によって特定の誰かを排除し、何かを破壊し、あるいは、恐怖によって人々を新しいルールに従わせたとしても、社会を動かしていく大多数の人間が今までと何も変わらない以上、その試みは遠からず挫折し、みんながボロボロになってスタート地点に戻るだけに終わるのではないでしょうか。

 

そんな風に考えてしまうのは、人間の性急な「理想」が生み出すものについて、私自身がすっかり白けてしまっているからなのかもしれません。といっても、それは別に私がニヒリストだからではなくて、これまで人類が歴史の中で繰り返してきた悲劇の数々があまりにもおぞましくて、それを思い出さずにはいられないからなのですが……。

 

とはいえ、こういうことをいくら個人的に嘆いたところで、実際に暴力に訴える人々の行動を変えられるわけもないし、さらに問題なのは、各国の政府機関が全力を尽くしたとしても、彼らの内面にまで踏み込んで、暴力的な思考や行動を抑制することは不可能だということです。

 

私たちは、他者に対して、言葉で説得を試みたり、取り引きをするなどして、何らかの影響を及ぼすことはできても、最終的に相手が心の中で何を考え、決意するか、強制する力を持っていません。

 

たとえ世界中を敵に回しても、物理的・心理的にどれだけ追い詰められても、自分のやりたいことを断固として実行する彼らは、人間が、他人を意のままに動かすことはできないことの実例そのものですが、その彼ら自身が、暴力によって、人々を無理やり自分の価値観に従わせようとしているのは、実に皮肉なことだと思います。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

at 19:32, 浪人, つれづれの記

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ずっと昔の短編を読む

最近の、ネット上の無料コンテンツの充実ぶりは素晴らしく、ニュース・映画・音楽・ゲーム・マンガ・小説など、あらゆるジャンルにわたっていて、日々ものすごい勢いで増殖しつつあります。

また、プロが生み出す作品だけでなく、私たちのような一般人が公開したブログやSNSの投稿、さらには掲示板の匿名コメントまでが、今ではネット世界の重要な一部となっていて、誰もがそれを当たり前のように見たり利用したりするようになっています。

それに加えて、大量の有料コンテンツもあるわけですが、個人的には、もう無料のものだけで満腹状態だし、懐に余裕があるわけでもないので、さらに手間とカネをかけて、有料の世界までわざわざ探索しなくてもいいのではないかという気がしてしまいます。

でもまあ、そういう貧乏くさい考え方はきっと、長い目で見るなら、自分の世界を狭くしてしまうことになるのでしょう。それにたぶん、無料の世界をいくらウロウロしていても、最高のクオリティのコンテンツには巡り合えないだろうとは思います。

ただ、極端な話、自分は無料で与えられるモノだけでやっていくと覚悟を決めて、それ以外の世界など存在しないのだと割り切ってしまえるなら、それに越したことはないのかもしれません。あのロビンソン・クルーソーが、難破船から流れ着いたり、島で手に入るモノだけを頼りに生き抜いたみたいに、豊かなネット世界が日々吐き出し続ける「おこぼれ」だけで楽しめるなら、どの有料コンテンツを購入するべきか、みたいなことを、あれこれ思い悩む必要からも解放されて、むしろ、心にゆとりさえ生まれるかもしれません。

そんな風に考えて、近頃は、以前にも増して無料コンテンツを積極的に利用しつつ、自分はそれだけでも「サバイバル」できそうか、少し本気で考えてみるようになりました。

例えば、電子書籍に関しては、現時点ではいくつもの会社が参入し、電子書籍リーダーの規格もバラバラなので、個人的には、もう少し状況が落ち着いて、いちばん有利なサービスがはっきりしてから使い始めよう、くらいに考えて、ずっと傍観していたのですが、無料の電子書籍がけっこうあることに気づいてからは、Amazon のサイトをときどきチェックして、気になった無料本をどんどん Kindle にダウンロードしてみるようにしています。

その中には、無料キャンペーンなどで手に入る新作もあるのですが、そうした作品は、正直なところ、残念なものが大半です。単に自分の興味関心に合わないこともあるし、読みづらかったり面白くなかったりして、数ページで挫折するものもあります。そんなときは、作者の方には申し訳ないのですが、さっさと Kindle から削除してしまいます。

自分の経験から言えば、無料の作品だからといって、そこそこの内容で満足できるわけではなく、むしろ逆に、作品を見る目は有料のモノ以上に厳しくなる気がします。いったんカネを払ってしまうと、多少期待外れでも、せっかく自腹を切ったのだから楽しもうとか、楽しんだことにしたいという気持ちが芽生えたりして、つい評価が甘くなることがあるのですが、タダで手に入れたモノには、そういう迷いの入る余地が一切ないためか、ある程度以上の満足が得られないと、それにかけた手間や時間をムダにしたという後悔にとらわれてしまうのです。

タダで楽しませてもらっておきながら、何とも勝手な言い草ではありますが、まあ、人間というのはこういうものなのかもしれません……。

それはともかく、無料の電子書籍で、しかもそれなりのクオリティを求めるとなると、やはり青空文庫など、著作権の切れた、かつての名作を選ぶのが無難です。そして、長編だと、ハズレだった場合のダメージが大きいし、最近、ネット上の短い記事ばかり読んでいて、長い文章を読み通す力がすっかり衰えてしまったこともあり、読むのはもっぱら短編の小説やエッセイということになります。それに、短い作品なら、ふだん自分が手を出さないような、いろいろなジャンルをあえて試してみることもできます。

そうやって、かつて学生のころに名前だけは聞いたことのある作家や、名前すら知らない作家の作品を、タイトルに惹かれたというだけの理由で読んでみたりしたのですが、やはり、ずいぶんと昔の作品だけあって、同じ日本語で書かれていても、作品の舞台や登場人物の日常が今とはまるで違っていて、違う国の話のように感じられます。

それは、本の読みにくさの原因にもなるのですが、一方で、別世界をのぞき込んでいるような、新鮮で不思議な感覚ももたらしてくれます。現代とのさまざまな違いを知るたびに驚きがあり、ささやかな時間旅行をしているような楽しさがあるし、過去の社会や人々の内面を知ることは、今の世の中を別の視点から理解するヒントにもなります。

それでも、古い本を読んでいると、そこはかとない虚しさを覚えてしまうのも事実です。

これは、過去の作品自体に問題があるからではなくて、たぶん、ずっと昔の本を、今なぜ自分が読んでいるのか、そこに意味や必然性があるのかと、つい自問してしまうからなのでしょう。

もちろん、昔の作品の中にも、時代を超えて通用する普遍的なテーマを扱ったものはいくらでもあるし、作品に感動したり、そこからさまざまな学びを得ることも、十分に可能だと思います。

ただ、やはりどんな作品も、時代性というか、その当時の世の中のさまざまな特徴を色濃く反映しているのを感じるたびに、そうした世界にどっぷりと浸って生きていた同時代の人々でないと、そうした作品の真価は味わえないのだろうと思ってしまうし、結局のところ、自分は、ほとんど全く利害関係もない遠い世界のことを、ただ表面的に観察しているだけのような気がしてしまうのです。

そこには、今を生きている自分の切実な問題意識に直接響いてくるような感覚はあまりないし、むしろ、自分が本来いるべきではない場所に紛れ込んでしまったような戸惑いや、さらには、見当ちがいの場所で道草をして、貴重な時間をムダにしているような罪悪感すら覚えてしまうこともあります。

それはちょうど、異国の地を旅して、現地で暮らす人々とささやかなコミュニケーションをするなかで、人間はみな似たようなもので、大筋では分かり合えるんだな、という思いに浸りつつ、でも同時に、その地には、その地特有の細かな習慣やしがらみがあって、それはそこに長く暮らしてきた人にしか深く理解できないものだし、その点では私は「異邦人」であり「部外者」であって、現地の人々と本当の意味で分かり合うことはできないんだろうな、という寂しさを感じてしまうのと似ているかもしれません。

逆に、私が古い小説やエッセイよりも、現代のごく普通の人々が書くブログやツイートに魅力を感じるのは、きっと、私自身も同じ時代を生きる生身の人間として、いろいろな面で世の中の状況に深く巻き込まれていて、「今」に関わるものは何であれ、おのずと強い感情を呼び覚ますからなのでしょう。それらは、時代を超えて生き残る名作とは違って、あと数年、いや数か月、ひょっとしたら数日も経てばどうでもよくなってしまうようなものなのかもしれませんが、今、この時に関わっているというだけの理由でどうしようもなく惹きつけられ、そのささいな内容にさえ一喜一憂してしまうのです。

というか、これはたぶん、私の個人的な傾向というより、「今」を感じさせるものにより大きな価値を感じてしまうのは、みな同じなのではないかという気がします。そして、今は世の中の動きがとても激しく、未来の予測も難しいだけに、好むと好まざるとにかかわらず、誰もが、期待と不安に満ちた「今」という瞬間から目が離せなくなっているのではないでしょうか。

別の言い方をすれば、ネット世界やリアル世界で日々生み出されるコンテンツは、それが新しいというだけでものすごい価値があり、強烈に人を巻き込む力を持っているけれど、すぐに賞味期限が切れて、別の新たなコンテンツにとって代わられるということが繰り返されているのでしょう。そして、その激しい新陳代謝のサイクルのおかげで、古くなったコンテンツがどんどん無料や格安で放出されるのだと思います。

目の前にあふれる昔のコンテンツの山に価値を見出し、それを心ゆくまで味わおうとするなら、「今」という時の放つ、圧倒的な力と輝きにさえ心を奪われることのない、超然とした心を、まずは手に入れる必要があるのかもしれません……。


記事 本の「賞味期限」


JUGEMテーマ:読書

at 19:01, 浪人, つれづれの記

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