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ピチャンの砂丘

シルクロードを旅していたときのことです。

中国のウイグル自治区、トルファン(吐魯番)の近くにピチャン(ゼン善)という町があります。特に見どころもない地味な町なのですが、ハミ(哈密)からトルファンに向かう途中で知り合った日本人留学生から美しい砂丘が見られると聞いて、一緒に立ち寄ってみることにしました。

シルクロードといえば砂漠、砂漠といえば地平線まで続く砂丘というイメージがありますが、実際にバスで移動をしていると、ゴツゴツとした荒野の風景が続くばかりで、童謡「月の沙漠」のような、絵に描いたようなロマンチックな光景に出会うことはほとんどありません。

もちろん、例えば敦煌の鳴沙山のように、美しい砂丘が見られるところもあるのですが、鳴沙山の場合、街からすぐに行けるためか、狭い砂丘エリアに大勢の観光客が群がっているし、砂の上は足跡だらけで、雰囲気に浸ることが難しかったりします。

ピチャンの砂丘も街の郊外にあるということなので、あまり期待はしていませんでした。

昼過ぎにピチャンに着き、陽射しが弱まるのを待って、夕方8時頃、市内バスに乗って街の南端にある「沙山公園」に向かいました。

入園料を払って中に入ると、公園らしい施設など何もなく、すぐに砂丘が広がっています。私たち三人の日本人のほかに客は誰もおらず、園内は静まり返っていました。視野いっぱいの砂丘に圧倒され、どちらに行けばいいのか分かりませんでしたが、とりあえず目の前の砂山の頂上まで上がってみることにしました。

夕暮れ時なので暑さはそれほど感じません。砂に足をとられながらゆっくりと登っていくと、風景はますます神秘的になっていきます。

何度も立ち止まって写真を撮ったりしているうちに、いつの間にか同行の二人は先に行ってしまい、私一人になっていました。最初の砂山を乗り越え、砂丘の間の窪地に降りてみると、周囲は360度砂丘だけになり、耳に入ってくるのは遠い鳥の声と微かな風の音だけです。

砂の表面には全く足跡はなく、人間社会はおろか、動物の痕跡さえも見当たりません。夕陽を浴びてオレンジ色に染まった美しい風紋となめらかな砂丘の稜線が、幻想的な雰囲気をかもしだしていました。

しばらく一人で砂漠の静寂を楽しんでから、別のさらに高い砂丘を登ったところで二人と合流しました。そこからは、街の南側に広がる無人の荒野がはるか彼方まで続いているのが見えます。それが街外れの風景だというのが信じられませんでした。

どうやらそこが「沙山公園」のビューポイントだったようです。私たちはそこで、地平線の向こうに夕陽が沈んでいくのを見守りました。

空気が少しヒンヤリとしてきたので靴を脱いでみると、砂はもう熱くはなく、サクサクとした感触が足に心地よく感じられます。私たちは子どものようにはしゃぎ、歓声を上げながら裸足で砂丘を駆け下りました。

公園の入口まで戻ると、売店でビールを売っていました。こんな場所では奇跡的なことに、ビールはギンギンに冷えています。三人で乾杯し、ビールをラッパ飲みしながら、このささやかな快楽を心ゆくまで味わいました。

at 20:17, 浪人, 地上の旅〜中国

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カギ番の小姐

今はどうなっているのか分かりませんが、私が中国の田舎を旅した頃は、外国人は指定された国営の招待所にしか泊まれないことになっていました。

国営の宿は、建物は古いし従業員も無愛想で、居心地のいいところではありません。自由に宿を選べる状況であれば、絶対に選ばないタイプの宿なのですが、これは強制なので仕方がありません。中国人の旅行客が、もっと清潔でサービスも良さそうな、小ぢんまりとした民宿に泊まっているのを横目に見ながら、「この国を自由に旅行させてもらっているだけでもありがたいと思わなきゃ!」と自分に言い聞かせるしかなかったのです。

しかし、あえて善意に解釈するなら、中国滞在中ほとんど毎日、そんな居心地の悪い宿に泊まっていたおかげで、他の国では味わえない貴重な体験を積むことができたと言えなくもありません。

ほとんどの国営招待所は、殺風景で煤けたコンクリートのビルで、各フロアの廊下にカウンターがあって、そこに「カギ番」の小姐がいます。宿泊客は部屋のカギを渡してもらえず、部屋に入る時は、そのつど小姐にお願いして、部屋のカギを開けてもらうシステムになっているのです。

小姐とは、中国語で「お嬢さん」といったような意味ですが、食堂や宿で働いている中年のオバサンも小姐と呼ぶことになっています。国営招待所のオバサン方を見ていると、とても「お嬢さん」と呼ぶ気はしないのですが、これも慣習なので仕方がありません。

なぜカギ番が必要なのでしょうか? 他の国のように客に部屋のカギを持たせても、何の問題もなさそうな気がするのですが、カギを客に持たせると、何か良からぬことをするのではないかと疑っているのでしょうか。それとも沢山の従業員を雇うための一種の雇用対策なのでしょうか。

それはともかく、部屋のドアは自動ロックになっていて、扉を閉めると自動的にカギがかかるようになっているので、一度ドアを閉めてしまったら、小姐にカギを開けてもらわなければなりません。

小姐はずっとフロアのカウンターに座っているわけではなく、用のないときは近くの小部屋でTVを見たりしています。時には小姐がどこにも見当たらず、彼女が持ち場に戻ってくるまでひたすら待つしかないこともありますが、運良く部屋の中にいたとしても、こちらの気配を察して出てきてくれるなどということはないので、「小姐!小姐!」と大声で叫んで注意を引かなければなりません。

オバサンは、TVに夢中なのか、応対するのが面倒なのか、こちらが叫んでも知らんぷりをして、部屋から出てきてくれないこともあります。ナイーブな日本人なら、これだけで相当めげてしまうのですが、こんなことで引き下がるわけにはいきません。小姐がカギを開けてくれない限り、私は部屋に入ることができないのです。彼女の気が向くまで、部屋から締め出されたまま、イライラと無駄に時間をつぶすくらいなら、オバサンに嫌われても、しつこく食い下がるしかありません。

何度かしつこく呼び続けると、嫌そうな顔をして小姐が部屋から出てきます。手にはフロアーすべての部屋のカギがぶら下がったカギ束をジャラジャラさせています。通常は、小姐がそのままドアの前まで歩いていって、カギを開けてくれるのですが、ある時など、「自分でやれ!」と言わんばかりに、カギ束を投げられたこともあります。

その時、私はカウンターから20メートルくらい離れた自分の部屋のドアの前まで来ていたのですが、小姐はカウンターの所から勢いよくカギ束を放り投げたのです。カギは廊下の上をガシャーッと引っ掻きながら、私の足元まで滑ってきました。私はそれを拾い上げ、自分で部屋のカギを開けましたが、さすがにそれを投げ返すのもはばかられ、歩いて小姐に返しにいきました。

こんなわけで、金を払って泊まっているのに、カギを開けるたびに、いちいち不機嫌な小姐にお伺いを立てなければならないというのは苦痛でした。

自分が外に出かけて数時間戻ってこないような場合は、当然カギをかけるしかないのですが、困るのはトイレやシャワーに行く時です。二人以上で旅をしたり、ドミトリーで同室の客がいたりするなら、部屋の中からカギを開けてもらえば済むのですが、一人だけで部屋を使っている時には、トイレに行くたびに部屋のドアを閉めていたら、一日に何度も小姐にお願いして、カギを開けてもらわなければならなくなります。

中国を旅していると、どんな人でも多少は図太くなるものですが、それでも私には、一日に何度も小姐に嫌な顔をされるのは苦痛でした。

仕方なく、トイレやシャワーなど、短時間だけ部屋を出る時は、ドアを半開きの状態にしておいて、用を済ませたら、できるだけ早く部屋に戻るようにしました。といっても、ドアを開けっ放しにしたまま部屋を離れるのは不安なものです。トイレならまだしも、シャワーの場合など、10分くらいは戻ってこられないので、目を離したスキに、誰かに荷物を盗まれることも考えられます。

そのため、人が中にいるように見せかけるために、部屋のテレビをつけっ放しにしておいたり、バックパックをベッドの枠にワイヤーで縛りつけてみたりと、涙ぐましい努力もしました。今思い返すと、ちょっと心配のしすぎだったし、もっと気楽な気持ちで小姐にカギを開けてもらえばよかったのかもしれませんが、当時は長旅で疲れていたせいか、毎日のように無愛想なオバサンたちに邪険に扱われることが相当こたえていたのでしょう。

今になって冷静に考えてみれば、招待所の小姐たちも、いわゆる「田舎の国営企業」的なスタイルを無意識のうちに身につけていただけで、宿泊客に対して意識的に邪険にしていたわけでもないでしょう。彼女らにとって、カギを何回開け閉めしても、客に喜ばれるサービスをしても、もらえる給料は同じだったはずです。そういう条件であれば、長年のうちに、一番労力が少なくて済む、自分本位の楽なやり方に落ち着いていくのは必然だったのかもしれません。

しかし、私が旅していた頃でも、すでに国を挙げての経済政策の大転換が進行していました。今後は、中国の辺境といえども、昔の国営企業的なスタイルが生き残っていくのは難しいでしょう。あと10年か20年もすれば、かつての国営招待所のような接客態度は、一つの時代の象徴として、むしろ一種の懐かしさをもって語られるようになるのかもしれません……。

at 21:23, 浪人, 地上の旅〜中国

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好運?不運?

中国の雲南省を旅していたときのことです。

金平(ジンピン)を早朝に発つバスで個旧(ケチウ)に向かいました。このルートは雲南の山中を走るので、悪路を登ったり下ったりという、なかなかしんどい旅になりますが、時には尾根道からはるか下の谷底まで棚田が続く、目の覚めるようなパノラマが楽しめたり、沿道を行き交う少数民族のカラフルな民族衣装を見ることもできて、退屈する心配はありません。

昼過ぎ、そろそろ個旧にも近づいてきたかと思われる頃、山道を登っていると突然破壊音がして、バスの左前輪が外れてコロコロと転がっていくのが窓から見えました。あっけにとられる間もなく、バスはガラガラと道路を豪快に引っかくと、道の真ん中に「座礁」してしまいました。

とりあえず全員が外に出ましたが、前輪部分が派手に壊れていて修理の余地もないらしく、運転手も車掌の小姐も途方に暮れるばかりです。バスが狭い山道を塞いでしまったので、やがて前後に車の列が出来はじめました。

私は、「こんな状態では、レッカー車か何かが到着するまで、前にも後ろにも進めないな」とぼんやり考えていました。しかしそもそもこんな山の中にレッカー車なんていうものがあるのか、あったとしても渋滞の中どうやってここまでたどり着けるのか想像がつきませんでした。

そしてそんなことよりも、下り坂やスピードの出ているときに車輪が外れなくて本当によかったと思いました。もしそうなっていたら、私たちはバスごと谷底に落ちていたかもしれません。

そうこうしているうちに、待ちきれなくなった後続の車が、崖側に残ったわずかな隙間をゆっくりと通過して無事反対側に抜けました。私たちも協力して岩の破片を崖側に敷き詰め、通りやすくすると、後続のバスも反対側に抜けることができました。

私たちはそのバスに乗り換えると再び個旧に向けて出発しました。

バスが順調に山道を走っていると、再びガシャン!という衝撃と破壊音がしました。何が起こったのか一瞬分からず、「爆発か?」と思いましたが、次の瞬間ガラスの破片がバラバラと後ろから飛んできたので、追突されたのだと分かりました。

バスは衝突ではずみがついたのか、急加速して坂道を滑り降りていきます。対向するトラックを何とか左にかわしたものの、まだブレーキが効いていないようでした。

スローモーションでも見ているみたいに、全ての状況がハッキリと目に飛び込んできます。「このまま谷底に落ちて死ぬのかな」と思いました。一瞬のことで体は動かず、妙に冷静でした。

ブレーキが間に合って、バスは何とか道路上で止まりました。乗客がわれ先に飛び降ります。後ろを見ると、追突してきたのは後続のバスのようで、今私たちがよけた対向車のトラックにもぶつかって止まっていました。後ろのバスのドライバーは額を割って血を流していましたが、見たところそれほどの重傷ではなさそうだし、他にケガ人もいないようです。

とにかく大惨事はまぬがれたものの、事故現場を保存することになったらしく、その場で足止めを食うことになりました。再び前後に渋滞が発生し、乗客のほかにもあちこちから大勢の見物人がやってきて、事故現場の周りでワイワイと議論が始まります。近所に住んでいるのか、カラフルな衣装の少数民族の人々も見物にやってきました。

1時間すると、やっと公安のパトカーがやって来て、デップリと太ったオヤジさんと若い男女の助手が現場検証を始めました。その間、渋滞で止まっているトラックの中には、積荷を下ろしてミカンやお菓子を売る商売人も現れました。ヤジ馬も興奮して「祭り」状態なのか、待たされてイライラしていたのか、そうしたお菓子が飛ぶように売れていきます。

事故から2時間くらいたってようやく検証が済みました。どの車も派手にガラスが割れ、ボディもグシャグシャでしたが、なんとか走ることはできたので、バスは再び乗客を乗せて出発しました。

結局、日も暮れようとする頃になって、ようやく個旧にたどり着きました。夕暮れの光の中で見たせいか、個旧はホコリっぽい、レンガ色の街でした。

今になって思えば、一日に二度も事故に遭いながら、乗客全員カスリ傷も負わず、無事終点までたどり着けたのは非常な好運だったような気がします。いずれのケースも一歩間違えれば全員が谷底に落ちて、誰も助からなかったかもしれません。しかし一方では、本当に運がいい人なら、こんな事故には遭わないという気もします。

事故に遭いながら難を逃れるというのは、好運なのでしょうか、それとも不運なのでしょうか?

at 19:26, 浪人, 地上の旅〜中国

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