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ブッダガヤで除夜の鐘

長い旅をしていると、新年をどこの国のどんな街で、どんな風に迎えるかを考えることが、けっこう大きな楽しみになったりします。

というより、日本人にとっての正月のような、生活上の晴れやかで大きな節目を、長い放浪生活の中でどうやって作り出していくかというのは、実は、旅人にとってかなり切実な問題なのです。

気候も風土もさまざまな国々を渡り歩いているうちに、旅の日常からはどうしても季節感が失われてしまうし、旅が長くなると、初めての土地を訪れているにもかかわらず、新鮮な感動があまり感じられなくなってしまったりします。

そんなときは、メリハリのなくなった旅に刺激やアクセントを加えるために、旅のペースやルートを思い切って変えてみたり、いままでやったことのないことに挑戦してみたり、しばらく一つの街に落ち着いてみたりと、旅人はさまざまな工夫を試みるのですが、私の場合は、1月1日をどこで過ごすのかをあれこれ考え、その日に向かって自ら旅を盛り上げるように企画することが、そうした工夫の一つだったのかもしれません。

といっても、アジアでは、新暦の1月1日を盛大に祝うという習慣のない国が多いので、よほどの大都市でもなければ、現地の人と一緒にカウントダウンで盛り上がるようなことはできないでしょう。

だからこれは、自分の旅の節目をどう演出するかという、あくまで個人的な問題です。

自分としては、新年の初めをどんな土地で過ごすのがベストか、ガイドブックの情報、旅人からの情報、今までの経験などを総合し、いろいろと頭の中でシミュレーションしてみて、その土地に足を運び、実際に心に残るような一日を過ごせるかを試すという、一連のプロセス自体が楽しみだったのです。

もう何年も前、インドを旅していたときのこと、その年、私はバラナシ(ベナレス)でクリスマスを迎えました。

私はクリスチャンではないし、クリスマスに特に思い入れがあったわけではないのですが、たまたま宿泊していたゲストハウスのインド人オーナーが、宿泊客のためにささやかなクリスマスパーティーを企画してくれ、その日の夜はみんなで楽しく盛り上がりました。

バラナシは、治安の面でやや問題を感じるものの、その気になればいくらでも長居できそうな魅力的な街です。ゲストハウスも居心地がよかったし、急いでそこを出る必要はなかったのですが、私個人の気持ちとしては、新年をもっと静かで落ち着いた場所で迎えたいという思いがありました。

やっぱりブッダガヤかな……。

ブッダガヤ(ボドガヤ)は、バラナシからはそれほど遠くありません。お釈迦さまがさとりをひらいた歴史的な場所で、仏教徒にとっては最大の聖地です。

しかし、そこがどんな雰囲気の場所なのか、行ってみないことには全くわかりません。少なくともバラナシより田舎であることは確かですが、ブッダガヤも有名な観光地です。観光客の集まるところは、旅行者向けの便利な設備が整っていてそれなりに快適なのですが、街の人々がスレていることが多いので、行ってみたら「大ハズレ」という可能性もあります。

勝手知ったるバラナシに居続ければ、少なくともガッカリしながら元旦を過ごすという失敗はしなくてすみそうでしたが、新年まであと数日というところで、私は思い切って列車のチケットを買い、ブッダガヤに向かいました。

列車が6時間遅れたので、鉄道駅のあるガヤに着いたのは真夜中でした。駅前の安宿で朝まで仮眠をとり、乗り合いオートリキシャに乗ってブッダガヤを目指しました。

ガヤの街を出ると、すぐに周囲はのどかな田園風景になり、いかにもインドの田舎にやってきたという感じがします。しかし、ガタガタ道を揺られながら数十分、初めて見る聖地ブッダガヤは、想像以上ににぎやかでした。

後で知ったのですが、数日前までダライラマ法王が滞在されていたそうで、村はえんじ色の僧服をまとったチベット仏教のお坊さんたちでごった返していました。また、欧米人ツーリストやバックパッカーもかなりいるようです。

さらに、インド名物の怪しいみやげ物売りもそこらじゅうにいて、道を歩けば次々に日本語で声をかけてきます。

やはり、ここは典型的なインドの観光地でした。ちょっと考えてみれば、そんなことは始めから想像できたはずなのですが、ひなびた村で静かに元日を過ごそうなどという私の甘い期待は、早くも無残に打ち砕かれてしまったのでした。

それでも気を取り直し、村の中心にあるマハボディ寺院に参拝しました。何だかんだ言ってみても、やっぱりブッダガヤは昔から行ってみたい場所だったし、お釈迦さまがさとりをひらいたとされる場所にある菩提樹と金剛座を目にしたときには感動しました。

仏教はここから始まり、それから何百年もかけ、多くの人々の情熱によって日本にまで伝わったのかと思うと、さまざまな思いがこみ上げてきます。

境内には、数百人ものチベット僧が集まって祈願祭が行われている最中で、さらにその周囲には五体投地で祈る人々も大勢いて、壮観な眺めです。

夕方になると、参拝者が境内の至るところにロウソクを置いて、次々に火をともしていきます。暗闇に浮かび上がる大塔と無数の灯火が生み出す光景は、何とも美しく、幻想的でした。

大晦日の夜。

私は、年越しの瞬間を迎えるために、日本寺で行われる「除夜会」に向かいました。

日本寺では、ふだんは朝夕に本堂でお勤めがあり、そこで一般の人が座禅を組むこともできるのですが、その日は夜間も本堂が開放され、インド音楽の演奏会など、年越しの特別プログラムも組まれていました。

夜の11時になると、境内に集まった多くの人々に、年越しそばがふるまわれました。

といっても、大勢に少しずつ出されるものなので、腹一杯食べるというわけにはいかないし、正直なところ、「うまい!」と感激するほどの味ではありません。それでも、こうして異国の地で日本食をいただけるというのはありがたいものです。

日本を出て以来、そばなどというものは久しく食べていなかったので、日本での年越しを思い出しつつ、しみじみと味わいました。

食べ終わった頃に、除夜の鐘が鳴り始めました。集まっていた人々は、順番に鐘を撞かせてもらえます。

実は、私はブッダガヤの日本寺で、生まれて初めて除夜の鐘というものを撞きました。

100人以上にもなろうかという、国籍もさまざまな人々が、一人一回ずつ鐘を撞いていくのですが、たぶん私と同様、他の多くの人たちも、大きな鐘を撞くというのは生まれて初めてだったのではないでしょうか。

そこには、NHKの「ゆく年くる年」の映像のような、厳粛さで身の引き締まるような雰囲気はありませんでした。日本人や欧米人のバックパッカー、アジア各国からやって来た仏教徒やインド人など、大勢の人々が、遊園地のアトラクションでも楽しむようにキャッキャッと笑いながら、和気あいあいと、一人ずつ鐘撞きのパフォーマンスを演じていきます。

それは、108回ではとても収まらず、並んでいた全員が撞き終わるまで、除夜の鐘は延々と鳴り続けたのでした。

北インドの冬は、実はけっこう寒いので、みんなで境内の焚き火を囲んでいると、新年の瞬間がやってきました。

そこには、派手なカウントダウンもなければ、どんちゃん騒ぎもありません。集まった人々のあいだで、新年を祝うささやかな言葉が交わされ、和やかなムードが広がり、やがてその波が収まると、人々は静かに自分たちの宿へ帰っていきました。

私も寺を後にして、暗く静かな夜道を歩いていると、新しい一年が始まったんだという実感が、静かに湧いてきました。

考えてみれば、年越しの瞬間を他のにぎやかな場所ではなく、わざわざブッダガヤの日本寺みたいな場所で迎えようという旅人は、ある意味では私と同類で、静かにしみじみと、でも一人ではなく、みんなでどこかに集まって、一緒に新年を祝いたいと思っていたのかもしれません。

「除夜会」には、派手なアトラクションはないし、もちろん酒も入らないし、参加した人々が大いに盛り上がるという感じでもなかったのですが、さまざまな国からやってきた人々が、ただそこに一緒にいて、和やかに新年を祝う、とてもいいイベントだったように思います。

皆さんも、もしインドを旅行中に新年を迎えることになったら、いろいろな年越しプランの中に、ブッダガヤで過ごすという選択肢も加えてみてはいかがでしょうか?

もっとも、今年も日本寺で年越しそばが食べられるかどうかは分かりませんが……。


印度山日本寺ウェブサイト


JUGEMテーマ:旅行

at 18:56, 浪人, 地上の旅〜インド・南アジア

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ポカラのチベット難民

ネパールの観光地ポカラは、バックパッカーの「沈没地」としても有名です。

湖水に映る美しいヒマラヤの眺めと、穏やかで過ごしやすい気候、静かでのんびりとした街の雰囲気、安いゲストハウス、おいしい各国料理など、沈没系バックパッカーには美味しすぎる条件がそろっていて、そのあまりの居心地のよさに、つい長居してしまう旅人が多いのです。

特に、暑くて騒々しいインドからやってきた旅人にとって、そこはまるで天国のように見えるようです。

それでも、あえてポカラの欠点を探してみるなら、その一つとして考えられるのは、ポカラ名物のパワフルな物売りのオバサンたちに、みやげ物を買うように迫られることかもしれません。

彼女たちはチベットからの難民で、売り歩いているのは、チベット密教テイストのアクセサリー類です。オバサンたちが背負っているデイパックの中には、そんな商品がギッシリと詰め込まれており、ホテルの中庭だろうが、食堂の中だろうが、道端だろうが、人の良さそうな旅人をつかまえては、その場で売り物がズラリと広げられ、「商談」が始まるのです。

オバサンたちは、決して買うことを強制するわけではありませんが、客がその日に何も買わなくても、また次の日に道端で会えば、同じことが繰り返されます。アクセサリーを売り歩くことは、難民キャンプに生きる彼女らとその家族の生活を支える手段であり、みんな必死なのです。

そのことを知っていて、チベタン(チベット人)に同情的な旅人はもちろん、オバサンたちの熱意に根負けした旅人も、何か一つくらいは買ってあげてもいいかな、という気持ちになるのですが、オバサンたちもなかなかしたたかで商売上手、提示する言い値は決して安くはないのです。

もっとも、それはインドやベトナムの物売りのしつこさとは比較にならないほど穏やかなものだし、値段も結局は交渉次第、場合によっては物々交換も可能です。そうした物売りのあしらいに慣れている旅人なら、何も恐れる必要などないでしょう。

ちなみにオバサンたちは、客のいないときにはみんなで木陰に座り込んで、おしゃべりをしながらミサンガや、ちょっとした小物づくりに精を出しています。

何かを買った客には、おまけ(?)としてそのミサンガをくれるのですが、それを手首につけて歩いていると、他のチベタンの物売りは声をかけてこないか、あるいはそれを見せて、もう別の人から買ったと告げれば、素直に引き下がってくれます。

つまりこれは、すでにチベット難民の誰かからおみやげを買ったという「領収書」代わりになっていて、ポカラの街をオバサンたちにつかまらずに自由に歩ける一種の通行証というか、関所手形みたいな機能を果たしているわけです。

私がかつてネパールを旅していたときには、ポカラにかなり長居したので、さすがにオバサンたちを避け続けるわけにもいきませんでした。

その中の一人からおみやげを買ったのをきっかけに、ポカラのダムサイド・エリアを巡回するチベタンの物売り全員と顔見知りになり、結局はすべてのオバサンからアクセサリーを一つずつ買う羽目になってしまいました。

しかし、私はそのことで、優良顧客として認定されたようです。その後、あるオバサンの一家に、難民キャンプまで食事に招待されたこともありました。

もっとも、食事の後には、例によってテーブルの上に商品がズラリと並べられるので、これはまあ、「お食事つき商談会」みたいなものだったのですが……。

それでも、オバサンたちと少しずつ親しくなり、バター茶をもらったり、互いにカタコトの英語で話をしたりしているうちに、彼らチベット難民の背景や、現在の暮らしぶりについて、私も少しずつ知るようになりました。

彼らは、(ポカラの難民キャンプの全員がそうなのかは分かりませんが)、西チベットから数十年前に脱出してきた人々らしく、オバサンの一人は、かつて自分たちはカイラス山(カン・リンポチェ)の近くに住んでいたのだと言っていました。

それを聞いて、彼らがポカラにいる理由がわかったような気がしました。

ポカラからはマチャプチャレを始めとするヒマラヤの山々を望むことができるし、ペワ湖という湖もあります。それが、聖地カイラス山とマナサロワール湖(マパム・ユムツォ)などの湖のある、美しい西チベットの故郷を思い出させるのではないでしょうか。

しかし、彼らはもうすでに何十年もの間、難民キャンプで暮らしているのです。

彼らは、いつになったらチベットに戻ることができるのでしょう?

私は当時、チベット問題について詳しく知っていたわけではありませんが、その問題が、近いうちに解決するような生易しいものではないことぐらいは承知していました。

チベット難民の人々は、タテマエとしては、いつか故郷へ戻れる日がくるまで諦めないと言っていましたが、実際のところ、もしかするともう故郷には帰れないのではないかと、半ば覚悟しているようにも見えました。

それに、亡命から数十年が過ぎ、当時子供だった難民も中年となり、すでに二世、三世もいます。子供たちは故郷を一度も見たことがなく、難民キャンプでの生活しか知りません。その一方で、かつて彼らが住んでいた西チベットには、漢民族の入植が進められているし、現地に踏みとどまったチベット人たちも生活の基盤をしっかりと固めています。

仮に今すぐチベット問題が解決したとしても、難民が自分たちの故郷に再び居場所を見つけるのはとても難しいだろうし、チベット高原での厳しい暮らしに適応するための能力や生活文化も、今や失われつつあるのではないでしょうか。

かといって、故郷に戻ることを断念し、新天地を求めて欧米やアジアの国々に移住することも、それが可能かどうかは別として、とても辛い選択にならざるを得ないでしょう。

彼らは、チベットに戻ることも、難民であることをやめることもできないまま、数十年ものあいだ、宙ぶらりんの状態で難民キャンプに暮らし続けています。それは、物質的な欠乏以上に、精神的にも非常に苦しいことだと思います。

彼らはこれからどうなるのでしょうか。そして、彼らの子供たちは、自分のアイデンティティをどこに求め、どう生きていくのでしょうか。私は、チベット難民の置かれた状況を思うと、とても重苦しい気持ちになりました。

それでも、オバサンたちは、毎日たくましく、したたかにみやげ物を売り歩いています。その元気な姿を見ていると、大丈夫、きっと彼らは必ずどこかに生きる道を見出していくはずだ、という気もしてくるのですが……。

今年の春、チベット各地で起きた騒乱や、北京オリンピック聖火リレーでの国際的な騒動など、チベットをめぐる問題がマスメディアで報じられるたびに、私はポカラの難民キャンプのオバサンたちや、その家族のことを思い出していました。

オリンピックが終わった今、チベットへの国際的な関心は薄らぎ、チベット人の居場所をめぐる切実な問題には何の解決ももたらされないまま、時間だけが虚しく過ぎていこうとしています。


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at 19:00, 浪人, 地上の旅〜インド・南アジア

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蚊を殺すことなかれ?

インドを旅していたときのことです。

お釈迦さまがさとりをひらいたとされる聖なる地で新年を迎えようと、12月の末にブッダガヤー入りしました。

初めてのブッダガヤーは、思ったよりもにぎやかな村という印象でした。何となく、時間の止まったような、さびれた寒村を勝手にイメージしていたのですが、えんじ色の僧衣をまとった大勢のチベット僧が村のメインストリートをそぞろ歩いているし、地元のインド人たちは私を目ざとく見つけると、次々に日本語で話しかけてきます。そして沿道に並ぶ大勢の物乞い……。

考えてみれば、ここは世界中から仏教徒の巡礼や観光客が訪れる超有名な聖地です。そこに聖俗ひっくるめてさまざまな人間が集まってくるのは当然のことなのでした。それに加え、私が到着する数日前には、ダライ・ラマもこの地を訪れていたそうです。そのために、ふだんにも増してブッダガヤーがにぎわっていたのかもしれません。

私は、せっかく仏教の聖地にやってきたので、普通のゲストハウスではなく、お寺に泊まってみたいと思っていました。ここにはアジアの国々が建造した仏教寺院がいくつもあって、場所によっては旅人も泊まることができるというのです。

まず日本寺に行ってみましたが、団体以外の宿泊は受けつけていないということで断られました。次に、ガイドブックの情報を頼りにミャンマー寺に行ってみると、個室はすでに全て埋まっているものの、ドミトリーなら泊まれるとのことでした。

案内された場所は、ふだんは駐車場か倉庫にしているような、だだっ広く窓もない地下室で、そこにベッドが無造作に並べられているだけでした。薄暗く、入口にはドアもありませんでしたが、ベッドの脇にバックパックがいくつも置かれているところを見ると、かなりの宿泊者がいるようでした。

ふだんなら、こんなところに泊まろうとは思わないのですが、お寺にこだわっていた私は、とりあえず今日一日だけでもここに泊まって様子を見てもいいかな、という気持ちになっていました。お寺の宿坊ということで、ドネーション(喜捨)を20ルピー程度払うだけでいい、というのも魅力でした。

ただ、一つだけ気がかりだったのはドアがないことでした。セキュリティー上の不安もありましたが、それ以上に蚊の被害に遭いそうでした。しかし、ドミトリーには蚊帳もなければ、蚊取り線香を焚いている気配もありません。

私は蚊取り線香をいつも持ち歩いていたので、いざとなれば自分のを使ってもよかったのですが、欧米人バックパッカーの中には、あの煙の匂いを非常に嫌がる人がいるので、ドミトリーでは使うのがためらわれます。それに、何よりもここは仏教寺院。大っぴらに蚊取り線香を使ったりしたら、「不殺生戒」に触れるのではないかという気がしました。

ミャンマーの仏教は上座部仏教と呼ばれ、厳しい戒律があります。やっぱり、お寺に泊まる以上は、そういうものを使っちゃいけないんだろうな……。別に、そういう掲示があったわけでも、お寺の誰かに言われたわけでもないのですが、一般人の私も、ここではそのくらいのルールは守るべきだろうと思ったのです。

とにかく私は、そこに泊まることに決め、荷物を置くと、ブッダガヤーの村をぶらぶら散歩したり、お釈迦さまがさとりをひらいた場所とされる「金剛座」のあるマハーボーディ寺院に参詣したりして午後を過ごしました。その間、万が一のために、近くの薬局で虫よけ用の軟膏も手に入れておきました。

夜、夕食をとっていた食堂で日本人旅行者に会い、旅の話などでしばし盛り上がったあと、宿坊に戻りました。

冬の北インドは朝晩けっこう冷え込むので、私はバックパックから寝袋を取り出して中に入りました。これなら手足は寝袋の中なので、蚊に刺される心配はなさそうです。私は顔だけに虫よけクリームを塗りました。蚊取り線香はなくても、これで何とかなるだろうという気がしました。

しかし、私はインドの蚊というものを甘く見すぎていたようです。

消灯後のドミトリーの暗闇の中、眠りが訪れるのを待っていると、蚊が飛び交うプーン、プーンという耳障りな羽音が途切れることなく聞こえてきます。そのうっとうしさ、気味の悪さに目が冴えてしまって眠ることができません。

虫よけのおかげで、あまり刺されずに済んではいるものの、それでも蚊は、虫よけを塗りそこなった部分を狙って攻撃してくるようで、時間とともに少しずつ被害が出始めました。

そのかゆさに、目はますます冴え、イライラした私は何度もクリームを取り出して入念に塗り直しました。そんなことを繰り返しているうちに、虚しく時間だけが過ぎていきます。

しかし、夜中の2時頃になると、状況が一変しました。

まるで何かのスイッチが入ったように、蚊の大群が怒涛の攻撃をしかけてきたのです。もう、虫よけクリームなど何の役にも立ちませんでした。血に飢えた蚊の群れが、ウワーンといううなりをあげて、次から次へと私の顔に殺到し、狂ったように刺しまくるのです。

私はもうパニック状態で、「不殺生戒」のことなどすっかり忘れ、顔にたかってくる蚊をつぶすのに必死でした。ドミトリーの全員が攻撃を受けているのか、部屋のあちこちから、「う〜ん、う〜ん」という、うめき声が聞こえてきます。

しかし、考えてみればこれは実に不毛な戦いでした。ドアのない地下室ということは、屋根があるというだけで、実質的に野宿をしているのと同じです。目の前の蚊をいくらつぶしてみたところで、蚊はいくらでもやってくるのです。

私は、とてもみじめな気分でした。

お寺に泊まることにこだわったりせず、あと数十ルピー余分に払って普通のゲストハウスに泊まっていれば、お寺の境内でこんな風に夜通し蚊を殺生し続けるようなことはしなくて済んだのです。

聖地だからといって敬虔な仏教徒を気どり、インドの自然を甘く見たことに、強烈なしっぺ返しを受けたような気がしました。

明け方近くなると、必死の戦いもなんとか峠を越えたようでした。蚊の襲撃が完全に終わったわけではありませんでしたが、それまでほとんど一睡もしていなかった私は、前日の移動の疲れもあり、みじめな敗北感に襲われながら、トロトロと眠りに落ちていきました。

翌日、私は寺にこれ以上泊まることを断念し、ゲストハウスの個室に移りました。そこで遠慮なく蚊取り線香を使用したのは言うまでもありません……。


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at 19:08, 浪人, 地上の旅〜インド・南アジア

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