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旅の名言 「小学生の頃の夏休みが……」

旅には、目くるめくときめきが待っていた。
 小学生の頃の夏休みが、ずーっとつづいている。
 まぶしい太陽があって、あまいにおいのする森があって、土が濃くにおって、カブトムシがいて、深い闇があって、妖怪がいて、村祭のおはやしに胸をさわがせ、自由で、いくら遊んでも遊びたりない夏休み……
 南の国を長く旅していると、そんな気がする。


『竜(ナーガ)の眠る都』 伊藤 武 大栄出版 より
この本の紹介記事

タイとカンボジアを舞台にした異色の冒険ファンタジー、『竜(ナーガ)の眠る都』からの一節です。

主人公のガンテツは、日本社会をドロップアウトした放浪の旅人です。アルバイトで食いつなぎながら文化人類学を研究し、世界各地を渡り歩くガンテツの姿は、著者の伊藤武氏の分身でもあるようです。

冒頭の引用は、主人公が南の国への旅について語った部分なのですが、その旅の「目くるめくときめき」が、「小学生の頃の夏休み」に喩えられています。

インドや東南アジアを旅するバックパッカーなら、「夏休みが、ずーっとつづいている」というその表現に、大いに共感できるのではないでしょうか。

まぶしい太陽と色彩の洪水、街の喧騒や動物たちのにぎやかな声、花々や香辛料のむせかえるような匂い、辛くてエキゾチックな味覚の世界、そして皮膚にまとわりつく湿った空気……。

南の国では、すべてが五感に強烈に訴えかけてきます。

そしてそこには、なぜか奇妙な懐かしさがあります。

南の国への長い旅は、日常生活に疲れていた大人に、解放感や自由な感覚、子どもの頃のような伸び伸びとした気持ちを思い出させるだけでなく、その頃の生き生きとした五感を鮮やかに甦らせるからなのかもしれません。

まさに、「自由で、いくら遊んでも遊びたりない夏休み」の再現です。

人によっては、その幸福感にいつまでも浸っていたいと思うだろうし、実際、南の国にすっかり腰を落ち着けてしまい、もう日本には戻りたくないと感じる旅人もいるのではないでしょうか。

しかし、永遠に続く夏休みというものが存在しないように、そんな幸福な旅にも、やがて終わりがやってきます。

金がなくなれば、日本で金を稼ぐためにいったん帰国しなければならないし、あるいは将来への不安が頭をもたげてきて、旅を切り上げて日本社会に復帰することを考えざるを得なくなるかもしれません。

南の国での長い「夏休み」を終え、明日は日本に帰らなければならないという日。

その心境は、主人公のガンテツに言わせれば、「目のまえに白紙の夏休み帖をつみあげた八月三一日の気分」なのです……。


JUGEMテーマ:旅行

at 18:42, 浪人, 旅の名言〜旅の時間

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旅の名言 「毎日のかけがえのなさを……」

 人は、すべては永遠に続くものだと、心のどこかで思っています。昨日に変わらない今日があって、今日に変わらない明日があって、そうやって毎日がずっと続いていくような気がしています。
 でも本当は、永遠なんてこの世にありません。人も自分自身も、変わり続けています。親や恋人や友だちとの関係だって、時を経て、少しずつ形を変えていくように、すべてはちょっとずつちょっとずつ、その変化に気づかないぐらいの速さで、変わり続けています。毎日は当然のようにやって来るから、ほっといても朝が来てほっといても夜になるから、日常の重みを時に忘れてしまいそうになるけど、本当はいつだってかけがえのない時間が絶え間なく流れていて、そんな中で私たちは生きています。胸が痛いほど、切ない時を。噛みしめる間もないほど、生き急ぎながら。
 私は、そのことを忘れずにいる人が好きです。実際に旅に出る出ないは関係なく、毎日のかけがえのなさを知っている人はみな、私と同じ「旅人」だと思っています。そして、私は精神が「旅人」の人としか、本当の友だちにはなれないような気さえしています。


『ガンジス河でバタフライ』 たかの てるこ 幻冬舎文庫 より
この本の紹介記事

たかのてるこ氏のインド旅行記、『ガンジス河でバタフライ』からの一節です。

ちょっと感傷的すぎる文章かもしれませんが、その言わんとするところには、共感できる旅人も多いのではないでしょうか。

人は旅に出るとなぜか、これまでの自分の人生について振り返ってみたり、世界のさまざまな問題のことなど、大きなテーマについて考えをめぐらしてみたくなるものです。

これは、それまでの日常生活から心が解放され、自由な視点から自分と周りの世界について考えられるようになるからだと思いますが、それと同時に、旅そのものがもたらす独特の時間感覚も、そういう内省を促しているような気がします。

飛行機や汽車に乗って移動していくあのスピード感や、車窓を流れていく風景は、まるで時間を早回しにしているような感覚を旅人に与えます。

また、旅の始まりの鮮烈さ、さまざまな旅の出来事やトラブル、見知らぬ人々との出会いと別れ、そしていつかやってくる旅の終わりという一連の旅の展開は、まるで人生をダイジェスト版で体験しているかのように感じられることもあります。

時間が、ふだんよりも早く流れていくようなこの独特の感覚は、旅人に新鮮で痛快な感覚を与えてくれるのですが、その一方で、旅人は、私たちの人生の時間には限りがあること、その限られた時間はいまこの瞬間にも刻々と過ぎ去り、それを止めることは誰にもできないのだという厳然たる事実を、改めて突きつけられるのではないでしょうか。

旅人は、旅を重ねれば重ねるほど、その実感を深めていくのだろうし、それはいつか、旅をしている最中だけでなく、旅から戻っても常につきまとう消しがたい無常の感覚となって、旅人の生き方に強く影響していくのかもしれません。

そしてそれは、たかの氏のように、「毎日のかけがえのなさ」にしっかりと目覚め、限りある人生の時間を大切に過ごす姿勢へとつながっていくものなのだと思います。

実際に旅に出る出ないは関係なく、毎日のかけがえのなさを知っている人はみな、私と同じ「旅人」だと思っています。


ただ、この「旅人」たちは、その日常生活において、他の人々と違った何か特別な行動をしているわけではありません。

「すべては永遠に続くものだ」という幻想の中で毎日を漫然と生きている人も、「毎日のかけがえのなさ」に目覚めている人も、一見しただけではその生活に大きな違いは見られないでしょう。

それでも、たかの氏のような「旅人」は、そこにある微妙な、しかし実は大きな違いのようなものを、しっかりと嗅ぎ分けてしまうのだと思います。

それは、旅に出る・出ないとか、旅に何回出たか、という表面的な違いではなく、生きる姿勢の違いというか、今この瞬間の大切さにどれだけ気がついているかということが、物事への対応の仕方に微妙な形で現れてくるということなのだと思います。

そして、その基本的な姿勢を共有している人同士なら、いちいち余計なことを説明しなくても、互いに信頼し、深く分かり合えるような気がするということなのだろうし、そういう人たちと一緒だからこそ、旅先の安宿で盛り上がる旅人同士のように、つかの間の時を味わい、心から楽しむことができるのではないでしょうか。

もっとも、何回か旅をしたくらいで、誰もがそういう境地に簡単にたどり着けるほど、この世界は甘くはないのでしょうが……。


JUGEMテーマ:旅行

at 18:35, 浪人, 旅の名言〜旅の時間

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旅の名言 「インドに一週間くらいいると……」

インドに一週間くらいいると、もう一年もインドを旅しているような気になる。三週間もいると、一〇年くらいここにいるというか、日本にいたころが「前世」のような、少なくとも「前半生」であったような気になる。これは最初の時だけでなく、二回目も三回目も、いつもそうでした。ヨーロッパとかアメリカでは、決してそのような気分にならない。日本と同じように時間が流れる。このことはとても奇妙なことで、インドはものすごく非能率です。チケットを一枚買うのに半日も並んだりする。午前中にこれとこれ、午後にはあそことあそこに行こうと決めていても、そのうちの一つか二つで日が暮れてしまう。やれることはとても少ないのに、長くいたという気がする。数学的にいって矛盾です。


『社会学入門 ― 人間と社会の未来』 見田 宗介 岩波新書 より
この本の紹介記事

冒頭の引用は、インドやラテンアメリカなど、いわゆる開発途上国、あるいは近代化が進んでいないとされている地域を旅したときに、私たちが感じる時間感覚の違いについて、社会学者の見田宗介氏が触れている部分から抜き出したものです。

インドを旅した人ならご存知でしょうが、パックツアーではなく、現地を自由に旅しようとすると、とにかく大変な手間と時間がかかります。

ビザにしても、列車のチケットにしても、長時間並ばなければ手に入らないことが多いし、列車やバスはもちろん、飛行機でさえ当然のように遅れます。

道を歩けば怪しげな人物がやたらと声をかけてくるし、買い物で油断をすればボッタクリに遭い、時には旅行者自身がひどい下痢や病気に襲われて、旅の予定が大幅に狂ってしまうこともあります。

とにかく、何をするにも時間がかかるだけでなく、トラブルの頻度も多いので、知恵を絞ってそれらを乗り越えていかないと、目的地にたどり着くことはおろか、その日一日を平穏無事に過ごすことすら難しくなってしまうのです。

しかし、見田氏が言うように、インドにいるとなぜか濃密な時間を過ごしているような気がします。時間の進み方が遅いというか、「やれることはとても少ないのに、長くいたという気がする」のです。これは、本当に奇妙なことです。

もちろん、インドに限らず、見知らぬ場所を旅すれば、誰もが多かれ少なかれ時間の感覚が変わるのを感じるはずです。

新しい場所に行って、そこに慣れるまでの間は、どんな体験でも新鮮に感じられるし、強く印象に残るものです。そして、そうした時間というのは、慣れ親しんだ日本での日常生活にくらべれば、相対的に長く感じられるはずです。

しかしインドのような土地では、それがかなり強烈に感じられるのです。そこには、もっと別の要因も働いているのではないでしょうか。

見田氏はこの現象について、近代化の進んだ欧米や日本の人々の時間感覚と、インドやラテンアメリカに生きる人々の時間感覚が違うことを指摘し、私たちが時間を「使う」とか「費やす」というふうに考えるのに対し、近代「以前」の社会に生きる人々にとって、時間とは「使われる」のではなく「生きられる」ものなのだと言います。

だから、旅をすることで、時間を「使う」社会から、時間を「生きる」社会に移動するとき、私たちの感覚には、大きなズレというか、ギャップが生じているはずです。私たちのほとんどはその違いを頭で理解しているわけではありませんが、奇妙な時間感覚の違いとして、それを実感しているというわけです。

私たち現代社会の人間は、仕事の生産性を高めなければならないというプレッシャーから、あるいは、限られた人生の時間を楽しく有意義に過ごしたいと真剣に思うあまり、時間をいかに効率的に使うかという問題に日夜悩まされているし、時間を何かのために使うという発想も、まるで当然のことのように感じています。

私たちがインドのような土地で感じる奇妙な時間感覚は、時間を「使う」という考え方にとり憑かれてしまった私たちが、時間を「生きる」という、まったく別のあり方について、意識や理性のレベルでは気づかなくても、無意識や感覚のレベルではそれをしっかりと受けとめ、その違いを強烈に感じとっているということなのかもしれません。

見田氏は同じ本の中で、次のようにも書いています。

そういえばぼくたちでさえ、旅で不思議に印象に残る時間は、都市の広場に面したカフェテラスで何もしないで行き交う人たちを眺めてすごした朝だとか、海岸線を陽が暮れるまでただ歩きつづけた一日とか、要するに何かに有効に「使われた」時間ではなく、ただ「生きられた」時間です。


そう考えると、近代化の極のような社会に生きる私たちにとって、旅の醍醐味とは、いかに多く、効率的に見どころを見物して回るか、ということにあるのではなく、異質な社会に触れることをきっかけに、私たちが自明としている考え方から解き放たれ、ふだんは感じることのない別の感覚に目覚めること、あるいは、久しく忘れてしまっていた、遠い昔の感覚を思い出すことにあるのかもしれません……。


JUGEMテーマ:旅行

at 19:20, 浪人, 旅の名言〜旅の時間

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