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『サバイバル! ― 人はズルなしで生きられるのか』

Kindle版はこちら

文庫増補版(2016年)はこちら

 

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

この本は、「サバイバル登山」というユニークな登山スタイルの実践で話題を呼んだ、服部文祥氏のデビュー作『サバイバル登山家』の続編に当たります。

 

 サバイバル登山とは、食料や装備をできるだけ持たずに道なき道を歩く長期登山のことをいう。持ち込む食料は調味料と少々の米だけ。電池で動くもの(ライト、ラジオ、時計)や機械仕掛け(コンロ)、そしてテントも燃料も持って行かない。登山道や山小屋はできるだけ避けて通る。そうやって長く山登りを続けていく。
制約の多い窮屈な登山と思われるかもしれないが、禁止事項を並べているのは、説明するのにてっとり早いためだ。ひらたく言えば「自分の力で山に登る」ことを突き詰めた登山である。こうでもしないと現代では、文明品をはじめとする「他人の力」に頼ることになってしまい、自分の力で山に登ることなどできないのだ。

今回は一般読者向けの新書ということもあり、登山や釣り関係の用語についても丁寧なフォローが加えられるなど、山登りになじみのない人でも読み進められるような配慮がなされています。

本の前半には、日本海に面した青梅から上高地まで、北アルプスの山中を12日間かけて単独で縦断したサバイバル登山の様子が詳しく描かれています。それを読めば、服部氏の山登りのスタイルがどのようなものであるか、具体的に理解できると思います。

また、後半では、携行する装備のリストや解説に加えて、食料となる岩魚を釣る方法や焚き火のテクニックなど、サバイバルの方法の具体的な説明もあります。また、サバイバル登山の意味について、彼が何年もの実践を通じて培ってきた考え方も示されています。
 
 私には自由の明確なイメージがある。
原始の環境にたった一人で存在すること。それが私の自由だ。
天候によって快適と不快が左右され、われわれが日頃手にできるような食べ物は何もない。外敵におののき、害虫にも悩まされる。どこにいくにも時間がかかり、病気になっても頼るものはない。なんとも不自由な生活だ。しかし、それらすべての制約、強制は自然環境そのものから発している。
義務もルールも法律も、妻の小言や社会的責任も、予定も約束もいっさいなく、モンゴロイドのオス、身長一七五センチ、体重六三キロに立ち返ったそのうえで、自分の身体能力とこれまでの経験を駆使して、ただ感じるままに生きる。
そこには死ぬかもしれない自由まで含まれている。
サバイバル登山とはその「自由」を具現化するための方法に他ならない。物理的に日常の生活圏から遠のき、もろもろの力強い装備も街に置いていく。人間社会との関係を断ち切って、現代文明のディフェンス力圏外に身をおく。私という存在そのままになれる瞬間、これが私の究極の自由なのだ。
そんな状態で自分が何を考えるのか、何を感じるのかを私は知りたい。日常的にズルい生活を続けているので、せめてそこから離れたらどんな気がするのか感じたいのだ。
もしアクシデントがあっても誰も助けに来てくれない。人知れず死んで消えていく。そこまでして自由を求めるのは、「ありのままの自分」を求めているからだと思う。

もっとも、服部氏は原始時代に戻れと言っているわけでも、文明や便利な道具をすべて否定しているわけでもありません。ただ、山に入るときには、そうした要素を自らの登山から可能な限り削ぎ落とし、厳しい自然に直接向き合うことで、体力・技術・知識・判断力などを含めた自分の本当の力を試してみたいということなのだと思います。

そして、時には生と死がせめぎ合うようなギリギリの状況にあえて自らを追い込むことで、自分の中に浮かび上がってくる、「生きたい」というシンプルで純粋な意志を確認しようとしているのだと思います。

とはいえ、サバイバルの実践は生易しいものではないし、安心・安全・快適を求める世の中の風潮とも逆行しています。サバイバル登山というプロセスの価値も、あくまで個々人が内面的に見出していくもので、周囲の人々からの称讃や評価を期待できるようなものではありません。

この本の中でも、何を持っていくかという装備の選択や、実際にどこまで自分の理想を貫くかについて、現在も迷いや試行錯誤があることが正直に書かれています。例えば、蚊の猛烈な襲撃に耐えかねて蚊取り線香を持参したり、携行する食料に関して以前より自己規制が甘くなったり、山行の途中で避難小屋のデポ食料のカップラーメンに手をつけてしまったり……。

それにしても、この本は一見したところサバイバル登山の実践マニュアルのような体裁にはなっていますが、正直なところ、そのリスクや困難のレベルを考えると、この本に刺激されてそれを実行してみようという登山者は、たぶんごく少数にとどまるだろうという気がします。私も、登山すらほとんどしたことがないので、とてもマネをしようとは思いません。

むしろ、国立公園内で焚き火をしたり山菜を採ったりする彼の行為に対して、一般的な登山者のマナーという観点から批判的にとらえる人の方が多いかもしれません。アマゾンの書評を見ても、この本に関しては評価が両極端に分かれているようです。彼の直截で挑発的ともとれる文章が、読者を刺激してしまうということもあるのかもしれませんが……。

それでも、私個人としては、命懸けで一つのスタイルを追求し続ける服部氏の生き方には敬意を表したいと思うし、彼の立ち位置は、安心・安全・快適に向かってひたすら進み続ける私たちの社会のあり方に批判的に光を当てる一つの極として、今後も大きな意味を持ち続けるだろうと思います。


服部文祥著 『狩猟サバイバル』 の紹介記事


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします



JUGEMテーマ:読書 

at 18:55, 浪人, 本の旅〜日本

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『ニッポン地下観光ガイド』

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

この本は、日本の地下世界を旅するためのガイドブックです。

一般向けに公開されている25の地下施設や地下空間が全国各地からピックアップされ、「ライフライン」、「実験施設・研究所」、坑道や採石場などの「産業遺跡」、「洞窟&鍾乳洞」、地下壕などの「戦争遺産」という5つのカテゴリー別に、豊富な写真つきで紹介されています。

洞窟や坑道については、地下世界に特に興味がなくても、何かの観光のついでに見学したことのある人も多いかもしれません。私はこの本を見ながら、東南アジアを旅していたころ、あちこちで見た洞窟や鍾乳洞、そしてベトナム戦争の遺産である地下トンネルや、インドネシアのスマトラ島で見た旧日本軍の大規模な地下壕のことなどを思い出しました。

ただ、さすがに現代の最先端テクノロジーを反映した地下施設となると、地下鉄のトンネルや地下街は別にして、私もきちんと見たという記憶がありません。

そうした施設は、テレビでもときどき紹介されることがあるのですが、まるで地下神殿のような首都圏外郭放水路や、日比谷共同溝、首都高速中央環状新宿線などのトンネル群、地底の水力発電施設など、その迫力はとにかくその場に立ってみないと味わえないのでしょう。

地下施設、地下空間を旅する魅力は、地上とは異質な空間の広がりやスケール感、反響する音、温度・湿度・匂いなどといった五感への刺激や、そのトータルな感覚としての「異界」感にあるのでしょう。地上の一般的な観光地では少し物足りなくなってしまった人にとって、地下世界、特に最先端の地下施設は、残された数少ない観光のフロンティアの一つとして、今後大いに注目される可能性を秘めているのかもしれません。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします


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at 18:37, 浪人, 本の旅〜日本

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『神社の系譜 ― なぜそこにあるのか』

 

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

古代から多くの人々の信仰の中心となってきた宗教的な聖地というものは、そもそも、どうしてその場所に存在するようになったのでしょう? これは、考えてみればとても不思議なことで、人間の思考や理屈をはるかに超越した問題のようにも思われます。

この本は、そうした問題に光を当てる試みです。主に、神社の立地について書かれているのですが、神社と周辺の地形、あるいは神社相互の位置関係を読み解くための一つの方法として、著者の宮元健次氏は「自然暦」に着目しています。

「自然暦」とは、古代人が太陽の動きを神社の配置に応用したものです。夏至や冬至、春分や秋分の日の出や日没が、ある神社から見て、山の頂上とか、祖先の墳墓や他の神社など、特定の場所で起きるように全体がセッティングされており、このような仕組みは世界各地でも見つかっているようです。

この本では、伊勢神宮、出雲大社、熊野本宮大社、日吉大社、鹿島神宮といった、日本の超有名な神社が次々に紹介され、その周辺の重要な神社や古代遺跡、山などの自然物が、自然暦のライン上にきれいに乗っていることが示されています。

驚くべきは、そうした自然暦に基づくラインが、各々の神社周辺の地域に適用される小規模なものだけではなく、日本を横断するほどの長大なラインも見つかっていることです。

例えば、鹿島神宮から西へ向かい、諏訪大社、出雲国府跡を貫く東西のラインは、さらに海を越えて、かつての新羅の都である慶州にまで達しているといいます。

古代人は、このような正確なラインを導き出すために、一体どのようなテクノロジーを用いていたのでしょうか? この本では、当時の人々が具体的にどのような作業を行ったかについては触れていませんが、いずれにしても、こうしたラインによって日本各地を結ぶために、莫大な時間と労力が費やされたことは確かでしょう。

それにしても、自然暦の面白いところは、ある一つの神社ではなく、周辺の地形や神社相互の配置が描き出す全体のパターンを把握することによって、初めてそこに意味が浮かび上がってくるということです。つまり、ある特定の場所自体に意味があるというよりは、自然暦のシステム内において、それぞれの場所と他の場所との相対的な位置関係が意味を生じさせるのです。

そして、このシステムのすごいところは、その一部が災害や戦火によって失われたり、時代とともに忘れ去られたりしても、自然暦を理解している人間さえいれば、残された部分から全体のパターンをいつでも復元したり、補強したりすることが可能だということです。

それは、研究者にとっても同様で、いったんそのシステムの存在に気がつきさえすれば、ライン上の寺社相互の関係や、それらを創建したり、深く関わりをもった人物がそこに秘めた意図が、芋づる式に浮かび上がってくるのです。

日本の場合、古代人の作り上げたこのような自然暦上のポイントが、今でも聖なる場所として信仰の対象となり、保存され続けているというのは驚くべきことですが、別の見方をすれば、それは、自然暦のシステムを保持し、強化し、新たなシステムをつけ加えるという作業が、時代を通じて人々に受け継がれ、何度も繰り返されてきたということなのでしょう。

実際、この本の中でも、古代人だけではなく、豊臣秀吉公や徳川家康公が自らの神格化を図るため、その墓所の配置に自然暦のラインを応用した例や、また、明治以降の東京においても、新たな神社や施設の配置にこうしたシステムを応用したとみられる例が示されています。

もちろん、自然暦という観点だけで、聖地や寺社の立地をすべて説明できるわけではないし、こうした人工的な秩序形成システムが導入される以前、つまり「自然暦以前」の世界において、聖なる場所がどのようにして見出されたのかという問題は依然として残るのですが……。

それはともかく、昔の人にとっては、太陽の運行と聖なる場所が密接に関わりあっていることなど、改めて説明されるまでもない、常識に属することだったのかもしれませんが、私のような現代人にとっては、こうした自然暦の仕組みを知ること自体が、新鮮な驚きだったりするのです。

思えば、私自身、最後に日の出を眺めたのはいつのことだったのでしょう……。

私のように、日常の生活が自然のリズムからすっかり離れてしまった人間こそ、何か基本的で大事なことをこれ以上見失わないためにも、こうしたことを知っておく必要があるのかもしれないと思いました。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
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at 18:55, 浪人, 本の旅〜日本

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