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旅の名言 「アパートの部屋から一歩も出ない……」

 アパートの部屋から一歩も出ない外こもりの暮らしは、東南アジアの人々の発想や生活スタイルに染まっていった結果でもある。
 暮らしてみるとわかることだが、タイ人という民族は、本当に怠惰な人たちだと思う。なんとか楽をしたい――という方法論を、タイで起きている現象やブームに当てはめると、なぜかきれいに解明されてしまうことがある。そんなとき改めて、タイを感じてしまうのだ。

『日本を降りる若者たち』 下川 裕治 講談社現代新書 より
この本の紹介記事

旅行作家の下川裕治氏の著作、『日本を降りる若者たち』からの一節です。

海外を旅するバックパッカーや長期放浪者の間で有名な言葉に、「沈没」というのがあります。長旅を続けるうちに、病気や旅の疲れ、旅の目標の喪失など、さまざまな理由から一時的に動けなくなってしまい、同じ安宿に何週間、何カ月も沈澱したまま、何をするでもなくブラブラと過ごしてしまう現象を言います。

もちろんその中には、現地の人と恋に落ちてしまい、どうしてもその土地を離れられなくなったとか、現地の食文化に魅了され、ついつい長居をしてしまうというようなケースもあるわけですが、それでも旅人の旅人たるゆえんが「移動」にあるのだとすれば、「沈没」は、旅人の本来の姿からの逸脱ということになるのかもしれません。

ただ、最近では、むしろ旅の初めから「沈没」的な生活こそを目的として、例えばタイのバンコクなどにアパートを借りて長逗留する日本人が増えているといいます。『日本を降りる若者たち』では、「外こもり」と呼ばれるそうした人々の生活ぶりや、彼らがそうした暮らしを始めるに至った背景が取材されています。

彼らの多くは、日本で派遣やアルバイトの仕事をして旅費を貯めると、アジアの国々でのんびり過ごしながら、そのお金が尽きるまで節約生活を送ります。中には、スーパーでの買い物など、必要最小限の外出以外はアパートに閉じこもって暮らす人もいるようです。

そうした生き方をする日本人は昔から存在したのですが、最近になってその数が増え、数年前に「外こもり」という新たな言葉も生まれたことで、日本のマスコミでもたまに取り上げられるようになりました。

彼らがそういう生活に至った道のりは人によってさまざまで、そこには本人のパーソナリティや、人生の中で抱えているさまざまな問題が深く影響しています。

また一方で、彼らがタイを始めとするアジアの国々にやって来て、日本では味わったことのないような心からの解放感や安心感を感じているという側面もあります。それは、逆の見方をすれば、彼らを結果的にはじき出してしまった日本社会の息苦しさや不寛容を示しているとも言えます。

「外こもり」という日本語には、「ひきこもり」と同じく、何か否定的なニュアンスが色濃くつきまとっています。しかし、下川氏が指摘しているように、そうした生き方が「東南アジアの人々の発想や生活スタイルに染まっていった結果」なのだとすれば、それはむしろ、異国からやってきた人間が現地の生活文化に適応するごく自然なプロセスの結果だと言えるし、現地の人々の目にも、彼らの姿は何の違和感もなく映っているのかもしれません。

そう考えると、彼らを「外こもり」と呼んでひとくくりにしてしまい、何か特殊で、病的なものをそこに見ようとすることは、実は、現代日本人の東南アジアに対する偏見の裏返しに過ぎないのかもしれません。

下川氏は、タイ人のことを、「なんとか楽をしたい」という発想がすべての行動の原点にあるという意味で、「本当に怠惰な人たち」だと言います。これは、かなり誤解を招きやすい表現で、現在の日本社会では非常にネガティブな意味に受け取られかねないのですが、考えてみれば、「楽をしたい」という発想そのものは、むしろ人間としてごく自然なことです。

以前に、写真家の藤原新也氏の、「東南アジアの空気の中には人を睡眠に誘う素粒子が含まれているように思われることがある」という名言を紹介したことがありますが、人をトロリとした眠りに誘う東南アジアの気候風土と、あくせくしなくてもそれなりに生きられてしまう豊かさの中では、物事の流れに余計な介入をしたり、無駄にジタバタしたりすることなく、必要最小限の労力でゆったりと日々を過ごすことがむしろ美徳であるのかもしれません。

実際、タイ人たちが、あの帝国主義の殺伐とした時代に国としての独立を貫いたことを考えるなら、彼らは一見怠惰なように見えながら、実は高度なバランス感覚に裏づけられた、老練でしたたかな生き方を実践してきたと言うべきなのかもしれません。

もっとも、こういう言い方はタイ人を持ち上げすぎで、私がタイ人の中に、タオイストの理想みたいなものを勝手に投影しているだけなのかもしれませんが……。

しかし少なくとも、「外こもり」と言われている人たちは、「日本を降り」て、自分なりの居場所と別の生き方を模索する中で、アジア的な「怠惰」こそ、むしろ彼らにとっての救いのように見えたのかもしれないし、とりあえずそれに身を任せて生きる道を選んだのではないでしょうか。

そこでは、豊かさと経済成長の神話に身も心も捧げる必要はないし、いつも時間に追われてイライラすることもありません。また、限られたパイを常に奪い合う過酷な競争もなければ、社会全体がピリピリして、ささいなことで他人を糾弾し合うこともありません。

ただ、タイも今や、物質的な豊かさを求めて急速な経済発展の途上にあるようです。

そのうちにタイ人も、冷房をガンガン効かせたオフィスで忙しく働くことこそ美徳であって、「楽をしたい」などと考えるのはおぞましいと思うようになり、「外こもり」の外国人たちにも奇異と非難の目を向けるようになってしまうのかもしれません……。


JUGEMテーマ:旅行

at 19:04, 浪人, 旅の名言〜土地の印象

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旅の名言 「世界の辺境にはね……」

「世界の辺境にはね、コカコーラ・ラインというのがあるんですよ」

『夢を操る』 大泉 実成 講談社文庫 より
この本の紹介記事

夢をコントロールするという不思議な民族、セノイ族に会うために、半島マレーシアのジャングルを旅した大泉実成氏の旅行記、『夢を操る』からの一節です。

冒頭の引用は、大泉氏の取材に同行した、カメラマンの吉田勝美氏の言葉です。彼は少数民族の取材などで、世界の秘境・辺境への旅を繰り返してきました。

その豊かな経験から、ある場所で冷えたコカコーラが飲めるかどうか、という極めてシンプルで具体的な事実が、そこが文明に属しているか、それともそうではない秘境・辺境に属しているかを見分けるポイントになるというのです。

さすが、文明社会と秘境との間を何度も行ったり来たりしている人ならではの鋭い観察です。

彼が説くところによれば、コカコーラというのは文明の象徴であって、あの「スカッとさわやか」を維持するのは辺境ではたいへんに難しい。第一にそこまで電気が来てなければいけないし、コーラを運ぶトラックが通れるくらいの広い道も必要だ。第二に、貨幣経済が成立していなければならない。要するにそこでお金が流通していなければならないのである。さしものコカコーラ・ボトラーズさんも、金のかわりにイモ虫とかグリーンスネークとかセミとかを物々交換で持ってこられては、きっと難儀なさることであろう。
 すなわち、そのラインのこちら側にいるときはいつでもキンキンに冷えたコーラを飲めるが、その一線を越えてしまうと決してキンキンコーラが(そしてビールも、こちらのほうが大事だが)飲めなくなってしまう境界線、それがコカコーラ・ラインなのである。そして吉田さんは、コカコーラ・ラインを越えたところこそ、秘境であり辺境だ、と言うわけである。 (中略)
 開発という行為は、このコカコーラ・ラインをじりじりとあちら側へ広げていこう、押し進めていこう、という営みでもある。そして吉田さんは、世界中でこのコカコーラ・ラインが、じりじりとあちら側に侵蝕しているのだ、と言うのである。
 コカコーラを飲める、というのは、幸せなことなのか、それとも不幸なことなのか……。

今や世界のほとんどの国の都市部では、コカコーラか、少なくともそれに類する「キンキンに冷えた」清涼飲料水が流通しているはずです。それを飲む人々の人種や民族はさまざまですが、「スカッとさわやか」という快楽を共有しているという意味で、同じ文明人としての生活を享受しているわけです。

考えてみれば、私自身は、トレッキングなどを除けば、このラインを越えて、向こう側の世界に足を踏み入れたことがほとんどありません。

吉田氏の定義をあてはめると、バックパッカーが旅しているような場所のほとんどは、たとえ秘境の香りを漂わせていても、それはラインの内側、つまり文明世界の側に属していることになってしまうからです。

見知らぬ土地に出かけ、自分ではいっぱしの冒険をしているつもりになっていても、一日中汗だくで歩いた後には冷たいビールを飲みたいとか、現地の食事に飽きて、たまには和食でも食いたいとか思ってしまうようでは、やはり文明世界の外に出て、本当の意味での異世界を旅するのは難しいのでしょう。

しかし、この「コカコーラ・ライン」の最前線は、現在でも止むことなく前進しつつあり、その向こう側の秘境・辺境と呼べるようなエリアは、どんどん狭まりつつあります。

そして、皮肉なことに、多くの旅行者が秘境に憧れて世界のあちこちを旅すればするほど、そこには観光開発の波が押し寄せ、「コカコーラ・ライン」をさらなる奥地へと前進させてしまうことになるのです。

もっとも、現地では、自分の村に開発の波がやって来ることを首を長くして待っている人もけっこういるのかもしれないし、実際のところ、電気が通り、立派な道路が開通すれば、彼らの生活水準は飛躍的に向上するはずです。

そこに暮らしたこともなく、その本当の不便さを味わったこともない通りすがりの旅人が、止まらない開発を嘆き、秘境をそのままにしておいてほしいと願うなら、それは都会人のエゴに過ぎないのかもしれません。

それでも、文明社会の提供してくれる人工的なエンターテインメントに飽きてしまい、それ以外の「何か」を求めずにはいられなくなってしまった人間は、秘境に行けばその「何か」が見つかるのではないかと、つい思ってしまうのです。

そして、そうした人間にとって、本当の意味での秘境がこの地球上から消えつつあるという事実は、とても淋しいものに感じられるのです……。


JUGEMテーマ:旅行

at 18:40, 浪人, 旅の名言〜土地の印象

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旅の名言 「妙ないい方かもしれないが……」

妙ないい方かもしれないが、インドという国は物乞いが生きていけるほど豊かなのだと思った。貧しい国にはふたつのタイプがあるのだ。物乞いすら支えることができない底なしの貧困と物乞いの哀れな姿が語りかける貧困である。ある人は、インドをバクシーシ三千年の歴史といったが、この国は物乞いを養えるほどの豊かさを三千年も享受してきたのである。
 アフリカからやってきた僕の目に映ったインドは、享楽の国であった。夥しい数の人々が、バクシーシめあてにさまざまなパフォーマンスを演じてくれるのである。確かにそこには退廃の臭いがしないではなかったが、金のない貧しい旅行者には楽しすぎる国に思えてしかたなかった。
『アジアの弟子』 下川 裕治 幻冬舎文庫 より
この本の紹介記事

旅行作家の下川裕治氏の半生記、『アジアの弟子』からの一節です。

「インドという国は物乞いが生きていけるほど豊かなのだ」という表現は、確かに「妙ないい方」に聞こえるし、誤解を招きやすい表現かもしれません。

でも、よく考えてみれば、本当にものすごく貧しい社会ならば、家族や仲間を助けることはおろか、自分一人が生き延びるだけで精一杯で、ましてや血のつながりもない、赤の他人に手を差し伸べる余地などないのではないでしょうか。

そういう環境では、物乞いが生きられる可能性などあり得ないし、何らかの理由でそういう状態に陥ってしまったら、人は飢え死にするしかありません。

そう考えると、インドの貧しさの象徴のように思われている物乞いも、実はインドの人々が彼らの生活を支えていることを示しているのであり、そして、インド社会にはそうするだけの余力があるのだ、ということになります。

ただ、インドを旅した人なら分かると思うのですが、インドに足を踏み入れ、その風土と人々に直接向き合う「インド体験」には、豊かさや貧しさをめぐるそうした理屈を超えた、もっとパワフルな「何か」があるように思えます。

そしてそれは、アジアに惹かれ、旅を通して長い間アジアと付き合ってきた下川氏のさまざまな著作から感じられる「何か」にもつながっているように思います。

五感、感情、思考のすべてを通して旅人の心に突き刺さってくるインドの現実は、生半可な正義感や、どこかで借りてきた理屈など簡単にはじきとばしてしまいます。

ひしめきあう人間のパワーと混沌に一度屈服し、余計な理屈をはぎ取られてインドと向き合う旅人の心には、「貧しさ」というステレオタイプな言葉では表現しきれない、インドという異世界の迫力がダイレクトに伝わってくるかもしれません……。


JUGEMテーマ:旅行

at 18:53, 浪人, 旅の名言〜土地の印象

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